煉獄の赤龍と無垢の結晶

水屋七宝

煉獄の赤龍と無垢の結晶

 むかーし、むかし。世界に空がない頃。


 ごうごうと猛るマグマの煮えたぎる音が、この世の全てような地下深く。ぽっかりと開けた岩場の空間に、人など丸呑みしてしまうほどおおきなおおきな、赤龍が住んでおりました。


 赤龍は鋭く美しい宝石の牙をずらりと揃え、長い首で遠くを見渡し、いかなる武器も通さない硬い鱗に身を包んでいました。


「なんと、むなしいんだろうなぁ」


 赤龍は嗄れた女の声で退屈そうに呟きました。大きく開いた二つの鼻腔から放たれる燃え盛る烈風は、岩を削り、灰をも焼き、鎮火した溶岩に再び命を吹き込みます。

 それはただの、彼女のため息でしたが、人間からはとても恐れられていました。


 赤龍と人間は敵対していました。人間は赤龍を恐れていましたが、赤龍の牙にはたいへんな価値があったのです。欲しがる人間は数しれず、たびたび勇者と名乗るものが彼女の牙を奪いに現れました。そしていつしか赤龍は、人食い龍と呼ばれるようになっていました。


 赤龍は人を食べたことは一度もありませんでした。彼女が食べるのは鉱石のみなので、人を襲ってもなんの意味もありません。しかし人間は執拗に牙を狙いました。牙がなければ、鉱石を食べることも叶いません。なので彼女は仕方なく、そのたびに人間を追い払ってきたのです。

 たった今、彼女はそれを成したところでありました。


 そんな彼女にも、ひとりだけトーヴと言う名の人間の友達がおりました。トーヴは背が低く目元は前髪に隠れており、いつも地面を這うように歩く、変わった少年でした。

 トーヴは今日も熱よけのマスクを付けて、彼女のもとへ現れました。


「やあ、ソルム。ごきげんよう」


「まあ、今日も来てしまったのね、トーヴ」


 赤龍はソルムなんて名前ではありませんでしたが、トーヴがそう呼ぶことは不思議と快く思っていました。

 今日のトーヴは大荷物を背負っていました。土掘りのピッケルと暗闇を照らす輝き石。お弁当箱と、布に包まれた身の丈以上の丸い板。


「親愛なるトーヴ。お前がここへ来てくれるのはとても嬉しいけれど、もうおやめなさいと言ったでしょう」


「仕方ないだろう、君のお話はとても面白いんだ。それに約束しただろう。いつかネルヴォス伝説を聞かせてくれるって」


「やれやれ、ほんとうに仕方がないねえ・・・それじゃあ、今日はいよいよ話してやろうじゃないか!かの大英雄ステラルム・ネルヴォスの大冒険を!」


 赤龍ソルムは長い首をもたげると、口の端をニヤリと吊り上げ声高々に語り始めました。



  ◇



 神話の時代。この頃は荒ぶる神々が大地を支配していた。大気は淀み空は黒雲が渦巻き、緑は朽ち果て、そして人も龍も、神のいかづちによって苦しめられていた。


 人類は神の領域に到達せんが『魔法』を生み出したため。


 龍は神の領域に喰らいつかんが『翼』を手に入れたため。


 神の怒りに触れた両者は、裁きという名の虐殺に立ち向かうべく、お互いに手を取り対峙していたのだ。


 ある日世界はひとりの人間の子を産み落とした。それがステラルム・ネルヴォスという男の子だった。


 ネルヴォスは生まれながらにして体に魔力を宿しており、子供の頃から強力な魔法を使うことに長けていた。その一撃は空を焼き、地を割る程だった。


 この子はいずれ世界を救う英雄になるだろう。両親からは寵愛を、生まれ故郷からは忌憚なき祝福を受けて、ネルヴォスはすくすくと心優しき青年へと成長した。彼の噂は山を越え、海を越えた。


 時を同じくして、またあるところでは一匹の龍が生まれていた。一回り大きな体格を持って生まれたその龍はしかし、翼がとても小さかった。当然一族は嘆いた。


 こんなに小さな翼では、とても神とは戦えぬ!


