第8話
絶対定時。
絶対定時。
イオリとの約束の金曜日。
俺の頭の中は、ひたすらそれだけだった。何があろうと、今日だけは絶対に定時で会社を出る。
その為に、前日はかなり残業した。それでも仕事は次々と沸いてくる。とにかく、今日中にやらなければならない事だけをこなし、他の仕事は来週に回す。
今日、誕生日を迎えるイオリを待たせるような事は絶対にしたくない。
「お前、今日はなんか鬼気迫る感じだな。」
上司に怪訝そうな顔で言われてしまった。
気合いを入れた甲斐あって、なんとか定時で退社する事ができた。一部の仕事仲間からは、嫌な顔をされたり、わざとらしく時計をチラ見されたりしたが、気にしなかった。
そういえば、定時に会社を出るなんて何年ぶりだろう。凄く健全な感じがする。
ちょっとした感動を覚えながら、俺は、イオリの家に向かうべく、いつもと違う電車に乗り込んだ。
電車に揺られながら、俺とイオリの関係って何だろうと、ふと思った。当然、イオリの親御さんもいらっしゃるだろうが、俺は自分をどう紹介すれば良いのだろうか。
友達と言っていいのか? 10歳くらい離れているのだが、不自然じゃないだろうか。
いや、明らかに不自然だ。高校生と社畜リーマン。一体どこに接点があるというのだろう。 Twitter で知り合ったなんて言ったら、親御さんは心配するに違いない。 イオリは、親御さんに俺の事をどう伝えているんだろうか。
急に心配になってきてしまった。 というか、家に招待されて一番最初に考えるべき事を、何故今頃考えているんだ、俺は。定時で帰る事と、何をプレゼントしたらイオリが喜ぶかという事、その2つしか考えていなかった。
そんなこんなで頭を悩ませているうちに、イオリの最寄り駅に着いてしまった。考えはまとまっていなかったが、イオリを待たせる訳にはいかない。下車し、改札へ向かった。帰宅ラッシュの時間であるにも関わらず、人が少なく、静かな駅だった。改札を通るとイオリがいた。
「イオリ、お待たせ。」
俺は声をかけた。
「そんなに待っていませんので、大丈夫です。お疲れ様です。スーツなんですね。」
「あ、あぁ。ピアニストは基本的にスーツだぜ。」
ほんとかよ。設定がだいぶ雑になってきているな。
イオリの家は、駅から徒歩 10 分程度のところにあるマンションの3階だった。まるで、結婚のご挨拶をする時のように、心の準備が出来ず、緊張している俺をよそに、イオリはずんずんと歩を進める。
「ここが、僕の家です。」
「あ、イオリ、ちょっと俺まだ心の準備…」
「ただいま。」
「ちょっ…!」
俺が言い終わる前に、イオリは玄関のドアをあけた。俺があたふたしていると、すぐに中からイオリのお母さんが小走りでやってきた。
「かあさん、先日話をしたピアニストの男爵さんだよ。」
いや待て待て。何だその紹介は。怪しさ満点じゃないか。こいつがピアニスト?そもそも男爵さんって何?って、思うに決まっている。俺は、真っ青な顔で固まり、お母さんの第一声をビクビクしながら待っていた。
「あら、いい男やん!」
イオリのお母さんの口から飛び出したのは、まさかの陽気な関西弁。イオリのお母さん、こういうキャラなのか?
「は、はい!あ、いえ、あの、いつもイオリくん…じゃなくてイオリさんには、お世話になっています。」
俺はしどろもどろになってそう言うと、頭を下げた。
「あぁ、ええでええで!そんな改まらんでも。今日はイオリのためにわざわざありがとうなぁ。まぁ、玄関先で突っ立っててもしゃーないから、あがってあがって。」
イオリのお母さんはそう言って俺を中に招いた。とてつもなく陽気な人だ。イオリのキャラとの差がすごい…。
「男爵さん、どうぞあがって下さい。これ、スリッパです。」
イオリがスリッパを足元に置いてくれた。いつまでも突っ立っていても仕方ないので、俺はスリッパを履いて、中に入った。
「イオリ、お前、俺の事どういう風にお母さんに説明してあるんだ?」
廊下を進みながら、俺は、こっそりイオリに小声で耳打ちする。
「最近、知り合ったピアニストで、男爵さんという方と伝えていますよ。」
イオリも小声で返した。
「いや、それ、何者だよって思わないか?イオリとは年も離れてるし、そもそも男爵って何だよって思うだろ。」
「母はそんな細かい事は気にしませんよ。名前とか職業より人を見るタイプですから。男爵さんなら大丈夫です。」
「うーん、そういうものだろうか…。だいたい、どこで知り合ったのか不審に思うだろ。」
「あ、それは、この間のクラシックコンサートで知り合ったと伝えてあります。」
「なるほど…。」
不安な部分はあったが、とりあえず納得する事にした。
リビングに案内された。
白を基調とした広いリビングで、テーブルの上には、如何にも腕によりをかけたといった感じのご馳走の数々が並んでいた。ローストビーフにチキンにサラダにスープ…。確かに、これはイオリだけじゃ食べきれないなと思った。
「さ、座って座って。」
「あ、すいません。」
椅子を進められ、おどおどしながら席についた。イオリは俺の隣に座った。
「じゃあ、えーと、男爵くんでいいのかな?」
「あ、えぇと…。」
本名を名乗るべきかと悩み、俺が言葉に詰まっていると、横からイオリが言った。
「いいと思うよ。」
何でお前が答えるんだよ!と思ったが、なんだかもうどうでもよくなってきた。
「じゃあ男爵くん。よろしく。ビールでいい?」
「あ、は、はい。頂きます。」
