第9話 球を撞き、仮面を穿つ




「ビリヤードなんて初めてなんだけど……」

「私は経験者よ」


 別に自慢大会をしたいんじゃなくて――

 とそう返しかければ、秋夜さんが肩から掛けているポーチから何かを取り出して僕に投げる。地面に落ちるギリギリでキャッチできたのは、落としたら殺すという秋夜さんの宣言のおかげでもある。


 受け取ったのは少し汚れた赤色の極薄グローブ。反射で手に嵌めてから、つけて良かったのか心配したが、秋夜さんもグローブを嵌めていたので問題ないと判断した。ちなみに彼女のグローブは銀と群青のイカした色をした新品のようだ。


「それあげるわ」

「あ――ありがと。でもいいの?」

「私のお古よ。で、ビリヤードを教えてあげるって言ってるの」

「は、はい」

「今あなた興味ない、って思ったでしょ」

「……ごめん。正直ビリヤードの面白みが理解できない」

「いいわ。うんと楽しませてあげるんだから」


 これ、ビリヤードっていう神聖な室内競技だよな? なんか変なこと起きないよな?

 秋夜さんの悪魔的微笑を見て、僕は危惧したのであった。

 ――そしてそれは杞憂に終わりそうにないと悟る、数分後である。


 僕は秋夜さんにブリッヂ、すなわちキューを支える指の組み方を教わっていた。これが結構難しい。


「上級者だと親指の肉を寄せてそのくぼみにキューを乗せる人もいるわ。でも隗より始めよ、基礎が大事。手、出して」


 全く何のことだか分からないので言われるがままに手を出す。と、その手を柔らかい手で包まれる。

 ドキッとした僕を置き去りに、秋夜さんは僕の指をしなやかな指で柔らかく優しく触れて、その感触を残していく。手末たなすえが擦れ合い、指が絡まり合う。

 すぐ目の前に好きな女子がいるっていうのは、それだけでも十分ドキドキの材料になり得るのに、手がこんなに触れ合ってるなんて――ドキドキが加速して止まらない。

 赤くなった顔は、当然俯いていようがバレる。


「何、顔赤くしてるのかしら」

「……その、手とか触れてるから仕方ないじゃん」

「へぇ、じゃあ何か妄想した? 年頃の女子と触れ合ってるのよ」

「っ……その、いいなって思っただけで、何も変なことは」

「いいな、ね」


 復唱した秋夜さんは顔を俯かせて、せっかくブリッヂが完成しかけた|僕の手をくしゃくしゃに握った。そして何の儀式か、バカバカと呟きながら彼女は僕の手ににコツコツと頭突きする。

 さらさらと、耳の後ろに引っかかっていた彼女の横髪が撫ぜる。

 そうすること十数秒、秋夜さんは動きを止めて、僕の手を離す。


 何これ、と聞くには秋夜さんの顔が嬉しそうに赤く染まっていて、僕は口をつぐんだ。彼女はぽりぽりと頬を掻いた後、にへへと笑って壁に掛けてあったキューを二本取る。


「照れてしまったわ。さ、私の真似して」


 秋夜さんは二本のうち一本を僕に渡し、なめらかな動きで台の上で構える。カッコよくてドキッとしたのは秘密だ。たどたどしくだが、隣で彼女の真似をしてブリッヂを台の上に置き、構える。

 隣で構えを解いた秋夜さんが背後でキューを壁に立てかけた直後だ。背中に彼女の体を感じたのは。


 ドキリ、と心臓が跳ねる。

 背後霊のように、秋夜さんが僕の体に四肢を密着させる。

 僕の足に彼女の足が絡みつき、腕に腕がピタッと添えられ、僕と彼女の間で彼女の胸が潰される。彼女の長い髪が僕の首筋を撫で、顔が肩に乗り、唇が耳元で震える。


「集中して、深呼吸……」


 集中できるわけねぇぇぇ!

 さっきから足の絡みがエロいし、腕がふにふにで気持ちいし、背中の固い感触絶対下着のだし! 髪からいい匂いしてるし、顔近いし、耳元でASMRみたく囁かれてるし!