 長らく神との戦いで前線を張っていた家系であっただけに、この失望は大きかった。一縷の望みにすがり成長を見守っても、龍の翼は小さいままだった。どんなに努力をしても、ついに龍は空を飛ぶことができなかった。


 結果、龍は一族の面汚しと呼ばれ、名前すら与えてもらえず集落の谷を追放された。


 龍は怒り、悲しみに暮れた。


 神よ、翼を持つものが悪ならば、どうして私は祝福されないのか!


 空に向かって幾度吠えようと、烈々たる叫びは雷槌の音にかき消えてしまった。


 しかしながら偶然ではあったものの、かの龍の叫びを聞きつけたものがあった。これが龍とネルヴォスの邂逅であった。


「君だね、空に向かって吠え続けていたのは」


 ネルヴォスは優しく声をかけたが、龍は敵意を剥き出しにした。


「貴様、その禍々しいまでの魔力。噂はかねがね、届いているよ。まだ世界を救ってもいないのに、英雄などと持て囃される小さきもの、ステラルム・ネルヴォスよ」


 実際、ネルヴォスはかなり小柄な体格だった。英雄と呼ばれていながら、見すぼらしい麻の服に身を包み、髪は整えられておらずぼさぼさで、顔は泥まみれだ。ただの農民と見分けはつかない。


「わかるまいよ、この私の気持ちは。祝福の器たる貴様には」


「ふうむ、でもその言い方からすると、わかってほしいのだろう?」


 龍はくわっと目を見開いた。牙をむき出し、その隙間からちらちらと炎が漏れ出た。


「いや!すまない!不躾なことを言った!だが俺の気持ちに偽りはないんだ、よかったら君の慟哭を、俺に聞かせてはくれまいか」


 龍は不思議な気持ちになった。同情も憐れみも願い下げであったが、この男からはそういった感情とはかけ離れた何かを感じたのだ。もしかしたら、ネルヴォスはただの興味本位であったのかも知れない。けれども、生まれて初めてこのようなことを言われた龍は、まるで差し伸べられた手を取るような暖かさを感じてしまったのだった。


 はじめはつらつらと、生まれの境遇を語るだけであった。しかしネルヴォスが聞き上手であったのか、龍は次々といらぬことまで話してしまった。最後には龍の今まで溜め込んでいた感情が濁流のように溢れ出し、誰にも聞かせることのなかった泣き言を自分よりも余程小さな人間に対して幼子のように語り聞かせてしまったのだった。


「うう、うう、うおおおおん、君は何も悪くないのに、なんと世界は君に残酷なのだ」


 ネルヴォスは話を聞き終えると滝の涙を流し始めた。まるで自分のことのように胸を掴み、激しい痛みでも訴えるようにその場に丸まってしまった。


「そ、そんなに泣いてくれるな、そんなふうにされては、私も、わた、し・・・も・・・・・うう、ウワアアアアアアアッ!」


 龍はネルヴォスにつられて涙を流した。ぴかっと雷が光り、雨が降る。二人の泣き声は一晩中、谷の底を反響した。


 暗い夜が明け、昏い朝を迎えた。


 ネルヴォスは雨よけになってくれた龍の腹の下から這い出ると、腫れた目を擦り、ひとつ提案した。


「なぁ、もしも君に、まだ神と戦う意志があるというならどうか、俺の翼になってくれないか」


 目を細め、龍は心外な面持ちで答えた。


「翼に、だと?無茶を言うな。私が能無しなのは散々話したとおりだ」


「能無しなんかであるものか。君は努力を欠かさなかった。他の龍より多くの火を吹き、硬い鱗を育て、強靭な角と牙を手に入れた。君は立派な龍なのだ。それに、翼ならばどうにかなるかも知れない。俺の村へついてきてくれ」


 半信半疑で龍はネルヴォスのあとをついていった。ネルヴォスの村はそこから遠くなく、昼前にはにたどり着いた。


 人里に龍が押しかけて良いものか心配であったが、それは杞憂であった。ネルヴォスの村は人間のみならず、あらゆる種族の魔物が共存していたのだ。龍が一匹迷い込んだ程度彼らには何一つ影響ないようで、龍は快く歓迎された。

 特に子供からの人気は非常に高かった。子どもたちとは多くの言葉を交わし、いろいろな物語を聞かせてもらった。黒雲が満ち晴れぬ世界でありながら、この村の子供達には尽きぬ笑顔があった。