「もう、そんな緊張せんといて!肩の力抜かなあかんで!」
お母さんは俺の肩をわしゃわしゃと揉んでから、冷蔵庫にビールを取りに行った。
「お母さん、イオリとキャラ違い過ぎじゃない?」
俺はまたイオリに耳打ちした。
「それは僕も感じています。どこでどう遺伝子が変異を起こしたら、あんなに明るい人から僕みたいな陰キャラが産まれるのでしょうね。」
イオリが珍しく自虐した。しかも、これまためずらしく、 " 陰キャラ " という若者言葉をさり気なく織り交ぜてきた。それがなんだか少しおかしくて、クスッと笑ってしまった。
「何2人でこそこそ喋っとんねん。はいビール。伊織はジュースでええな。」
イオリのお母さんが俺の前には缶ビールを置き、イオリの前のコップには冷えた緑茶を注いだ。
「ありがとうございます。頂きます。」
俺は缶ビールのタブを開けた。プシューといい音がした。
「じゃあイオリ、誕生日おめでとう!」
イオリのお母さんは勢い良く缶ビールを掲げ、俺ら 3 人は乾杯した。
「でも、ほんま、男爵くんが伊織と仲良くしてくれてよかったで。」
「いえ、俺の方こそですよ!普段高校生と話をすることなんてありませんから、イオリ君といる時間はなかなか新鮮ですよ。」
イオリのお母さんは、3 本目の缶ビールを開けた。俺も 2 本目を頂いており、かなりいい気分になってきていた。
料理もとてもおいしく、恥ずかしいくらいの勢いで食べてしまった。普段、一人暮らしということもあり、手作りの料理が胃袋に染みた。
ただ、イオリが食べきれないと言っていた通り、この量はやはり 3 人位で調度いいなと思った。まして、イオリは 0.5 人前くらいしか食べないからなぁ。
「男爵さん、食欲すごいですね。」
少し驚いたようにイオリが言った。
「こんなに上手いんだから、そりゃ沢山食べちゃうよ。」
「そう言って貰えると作り甲斐があるわ。この子はホンマに食欲ペラッペラやからなぁ。」
イオリのお母さんが言った。
「そうだぞ、イオリ。もっと食べないと成長期終わるぜ。」
「それは、僕の満腹中枢が決めることですから。」
そう言うと、イオリはぷいとそっぽを向いた。ちょっと機嫌を損ねたようだ。
「今日は、男爵くんが来てくれてホンマよかったで。この子が家に誰かを呼ぶ事なんて今まで殆どなかったから、よっぽど男爵くんの事を気に入ったんやと思うで。」
イオリのお母さんは上機嫌で言った。イオリの方を見ると、相変わらずの無表情ながらも、少し顔を赤らめていた。そんなイオリが可愛く思えて、少し意地悪したくなって聞いた。
「そうなのか?イオリ。」
「…ご想像にお任せします。」
イオリは、そっぽを向いたまま答えた。そんな俺らのやりとりを、イオリのお母さんは微笑ましそうに見て、次の缶ビールを手に取った。
しばらくして、ケーキが登場する。17 本のローソクに火をつけ、イオリの誕生日を祝う。 いつもは、親子 2 人でお祝いをしているそうだ。そこに俺が加わった事で、イオリは少し緊張しているように見えたが、喜んでくれているようにも見えた。
「イオリ、これ俺からプレゼント。」
俺は前もって用意していたプレゼントを手渡した。
「そんな…、いいんですか?」
「勿論!よかったら開けてみてよ。」
イオリは、遠慮がちに俺からプレゼントを受け取り、ゆったりとした動作で中を開けた。
「お、よかったなぁ、伊織。」
中を覗き込んだイオリのお母さんが、イオリより先にリアクションをした。プレゼントは、長袖のシャツだった。イオリの趣味がわからなかったので、無難にモノトーンのものを選んだのだ。
「ほら、イオリ、私服をあまり持ってないとか、センスがないとか言ってたから。いや、俺もセンスなんてないんだけどさ。よかったらどうかなと思って。」
イオリは T シャツを袋から取り出し、両手で広げて暫く無言で眺めていた。気に入らなかったか?不安になってイオリの反応を待った。すると、 T シャツから俺に目線を移して言った。
「男爵さん、ありがとうございます。嬉しいです。」
俺は、そのイオリの顔を見て驚いた。
「笑った…。」
思わず口に出して言ってしまった。あの無表情なイオリが笑顔を作っていたのだ。
満面の笑みではなく、微笑という感じだったが、初めて見るイオリの笑顔である事に変わりはない。
笑うと小さくエクボができた。
可愛い笑顔だと思った。
「あら、伊織が笑うなんて珍しいやん!この子、いつも仏頂面やから。」
イオリのお母さんが相変わらずの調子で言った。イオリ自身も無意識の笑顔だったのだろう。俺とお母さんに驚かれて、みるみる頬を赤らめた。
「ぼ、僕、お手洗いに行きます…!」
そう言うと、イオリは、逃げるようにトイレに向かった。 その様子を見ていた俺とイオリのお母さんは、顔を見合わせて笑ってしまった。
「伊織、相当嬉しかったんやと思うで。」
イオリのお母さんは言った。
「そうですかね?」
「そうやで。あの子本当に滅多に笑わへんから、心配してたのよ。あんな無表情で学校でも友達とかちゃんといてるのやろか…ってな。」
イオリのお母さんは笑いながら言っていたが、次の瞬間、少し真面目な顔になった。
「男爵くん、また来てな。」
そう言ったイオリのお母さんの表情は、少し寂しそうだった。
「はい、またお邪魔させて下さい!」
俺は言った。無意識だったけど、少し声が大きくなってしまったと思う。
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