第5話 お姉ちゃんって呼んでほしい!
わたしは廊下でフィルを抱きしめたままだった。
ホントは、このままずっとこうしていたい。
けど、そういうわけにもいかない。使用人たちに見られたら困るし。
さっきまでフィルは寒さに震えていたけれど、いつのまにかその震えは収まっていた。
「寒くなったら、いつでも抱きしめて暖めてあげるから」
わたしが冗談めかして言うと、フィルはやっぱり恥ずかしそうにして、こくっとうなずいた。
さて、震えが収まったとは言え、まずは薄着のフィルを寒くないようにしてあげないといけない。
この公爵領はカロリスタ王国の北方にあるし、冬の屋敷はかなり冷え込む。
わたしは思案して、そして、フィルの体から離れた。
代わりにフィルの手を握る。
小さくて、柔らかい手だった。
フィルはびくっと震えたけれど、しっかりとわたしの手を握り返した。
わたしはフィルの手を引いて歩き始める。廊下を曲がり、階段を上がる。
目指すはわたしの部屋だ。
姉弟とはいえ、血のつながらない男の子を、自室に連れ込むのはどうかと思わなくもない。
けど、相手は10歳だし……いいよね?
フィルは緊張した様子で、部屋に入った。
そして、ぱっと顔を輝かせる。
わたしの部屋は……改めて見直すと、けっこう少女趣味だった。
天蓋付きのベッドには淡いピンク色のカーテンがついている。
家具のタンスや机もところどころピンクや白色で、可愛らしい感じの人形がずらりと並んでいる。
子どものころのわたしは、こういうきらきらした雰囲気が好きだったんだ。
でも……いまのわたしにとってはちょっと恥ずかしい。
わたしは暖炉に薪をくべ、苦笑いする。
こんなお姫様みたいな感じ、わたしには似合わないのに。わたしは、なんとかすれば美少女といえなくもない、という程度の容姿だし、それに、前回の人生では、五年後に身分も地位もすべてを失ったのだから。
でも、なぜかフィルはわたしの部屋を見て、とても楽しそうだった。もしかすると、こういう可愛い感じの雰囲気が好きなのかもしれない。
わたしはフィルの視線の先に気づく。本棚の上に大きなくまのぬいぐるみがあった。
茶色のつぶらな瞳のぬいぐるみで、小さなころのわたしのお気に入りだった。
わたしは本棚からそれを取ると、フィルに手渡し、微笑んだ。
「これ、ほしい?」
フィルはびっくりした様子で、返事に困ったみたいだった。でも、横から見ていれば、ぬいぐるみに興味があるのは明らかだった。
「フィルにあげる」
「……ほんとに!? いいの?」
「ええ。わたしからのプレゼント。わたしの弟になった記念ね」
フィルは嬉しそうに笑い、けど、すぐにきれいな黒色の瞳を曇らせた。
「でも、クレア様の大事なものなんじゃ……ないの?」
「そうね。でも、フィルが喜んでくれるなら、そっちのほうが嬉しいから」
まあ、子どものころは気に入っていたぬいぐるみで、愛着はある。が、中身17歳のわたしからすれば必要のないものともいえる。
フィルがほしいなら、ぬいぐるみなんていくらでもあげる。
フィルの好感度を上げることがわたしの破滅回避の道だし、それに、単純にフィルが喜ぶ姿を見たかった。
けど、フィルはまだ、わたしから物をもらうことを気にしているようだった。
「クレア様に悪いよ……」
真面目な子だなあ、と思う。同じ歳のときのわたしなら、遠慮せず受け取っちゃっていたと思うけど。
わたしは、フィルが素直に喜ぶ姿を見たいだけなのに。
フィルが負い目を感じなくても、すむにはどうすればいいか。
わたしは寒そうなフィルに外套をかけながら、考えた。フィルは申し訳無さそうに縮こまる。
フィルはわたしからただでぬいぐるみをもらうことを、悪いと思っている。
なら、ただではなくすればいい。
わたしは……ひらめいた。
思わず、口元が緩んでくる。
「じゃあ、フィル。ぬいぐるみをあげる代わりに、わたしのお願い、聞いてくれる?」
「ぼくにできることなら……なんでもする」
なんでもするって言われると、いろんなことをしてもらいたくなるけれど。
わたしがお願いするのは、簡単なことだ。
「わたしのこと、『お姉ちゃん』って呼んでみてくれる?」
「え……?」
「フィルはわたしの弟なんだから、『クレア様』みたいなよそよそしい呼び方をしてほしくないなって思ったの」
フィルは驚いたような表情をして、口をぱくぱくとさせた。
「もちろん、嫌だったら無理しなくていいけど」
フィルは慌てたように、首をふるふると横に振った。
そして、頬を真っ赤にして、わたしを上目遣いに見つめた。
「クレア……お姉ちゃん?」
「もう一度」
「えっと……クレアお姉ちゃん」
フィルは恥ずかしそうに目を伏せていて、とても声が小さかった。
「か、可愛い……」
思わずつぶやいてしまう。
前回の人生で、フィルはわたしのことを名前で呼んだことも『お姉ちゃん』なんて呼んだことも、まったくなかった。冷たく『姉上』と言うだけだった。
フィルに名前を呼ばれることが、姉と呼ばれることが、こんなに嬉しいことだなんて、わたしは知らなかった。
わたしはフィルの頭をぽんぽんとし、そして微笑んだ。
ちゃんと微笑めているか、不安になる。
口元が緩みすぎて、にやけ顔になっているかも……。
「ありがとう、フィル」
「お願いって……こんなことでいいの?」
「ええ。フィルに『クレアお姉ちゃん』って呼ばれるだけで、わたしは幸せだから」
フィルは不思議そうに、けれど、嬉しそうに微笑んだ。
大事そうに、わたしがあげたぬいぐるみを抱きかかえている。
決めた。
わたしはこの子のことをできるかぎり、甘やかしていこう。
フィルに姉と慕われることが、五年後の破滅の運命の回避につながる。
というのは建前だ。
この可愛い弟に、わたしを一番好きでいてほしい。ずっとわたしのそばにいてほしい。
でも、それは叶わない願いだ
五年後までに、フィルはわたしの前からいなくなる。
フィルは聖女シアと恋に落ちるのだから。
でも……それまでは、少なくとも来年に学園に入るまでは、わたしがフィルを独り占めできるはずだ。
わたしはフィルの黒い瞳を見つめた。フィルもわたしを見つめ返す。
わたしはフィルを抱きしめようとして……そのとき、部屋の扉が開いた。
【あとがき】
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