第7話
イオリと一緒に近くの楽器屋へ入った。イオリは、クラシックの楽譜を何冊か探していた。
「なぁ、イオリ、ピアノ弾いてみてよ。」
試弾可能なピアノが近くにあったので、それを指差して言った。
「いえ、僕は人前では弾かないので。」
「発表会とかで人前で弾くだろ?」
「それは別です。こういう公共の場では弾きません。男爵さんこそ、何か弾いてください。」
おっと、藪蛇になってしまった。断ろうとしたが、イオリは既にヘッドホンを付けて待機していた。
「ちゃんと暗譜してねーから、間違えるかもしれないけど、いいな?」
「勿論です。」
俺は、シューマンのトロイメライという曲を弾いた。子供の頃にコンクールに向けて何度も練習した曲で、未だに指がある程度覚えていた。
ヘッドホンはイオリが付けているので、弾いても、俺自身には音が聞こえない状態だった。なんだか不思議な感覚だ。こういう形で人にピアノを聴かせたことはなかった。
「はい、終わり!」
冒頭だけ簡単に弾いてから、鍵盤から指を離した。はぁ、変に緊張してしまった。
「やっぱり、いいですね。男爵さんのピアノ。」
イオリは、ゆっくりとヘッドホンを外しながら言った。
「本当かよ。」
「本当ですよ。優しくて温かい音色です。こういう音を奏でられる人は、なかなかいませんよ。」
「そ、そうか…?」
俺をまっすぐに見て、イオリは言った。改めてそう言われ、照れと嬉しさを同時に感じた。
なんだろう、人から褒められたのが随分久しぶりのような気がした。最近、仕事では怒られてばっかりだしな。
「でも、その中に、少しだけ迷いのようなものも感じました。最近、何か悩んでいたりしませんか?」
え、そんな事わかるのか。音色を聴いただけなのに‥。俺、そんなに悩ましげな音色を奏でてたかな。
「まぁ、大人になると悩みの 1 つや 2 つあるからな。」
「お仕事…ですか?」
「そうだな。」
「辞めたいと思う事、ありますか?」
イオリがじっと俺を見つめて、そう事を聞いた。イオリがじっと相手を見つめる時は、真剣に答えを求めている時だ。
「あるよ。これが本当に自分のやりたい事なのかって考えたりするよ。」
俺は正直に答えた。自分は何の為に仕事をしているのか、何にやりがいを感じているのか、毎日自問自答している。
もしかしたら、俺はいかにも " 悩んでいます " というような表情をしていたのかもしれない。イオリは、静かにこう言った。
「男爵さん、ヤドカリは自分の成長に合わせて、自分に合った貝を探して、住まいとして選ぶらしいですよ。」
「ん?ヤドカリ?」
急に話が変わったのかと思ったが、イオリは続けた。
「はい、ヤドカリです。人もきっと同じで、探し続けていくのだと思います。自分に合った場所を。」
あぁ、そういう事か。と納得すると同時に、そのイオリの言葉が妙に心を打った。
自分に合った場所を探し続ける、か。
「それにしても、やっぱりピアニストって大変なんですね。男爵さんほど演奏が上手でも辞めたいと思ってしまうのですから。」
あ、しまった。
俺は現実ではシステムエンジニアだが、イオリの前ではピアニストだった。今ここにいる自分は、裏アカが作り出したいわば空想の存在なのだ。またうっかりその事を忘れて、ついつい本音を漏らしてしまっていた。
「そ、そうだな。毎日ピアノの練習ばっかりだし、周りに上手い人もいっぱいいるし、やっぱり色々悩んだりはするよな。」
そう言って、なんとか誤魔化した。
「そうですか。僕も、今はピアニストを夢見ていますけど、いざそうなったら辞めたいと思う事もあるかもしれませんね。」
イオリが言った。
「いや、それはないよ。絶対に。」
俺は、イオリの一言を、自分でも驚くほどはっきりと否定した。
「何故ですか?」
イオリも、少し驚いた様子で聞き返した。
「何故って聞かれると難しいけど、イオリは、自分の心に素直だからさ。自分の決めた目標に向かってまっすぐ、ただひたすらまっすぐに進んでいる印象があるよ。それだけ真剣になれるものは、きっと " 本物 " なんだよ。うまく言えないけど、イオリはきっと大丈夫だ。」
イオリのようにうまい表現が見つからなかったが、何か伝わってくれたらいいなと思った。
俺の言葉を黙って聞いていたイオリは、少し間を置いて言った。
「男爵さん、僕、来週の金曜日、誕生日なんです。」
「おぉ、そうなのか。おめでとう。」
「ありがとうございます。それで、よかったらうちに来ませんか?」
「あぁ!って…、え、いいのか?」
突然の誘いに俺は驚いた。
「はい。母がせっかくの誕生日なんだから、友達を呼びなさいと言うのですが、これと言って、家に呼びたいと思う友人がいないので。それと、母が毎年張り切って料理を作ってくれるのですが、食べ切れなくて…。男爵さんがご迷惑でなければどうかなと思いまして。」
彼は無表情だから、感情を読み取るのが難しい。でも、イオリは、俺に対して、それなりに心を開いてくれているのかな、と思うと嬉しかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔させてもらおうかな。」
俺は、笑顔でそう答えた。
この日は、イオリは楽譜を 2 冊買った。せっかく誕生日なんだし買ってやろうと思ったが、「ラーメンを奢ってもらっただけで充分です」と全力で遠慮されてしまった。
金曜日も手ぶらでいいと言われたが、そんな訳にも行かないので、まぁ何か準備しておくか、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます