第3話『B490』
俺はシロネズミのB490。准教授のカールにそう名付けられた。けどカールの奴は中々俺に姿を見せない。
カールの代わりに俺に餌をくれるのは大学院生のジェシカだ。肩まで伸びたブロンズ髪がネズミの俺からしても美しいと思う。
ジェシカの手から貰うほうれん草は格別だ。束の中から鮮度の良いものを俺のために見繕ってくれている。俺が人間だったら彼女と結婚したいくらいだ。
ジェシカは俺に餌だけでなくトムって名前をくれた。彼女らしくていいセンスだと思う。
今日、いつもより多めにほうれん草を食べさせてくれたジェシカは泣いていた。
俺は彼女の涙の訳を知っている。今日は俺の命日だからだ。
ジェシカは俺に名前まで付けて可愛がってくれたけど、今日でお別れだ。
愛着が湧くならこれからは俺みたいな実験動物に名前なんて付けるんじゃねぇぞ。
だが名前をくれて俺は嬉しかったぜ。
ジェシカに優しく手に乗せられ移動し、俺はチェス盤に降り立った。
俺は頭の中の情報を整理した。どこまでなら安心して進めるか。どのタイルは踏んではいけないか。それらの情報が実体験として頭に刻み込まれているように感じる。
忘れちゃいけないのが、尻尾の位置だ。
俺は何度か、尻尾をうっかりトラップのあるタイルにぶつけて死んだ経験がある。
まあ正確には、そういう実体験の記憶はあるが、俺自身が死んだわけではない。俺はまだ生きている。
俺は自分の中の自分ではない誰かの記憶を信じ、歩を進めた。
思えば随分遠くへ来たもんだ。後ろを振り返って来た道を眺めて感傷に浸りたいところだけど、余計なことをして尻尾をタイルにぶつけて死ぬのは御免だ。
今は前だけを向こう。俺の目にはゴールらしきものがようやく見えて来た。
ぐるりと四方を壁に囲まれているが、一か所だけ俺がくぐれるくらいの門のようなものが置かれている。
あそこへ辿り着くことができれば、俺は英雄になれる。俺の中の記憶の主たちもやっと浮かばれる。
真っ直ぐゴールへ向かいたいところだが、目の前の白いタイルはトラップが仕掛けられている。
――急がば回れ。あくまでも慎重に、記憶を信じて回り道をするんだ。
俺は左へ迂回し、安全な道を歩いて行った。
案の定ゴールは俺から遠ざかっていった。それは想定通り、いや記憶通りの展開だ。
進んでいくにつれ俺は焦り始めた。
――本当にこの道で合っているのか?ゴールに一向に近づかないどころかゴールが見えなくなったぞ。
まさか、この先は行き止まりなんじゃないだろうか。そうだとしたら、このまま進み続けても俺は無駄足を踏んで死ぬだけだ。
戻るべきか?だがUターンするときに足を踏み外す危険がある。それに戻ったところで、俺の記憶に無いタイルが多すぎてどれが安全なタイルか分からない。
――いっそ、一か八かで壁を乗り越えるってのはどうだ。
確か壁に隣接する安全なタイルが一つあったはずだ。あそこに戻って壁を登って脱出できないだろうか。
思い立ったが吉日、さっそく移動しよう。
俺は慎重に後ろを振り返り、壁隣の行き止まりのタイルまで歩いてやって来た。
改めて近くで壁を見ると、壁の表面はつるつるしているが、そんなに高くないから乗り越えられそうだ。
俺は足を曲げて腰を低くし呼吸を整え、えいやっと壁に向かってジャンプした。
俺の体は自分の体長の5倍以上の高さまで持ち上がった。自分でもその高さに驚いた。
壁には結構な奥行きがあった。余裕を持ってあそこに着地できるはずだ。
壁の上に後ろ足が着地したその瞬間――
ぐええええええええ!!
俺の体に今まで感じたことのないような強い電流が流れた。俺の中の記憶のどの痛みよりも激しい痛みが全身を襲った。
くそっ、ズルは許しちゃくれないってか――
功を焦ったばかりに俺はどの記憶よりもむごたらしい死を迎えた。
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