8「晩餐」(1)


 今夜はエイト達はあくまで、『客人』として扱われるらしかった。明日からは使用人としての仕事が待っているが、邸宅に足を踏み入れた今日だけは、契約上でもまだ『使用人』ではないらしい。

 邸宅の主であるフリン・スペンサーは、使用人と共に食事をとるということはしない。彼には妻も子供もいないので、広いスペースの食堂に設えられた長テーブルで一人、食事をしているとのことだった。

 『屋敷の主』としての姿として、それは正しく正解であるが、そんな彼は少しばかり『疑い深い』人間であった。砂漠の民のイメージの通り、『用心深い』『秘密主義者』なフリンは、己が雇う人間のことも、まずは疑って掛かる人間だった。

 雇う段階の下調べはもちろん、その者の観察も兼ねて、邸宅を訪れた初日には仕事を与えることはせず、晩餐を共にするのがしきたりだと言うのだった。食事の席を共にすることで、その者の本質がわかるのだと言う。

「スペンサー……いえ、“旦那様”の考えは間違っておりません。食事の時間こそ、人が一番油断する時。その時を見極めの時間にするということは、あながち間違いではありませんからなぁ。エイトさんも気を……いえ、貴方はそのままで大丈夫でしょうな。充分悪ガキですし」

「てめぇ……悪かったな、スラムの悪ガキでよ」

 ふてくされたエイトに、エドワードは笑顔で振り向く。その笑みにはこちらを嘲る気配はなく、言葉とは裏腹に随分と甘い気配が漂う。

「そこが良い、と言っておきましょうかな」

 細められる漆黒に容易く捕まりながら、エイトは染まっているであろう頬を隠すために、ベッドの傍に放り投げた荷物を取りに立ち上がる。

「欲情してる場合じゃねえぞジジイ。もうその晩餐の時間になるんじゃねえの?」

「そうですな。旦那様を待たせるわけにはいきませんし、そろそろ行きましょうか」

「……その、旦那様って呼び方、どうにかなんねぇ?」

 テーブルの荷物をそれとなく目立たない場所に移動させているエドワードに、エイトは溜め息をつきながら言った。

 なんだか無性に腹立たしい物言いに感じるのだ。『旦那様」という言葉が。まるで大事な人、みたいで。

「エイトさんもフリン・スペンサーのことはこう呼ばないとおかしいでしょう? これは任務上、仕方のないことです」

 鋭い視線でそう答えるエドワードに、思わずエイトは目を逸らした。

――それなら、オレのことを呼び捨てにするのも、『任務上、仕方のないこと』なのか?

「……っ」

 余計なことまで考えてしまって、エイトの視界が滲む。

 本当に、この老人と出会ってから、初めての経験が多すぎる。話している最中に、こんなにも涙が込み上げることなんて、今まで一度もなかったのに。

「本当に、困った子だ……」

 エドワードのそんな言葉が聞こえて、不安に駆られて顔を上げるも、涙で滲んだ視界には、エイトを安心させる彼の姿は映らない。零れ落ちる雫もそのままに、部屋を見渡し――老人の姿を見つけられないで、心臓が早鐘を打つ。

――いない? なんで? オレのこと、嫌いになった? どうしようもない、『困った子』だから?

 『どうしようもない、困った子』

 このレッテルは学校生活でも幾度も聞いたフレーズだった。それは担任が零す言葉然り、両親が零す言葉然り。その言葉には確かに悪意があったが、エイトにはここまで響く言葉でもなかった。彼等は文句を言いながらも、エイトから居場所を奪うことはしなかった。

 だが、積もり積もったその言葉によって、エイトはそれまでの居場所を失ったのだ。愛情はないにしろ、暖かいエイトの居場所。帰る家を失った子供は、どこに帰れば良いのだろう?

 帰る場所も心の拠り所も取り上げられて、エイトは突然一人ぼっちになったのだ。一人の夜は寒かった。とても、心が寒かった。そこらに転がるゴミのように、硬い道端に身を丸めて眠った。砂嵐に肌も心も傷付けられて、それでも涙は出なかった。

 それは本当の愛情を知らなかったから。

 その暖かみを知ってしまったら、もうそれを手放すことは出来ない。独りぼっちはもう嫌だ。どこにも行かないで。オレを置いて行かないで。

「そんな顔をしていては、他の方を欲情させてしまいますよ」

 気が付いた時にはベッドに押し倒されていた。どさりと小さな音が響いて、目の前にエドワードの少し細められた瞳が――本当に、困ったと言いたそうな瞳が現れる。

「……っ」

 嬉しさでしがみつく。老人の少し細くなった腕に強く、強く。痛いかもしれないなんて考える余裕もない。離れず、どこにも行かないでくれた。困らせたのは、オレなのに。

「そんなに悲しそうな顔も、嬉しそうな顔も……どうか、私の前以外ではしないでいただきたい」

 エドワードの口元が欲望に歪む。それをそのまま受け入れて、甘く甘く溶かされる。今響いている水音は、悪意ではなく淫らな音。外に決して聞こえてはならない、二人だけの秘密。

「っ……え、えど……っ」

 深い深い口づけに溺れてしまいそうになりながら、愛しい彼の名前を呼ぼうとするエイトに、エドワードはすっとその身を離してふぉっふぉと笑って言った。

「……おや、ようやく名前を呼ぶ気になってくれましたか。感心感心」

「……っ、うるせえクソジジイ……勝手に、居なくなるなよな……」

 最後は俯きながら零した言葉に、エドワードは言葉ではなくその手でエイトの頭を撫でて応えてくれた。まるで孫をあやすように。まるで恋人をあやすように。

「エイト……行こうか」

 急にはっきりと名前を呼ばれて、エイトが目を見開くのと扉からノックの音が聞こえたのは同時だった。纏う空気の変わった老人のその目を、エイトは見ることが出来なかった。

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