7「潜入」(3)


 見詰め合う甘い空気にまだ慣れないエイトは、その一時だけでもう恥ずかしさでじんわりと汗を掻いてしまう。どくどくと鳴る心臓の音が耳元で鳴っているかのようだ。早鐘に合わせて身体の代謝まで上がったように感じる。

「まだ、ですかな」

 しかしそんなエイトの様子など知らん顔で、エドワードは意地悪くそう言った。

「っ……ま、まだ?」

「ええ」

「まだ、ダメ……なのか?」

「はい。まだ背を預ける程には成長されていないので」

「……」

 老人はきっと、一度決めた約束は守る人間だ。良くも悪くも絶対に。エイトが今より強くならなければ、この老人に、親し気に名前を呼んで貰うことは叶わないのだ。

「……なら、もっとオレを鍛えてくれよ」

「もちろんですとも。二人部屋を戴けたのは幸運でした。さすがに敵地で庭にて手を晒すことは出来ませんが、室内でも出来る訓練はたくさんありますからなぁ」

 この邸宅のことを自然と『敵地』と呼ぶエドワードの顔は、軍人のそれである。人の殺気に敏感なはずのエイトだが、この邸宅の住人からそういった負の感情は感じ取れなかった。外からの人間への好奇心と親切心、そして多少の嫌悪感ぐらいで、すれ違う人間そのものからも、酷い血の匂いも感じなかった。

 そう、この老人程に、血の匂いを感じることはなかったのだ。警備に当たる人間が、人を傷つけたことのない人間ばかりのはずがないのに。

「私のことが、怖いですかな?」

 突然、エドワードがそんなことを聞いてきた。視線は絡まり合ったまま、心の奥まで見透かされる。

「……オレは、あんた程血の匂いがする人間を、見たことがねえよ……」

「それは私が軍人だから、という訳ではないのでしょうか?」

「……多分、違う。そうだろ?」

 上目遣いに尋ねると、老人は満足そうに笑って頷いた。合わさっていた視線を解いて、部屋に燃えるような橙の光を招き入れている大きな窓へと向かう。まだ夕方なのでカーテンは閉めていない。目隠しのためのレースは敷かれていて、その細かい刺繍にも金が掛かっていそうだなと思ってしまう。

 エドワードは窓から夕陽を眺めながら、少し言葉を選ぶように話し出す。

「私は現役時代から、軍人としての実力はあまり高くありませんでした。しかし上官達からは戦場の指揮を任されることが多く、それによってこの歳まで生き延びただけの老いぼれに過ぎない。血の匂いは、きっと……これでしょうな」

 エドワードはそう言って、エイトに背を向けたままシャツを脱ぐ。元から露出していた鍛えられた腕の先――長年に渡り鍛え上げられた軍人の上半身が晒される。ごくりと生唾を飲み込むエイトの目が、硬く盛り上がった肩、引き締まった背筋を捉え、そして……

「……なんだよ、それ」

 老人は腰の部分にサポーターのようなものを巻いていた。ぱっと見は腰を痛めた老人がつける腰痛対策に見えるように“偽装”されているが、黒色のその表面は時折どくりと脈動していた。布地、でもないかもしれない。これは、水……だろうか?

「エイトさんにはもう気を許してしまっているので、動いてしまっていますね」

 私もまだまだですなぁと笑いながら、エドワードはその黒い物に手を触れる。するとその物体はぶるりと震え、エドワードの腰から逃げるように離れると、空中に黒色の水疱となって留まった。リンゴくらいの大きさにまとまったその黒の塊には、悍ましいまでの赤が滲み、そして酷い血の匂いを発していた。

「これは、そうですなぁ……デザートローズの『汚点』とでも言っておきましょうか。とにかくバイオウェポンの類になります。人の悪意を液体に溶かし込んだ、形を自在に変えることが出来る私の得物です」

「液体が、武器ってことか?」

「簡単に言えばそうですなぁ。私は元より銃器の扱いの方が得意なのですが、さすがにこの街に武装まで持ち込むことは出来なかったので。その代わりにこの得物を“少量”持ち込んだ次第です」

 エドワードが手を伸ばすと液体はその手のひらに吸い付くようにして形を変える。ずぶずぶと水音を立てながら、次の瞬間には赤黒い剣の形をエドワードの手の上で成していた。人の悪意から出来たということがよくわかる、そんな忌々しい色合いだ。エイトの気配に反応してか、その“水剣”がどくりと脈動した。

「……薄気味わりぃ武器だな」

「これを使うのは最終手段です。この邸宅の警備レベルならば、素手で充分制圧可能でしょう。問題は……」

「特務部隊、か?」

 水剣を元のサポーターの形に戻しながら視線を廊下への扉へと投げるエドワードの言葉を、エイトは先読みして引き継いだ。

 先程すれ違う者達のことをエドワードはしっかりと観察していた。しかしそれはエイトも同じだった。獣じみた勘が鋭いエイトは、それこそ野生動物のように相対する者の力量を、ある程度は見ただけで計ることが出来る。

 この邸宅を守る私兵の警備達は、素人とまでは言わないものの、エドワード程腕が立つものはいないように思えた。しっかりと統率も取れているし、兵士達同士の関係も良好のようだが、単純な戦闘力で言えば、きっとエドワード一人で殲滅出来るだろう。

 しかし、この邸宅には特務部隊が紛れ込んでいる。これはおそらく間違いない。すれ違った程度で尻尾を出すような、そんな半人前が紛れ込んでいるわけがない。表をうろついていたのは情報収集役の非戦闘員だが、単身潜り込んでくる人選は、きっと戦闘に長けた凄腕だ。

「先程案内された際に見つけられれば良かったのですが、さすがにそんなヘマはされませんね。明日以降、仕事の時間に割り出すしかありません」

「もし見つけたら……どうすんだ?」

「それは、もちろん……」

 続けられる言葉等安易に想像出来るのに、思わずエイトは尋ねてしまった。そこに不吉な予感が的中しないようにと願って。そんなエイトの心中を察してか、エドワードは敢えて優しい声で続けてくれた。

「……裸にひん剥いて放り出してしまいましょうか」

 ふぉっふぉと笑ったエドワードに、エイトも思わず「クソホモジジイ」と悪態をついてしまった。わざとふざけた返答をされたという事実は、胸の中に押し留めて、せめて笑顔の彼の言葉に騙されてしまいたかった。

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