第9話 公爵家の事情
フィルは複雑な事情を抱えているみたいだけれど、わたしの公爵家にもいろいろ面倒な事情がある。
それを思い出させられたのは、フィルが屋敷にやってきてから二日がたった日だった。
今日も、窓の外では吹雪が吹いている。
わたしとフィルの住むカロリスタ王国は、大陸南西にある大国だ。
美しい海に囲まれた半島国家で、とても豊かな国だ。南方の海を挟んだ対岸には、マグレブ連邦という島国があって、貿易も盛んだった。
そのカロリスタ王国のなかでも、わたしの生まれたリアレス公爵領は、かなり北方に位置する。
北方のマルグリット山脈を超えると、すぐに隣国のアレマニア専制公国にたどり着くという立地だから、異国人も多い。
夏には黄金色の麦畑がどこまでも広がるけれど、冬の寒さは厳しくて、一面が雪で銀世界に染められる。
そして、今は冬。
というわけで、雪のせいでわたしたちは外出できない。
公爵家の屋敷に引きこもっているしかないのだ。
「出かけてみたいのに……」
わたしは窓辺にもたれかかり、外の雪景色を見て、ため息をついた。
前回の人生では、遊びに外に出るなんて、ほとんどしなかった。
わたしは王太子の理想の婚約者となるべく育てられていて、勉強だとか行儀作法だとか、そういったことばかりしていたから。
でも、今回はそんなことをする必要はない。
思いっきり外で遊ぼう! ……と思ったのに。
そんなわたしを、フィルがちらちらと見ていた。
ここはわたしの部屋だけど、フィルはずっとここに入り浸っている。
しかも、わたしの方から呼んだんじゃなくて、フィルの方からやってきてくれているから、とても嬉しい。
フィルは部屋の中央に置かれたテーブル前に、ちょこんと座っている。
わたしは窓辺からフィルの方へ移動すると、身をかがめてフィルと視線を合わせた。
「フィルは退屈じゃない?」
フィルはふるふると首を横に振った。
「クレアお姉ちゃんがいてくれるから、楽しい。お姉ちゃんは……楽しくない?」
フィルは白い頬を朱に染めて、わたしを見上げる。
改めて、可愛いなあ、と思う。
抱きしめ……たりはしない。ホントは抱きしめたいんだけど、いつも抱きしめてばかりいると、フィルに嫌われちゃうかも。
フィルに嫌われることは、わたしの破滅につながる可能性がある。だから、フィルに嫌われないようにしよう、とはじめは思っていた。
けど、今となっては、フィルに好かれること自体がわたしの目的となっている。
まったく、どうして前回のわたしは、こんなに可愛い弟に冷たくしてしまったんだろう?
「わたしもフィルがいるだけで満足。でもね、一緒に出かけられたら、もっと楽しかったかなって思うの」
フィルはこくりとうなずいて、天使のように微笑んだ。
外に出られないことについて、フィルはあまり不満に思っていないみたいだった。
フィルは書斎からたくさんの本を持ってきて、それをじっと読んでいた。
前回の人生では、わたしはフィルのことをあまり知らなかった。けど、ちょっとは知っていることもある。
フィルが本の虫だというのは、学園の同学年の生徒たちのあいだでは有名な話だった。
今回もフィルが本好きなのは変わらないみたいだった。
わたしがお父様から許可をとって、書斎の本をフィルが自由に持ち出せるようにしたら、フィルは目を輝かせて喜んでくれた。
本棚の高いところに本があって、フィルでは背が届かないときもある。そういうときは、わたしの出番で、踏み台を使って本を取る。
フィルだと踏み台を使っても届かないぐらい背が低いし、それに、踏み台から落ちるのが怖いみたいだった。
まあ、わたしも本を読むのはけっこう好きだった。それに、フィルは本の話をするときは生き生きとして楽しそうで、そんなフィルを見ていると、わたしも楽しくなってくる。
そんなふうに過ごしていたら、部屋の扉がノックされた。「どうぞ」とわたしが言うと、メイドのアリスがひょこっと顔をのぞかせた。
アリスはわたしとフィルを見て、そしてくすっと笑った。
「本当にクレアお嬢様とフィル様は仲良しですね」
「もちろん。だってフィルはわたしの可愛い弟だもの」
冗談めかして言うと、フィルが顔を赤くしていた。
「えっと……あの……ぼくも……きれいなクレアお姉ちゃんのことが好き」
フィルはとても恥ずかしそうで、けど、はにかんだように微笑んで、そう言った。
次の瞬間、わたしはフィルを抱きしめていた。
フィルはびっくりした様子で、宝石みたいな黒い瞳を大きく見開いていた。
「く、クレアお姉ちゃん……恥ずかしいよ」
「ごめんね。でも、わたしもフィルのことが大好き!」
そう言うと、フィルはうれしそうにして、そしておずおずとわたしの背に手を回した。
フィルの小さな手がわたしの体に触れる。
そのままフィルを抱きしめ続けていたかったけれど、わたしはアリスがその場にいることを思い出した。
わたしは慌ててアリスの方を見ると、アリスもびっくりした様子で、灰色の目を丸くしていた。
けど、すぐにアリスはにやにやと笑い始めた。
「これは……フィル様が王太子殿下の強力なライバルになるかもしれませんね」
「フィルがアルフォンソ様のライバル?」
どうしてそういうことになるんだろう?
アリスは肩をすくめた。
「だって、王太子殿下はクレアお嬢様の婚約者じゃないですか。お嬢様をめぐって、フィル様と王太子殿下が三角関係になると思うと、面白い……じゃなくて、大変なことになりますね!」
アリスはくすくす笑った。
なるほど。そういう考え方もできるかもしれないけど。
でも、フィルはまだ10歳だし。それに、前回の人生では、王太子殿下もフィルも、わたしじゃなくて、聖女シアのことが好きだった。
三角関係になるのは、シア、王太子殿下、そしてフィルの三人だ。今回も、わたしが三角関係の中心になったりすることはないと思う。
「クレアお姉ちゃんって、婚約者の人がいるの?」
「ええ。王太子アルフォンソ殿下が、わたしの婚約者」
まあ、遠からずその婚約は破棄されることになるんだけどね、とわたしは心のなかでつぶやいた。
なぜかフィルは、瞳を曇らせて、うつむいていた。
どうしたんだろう?
心配になって尋ねようと思ったけど、その前に、アリスがぽんと手を打った。
「お嬢様とフィル様の熱愛っぷりを見て、思わず用件を忘れるところでした! 旦那様と……ダミアン様がお呼びです」
わたしはダミアンという名前を聞いて、固まった。
ダミアンはわたしの叔父だ。
フィルが養子にならなければ、本来、公爵家の次の当主となるはずだった人でもある。
そして……ちょっと困りものの人物でもあった。
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