 心の中で一通り叫んで、教えてもらってる身で何を考えているんだと自分を諌めてみる。

 ——無理にもほどがあった。


「あのさ、秋夜さん。ちょっと離れて欲しい」

「——……嫌」

「え? 拒否されても困るんだけど……」

「断るわ。これは必要なことだもの」

「……秋夜さんの本性って実はゲスじゃなくて甘えん坊なの?」


 思ったことをそのまま言ってしまうのが僕の悪癖である。

 でも、駄々っ子みたいな声で僕にしがみついてくる秋夜さんは、何を言おうがもう甘え屋そのものだったのだ。


 場の空気が凍る。失言した、と自覚するのにそう時間はかからなかった。数秒後、秋夜さんがゆっくり僕の体から離れる。

 振り返ろうとすると、見るな、と秋夜さんの苦悶に満ちた声がした。気になって見てみれば、両手から漏れて覆いきれてない顔の一部が赤くなっていた。


「その、別に……甘え屋なんかじゃないから。今のは、教えるためのもので、別に抱きつきたいとか、そんなことじゃなくて——お、お化粧直してくるわっ」


 『お化粧直し』が『トイレに行く』の意味だと気付いたのは、秋夜さんが隠した顔をさらに俯かせて、スタスタとフロアから出て行った後である。


 一人取り残された僕は、秋夜さんの感触を今更になって思い出し、顔に火がついた。



 *



 暗黙のうちになかったこととして、あのあとは普通にビリヤードを楽しんだ。――というか、真剣な顔で球を撞き、綺麗なショットを決めるカッコイイ彼女に惚れ直した。

 そんなこんなで、別の遊びもしようとどちらからともなく言い出し、料金清算をして階段を降りている最中。


「ねぇ、どうだったかしら?」

「楽しかったよ、ありがと」

「ホントに? その……遠慮してるならいいのよ? あなたが楽しんでくれなかったら私だって楽しめないんだから」

「ホントホント。またやりたいって思ってるよ。まぁ、格が違いすぎて申し訳ないけど」


 階段の踊り場。

 横に並んでいた秋夜さんが僕の前に滑り込み、僕の手を取る。

 しなやかな指が僕の手を曲げ、あのブリッヂの形を作らせた。グローブを介さない直の接触にドキリとして、声が詰まる。


「私はあなたと楽しめるなら何でも好きよ。例えそれがルドーだったとしても」


 ルドーが何かよく分からないが、文脈的にクソゲーなんだろうと思う。コクコクと頷けば、秋夜さんは僕に問うた。


「『好き』って何のことだと思う? 答えはね、その人が楽しんでくれたら、自分も楽しいと思えることなの」


 彼女は自慢げにそう言って、秋夜さんは僕のブリッヂを芸術品のように優しく撫でる。

 明らかにそれは僕への告白で、揶揄ってるだけだと分かっていても期待で胸が疼いてしまう。でもそれと同時に悔しさを感じる。

 揶揄われていることに対しても、僕だけが恥ずかしい思いをしていることに対しても。


 最近、僕が見つけた命題を説いてみる。


「……じゃ、じゃあ秋夜さん、『愛』って何だと思う?」

「哲学者にでもなりたいのかしら。大層な質問ね」


 僕の答えを待っているのか質問には答えず、秋夜さんは僕から手を離して肩をすくめ、空いた手の平を宙に放る。

 秋夜さんだって大概だよ、とツッコんでから続けた。


 よどみなく、答えは出てきた。


「自分よりもその人のことを優先したいって気持ちだと、僕は思ってる」

「っ……そ、そう。それと私に何の関係が?」

「別に、何も? でももう一つ。そうやって思ってくれていることを、気付けるのも愛の力とか? ま、厨二くさくて恥ずかしいけど」


 肩をすくめて見せて、赤い顔の彼女にそう言った。

 意を決して、彼女の手をお姫様の手を取るみたいに丁寧に拾い、階下へと先導する。

 意趣返し成功だと、僕は開いた方の手でこっそりガッツポーズを作った。もちろん、僕の顔だって真っ赤ではあるが……。






PS:ごめんなさい、少し乱れてます。

 近いうちに投稿が滞るかもしれません。それも全部夏期講習のせいだ! (責任転嫁)

 秋夜さんのイラストです。よければどうぞ。

 https://twitter.com/kt64_ogasawara/status/1417811524832223236

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