第5話
俺らは、会場に入り、入口でチケットを渡した。
並んで歩くと、イオリはより小柄な感じがした。身長は 160 センチ前半くらいだろうか。まぁ成長期だから、これから伸びるのかもしれないが。
それにしても、冷静に考えるとおかしな状況だ。男子高校生とクラシックの演奏会を鑑賞するなんて。なんか、シュールだな。
「バイオリニストとかと違って、ピアニストは自分のピアノを持ち歩けないから大変ですよね。」
「え、あ、あぁ。そうだなぁ。」
一人で考え事をしていると、イオリが突然尋ねてきたので、ふと我にかえった。
そういえば、俺はピアニストという事になっていたな。イオリが男の子だった事が衝撃過ぎて、危うく自分の設定を忘れかけていた。
「まぁ、他の手持ちの楽器とは違うからな。ピアニストは大変だよ。ははは。」
自分の口から嘘を付くのは、文字だけのやり取りであるTwitterと随分違う。なんだか、声が震えそうになって、変な笑いを付けてしまった。
それに対して、イオリは特に何も思わなかったようで、続けてこう言った。
「そうですよね。ウラディーミル・ホロヴィッツなんかは、自分の愛用するピアノを持ち込んでいたそうですが、その方が稀有ですもんね。」
「あぁ、聞いたことある。それも凄いよな。好きなのか?」
「はい、彼は、僕の尊敬するピアニストの一人です。」
彼は淡々と答える。
まだほんの数分しか話していないが、こいつって本当に無表情だよな、と思った。
「そういえば、イオリはなんでピアニストになりたいんだ?」
今更な質問だったが、そういえば聞いていなかったなと思い、聞いてみた。
すると、イオリがふとこっちを向いた。
その時、初めてちゃんと彼の目を見た気がした。まっすぐ俺の方を見る眼鏡の奥の瞳は、何故か少し寂しそうだった。
つい見つめすぎたせいか、イオリがさっと目を伏せ、相変わらずの無表情のまま言った。
「小さい頃、お母さんが色々と習い事をやらせてくれていたみたいなのですが、どれにもあまり興味を示さなかったようなのです。その中で唯一、楽しそうにやっていたのがピアノで、それからずっとピアノは続けています。」
俺らは、指定席を見つけた。
コートを手に持ち、座席に腰掛けるとイオリは話を続けた。
「ピアノの音色は、その人の心を投影していると僕は思うんです。喜びも、悲しみも、痛みも、苦しみも、絶望も、切望も。その人が奏でる音色の中に、その人の素直な心を感じられる。そこには、言葉にはない力がある。そんなピアノの音色に魅了されたので、僕はピアニストになりたいと思っています。」
イオリはまっすぐに舞台の方を見たまま言った。
こんなにまっすぐな思いを、恥ずかしげも無く語られるとは思わなかった。若さというものだろうか。それとも、彼の純粋な性格によるものなのだろうか。
ピアノの音色から心を感じる、か。そんな観点でピアノを聴いた事は無かったな。
俺は少し考えてから、こう聞いた。
「俺の演奏からは何か感じた?イオリの言う心ってやつを。」
裏アカを使ってTwitterにアップした動画をイオリは観てくれていて、その演奏を聴いて俺の事をピアニストと勘違いしているのだ。俺の演奏に対して何を思ったのかは、やはり気になった。
「男爵さんの演奏からは、優しさを感じました。包み込むような温かさがあって、弾いている曲もポップなものだったので、すごくマッチしていて、素敵な音色でした。この人はきっと、人を傷付けたりしない、優しい人なんだろうなと思いました。男爵さんの演奏のお陰で僕は…」
そう言いかけて、イオリが口をつぐんだ。
「僕は…何?」
俺が聞くと、イオリは、俯き加減で言った。
「…いえ、何でもありません。」
「なんだよ、気になるな。」
ちょっと食い下がってみたが、イオリは、さらっと話題を変えた。
「そういえば、 L'Arc ~ en ~ Ciel を聴いてみましたよ。」
「おぉ、どうだった?」
「歌詞が幻想的かつ独創的で、良かったです。」
「そうか!勧めて良かったよ。」
俺が 10 代の時に好きだった音楽が、今の10 代にもハマったのが嬉しかったので、思わずイオリの肩を叩きながら言った。WANIMAを勧めようと思ったが、なんだか、もう満足してしまった。
すると彼は、また俺の方をじっと見てから言った。
「男爵さんって陽気な方ですよね。イメージ通りといえばイメージ通りですけど。」
「そうか?イオリはもっと表情豊かになった方がいいと思うぞ。ずっと無表情じゃないか」
「放っておいてください。」
無表情からムッとした表情に変わり、ぷいっとそっぽを向いた。初めて少し表情が変わったのを見られた。多分、周りからも同じような指摘をよくされているのだろう。少し膨れたイオリが何だか可愛かった。
そうこうしているうちに、会場の照明が落ち、演奏が始まった。
「凄く良かったな!」
約 1 時間半の演奏会が終わり、帰り支度をしながらイオリに言った。
「はい、心が洗われる演奏の連続でした。」
プロのコンサートは圧巻で、思わず聴き入ってしまった。俺は今日誘ってくれたイオリに感謝した。
「あのさ、今日誘ったくれたお礼に、何かさせてほしいんだけど。」
俺は、イオリにそう言った。
「いえ、お構い無く。チケットも余っていて困っていたので、来て頂いて助かったくらいですから。」
「遠慮すんなよ。こういうコンサートとか興味はあったけどなかなか行く機会がなかったから感謝してるんだ。迷惑じゃなければお礼をさせてほしい。駄目かな?」
イオリは少し悩んでから言った。
「わかりました。では、お言葉に甘えさせて頂きます。ただ、今日はこの後アルバイトがあるので、また後日にさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「あぁ、わかった。じゃあ次回までに何をしてほしいか考えておいてくれよ。」
イオリは、また少し考えてから返事をした。
「はい、考えてみます。」
「あぁ。っていうかバイトしてるんだな。何のバイトをしているんだ?」
イオリがバイトをしているというのが何か意外だったので、尋ねてみた。
「楽器屋さんで、週 2 回アルバイトをしています。」
「あぁ、なるほどね。」
本当に音楽が好きなんだな、こいつ。
「では、そろそろ行きますね。今日はありがとうございました。」
イオリがペコッと頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそありがとう。」
俺もつられて軽く会釈をした。
そして、この日はそのまま解散した。
数日後、イオリから Twitterでメッセージが届いた。
「この 2 、 3 日、考えてみたのですが、思いつきませんでした。」
「何が思いつかなかったんだ?」
「何をしてほしいか考えておいて、と仰っていたと思いますが、これといった希望がなく…。」
マジか。なんて無欲な奴だ。
やりたい事とか欲しいものとかないのだろうか。
「欲しいものとかないのか?楽譜とか。」
「犬を飼いたいです。」
「いや、それはちょっと…。」
これはわざとボケたのか?いや、違うだろうな。こいつの天然ボケ具合もだいぶ把握してきた。
俺は少し考えてから、こう返した。
「じゃあ、ラーメンでも食べに行かないか?奢るからさ。ラーメン好きか?」
この間も、殆どの時間、演奏を聴いていたので、イオリとあまり話ができなかった。
せっかくだから、飯にでも連れて行って、色々話をしたいと思った。
「ラーメンはあまり食べませんけど、宜しければ、ご馳走になります。」
「よし、うまいとこに連れてってやるよ」
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