 後日、ネルヴォスは龍を村から少し離れたところへ案内した。ぽつんと一軒だけ、煙突のついた寂れた屋敷があった。そこには一人の老婆が住んでおり、何やら得体のしれない匂いが充満していた。


「彼女は俺の魔法の師だ。俺が生まれる前にこの村にやってきて、俺の誕生を予言した人でもある。胡散臭いが、腕は立つ」


 ネルヴォスがそう言うと、勝手に宙を浮いた火かき棒が、灰にまみれたまま彼の頭をこつんと叩いた。


「胡散臭いは余計よ、ステラルム。それより、なにか用があるのでしょう?」


 老婆はその見た目とは裏腹に、とても丁寧な口調をしていた。


「ああ、たしかこの屋敷には『夢をうつす鏡』があっただろう」


「あれを・・・?ははぁ、察したよ。そこの龍に、翼をやりたいのだね?いいとも、好きに使うといい」


「本当か!?」


 龍は急な展開に興奮を抑えきれなかった。この数十年憧れてやまなかった翼、それがこんな形で叶うなどとは夢にも思わなかった。柄にもなく、小躍りしそうになったところを、しかし老婆は諌めた。


「ただし!この鏡は願いに答えると同時にあるものをひとつ代償に奪う。おまえさまにその覚悟があるかい?」


「ああ、構わない!生まれながらに戦士の宿命を負った龍として、他の何を犠牲にしても、私は翼を望む。それが叶ったならばその暁には、ネルヴォスとともに空を駆り、命尽きるまでともに戦うと誓おう」


「ならば・・・良いでしょう。その覚悟をゆめゆめ忘れぬよう」


 そうして龍は鏡を覗き込んだ。すると、鏡には翼持つ龍の姿が映し出され、瞬きするうちに、その姿が現実へ反映されていた。しかし、老婆の言ったとおり、代償も反映されていた。


 しかしそんなことはどうでも良かった。龍は己の体に満足な翼があることを喜び、ネルヴォスもまた自分のことのように喜んでくれた。それだけの事実にこれ以上望むべくもなかった。


「ああ・・・・ネルヴォス、お前との出会いに心から感謝しよう」


 龍は深々と頭を垂れた。その時ネルヴォスは、一瞬表情に翳りをみせた。


「・・・俺が言い出したことではあるが、これで君を戦いへといざなってしまったことになる。本当に、これで良かったのだろうか」


「誰かが戦わなければ明日はない。今はそういう時代なんだ。なに、私達で平和を取り戻せばいいだけのこと」


「・・・ああ・・・そうだな・・・!」


 ネルヴォスは静かに、心の炎を燃やして力強く答えた。


 いつまでも龍と呼ぶのでは格好がつかないことと、新生を祝す意味を込めて、ネルヴォスは龍にエコと言う名前を与えた。二人はこれからの戦いに備えて、優秀な師のもとで鍛錬を行った。


 それから数カ月後、二人は王国に趣いた。御前試合ではその実力を存分に発揮して、彼らの実力は噂の域を超え公に知られることとなった。ネルヴォスはまたたく間に龍騎士としての階級を賜り電撃的な出世を遂げた。


 当然戦いに出る限り見すぼらしい格好では士気に関わるため、ネルヴォスは王国から絢爛な戦装束を与えられていたが、エコはネルヴォスのそれをまるで似合っていないと評した。


 戦いの中でネルヴォスとエコの絆は一層深まった。二人は存分に空を駆け巡ってみせ、彼らの舞う戦場は神々の侵攻をものともしなかった。一騎当千の働きであった。


 そんな二人にも苦戦する相手はあった。神将マルティスは神の軍勢の中でも群を抜いて強力であった。


 マルティスは光を操る神で、空から光線を降らせる攻撃は常人の反応速度ではいなし切れず、多くの龍騎隊が地に落とされた。

 ネルヴォスも魔法を使ってこれに応戦するが、マルティスは瞬間移動を駆使するため全く攻撃が通じなかった。戦況は劣勢を強いられ、じりじりと防衛ラインを下げ続けた。


 この頃、思うように戦果を挙げられなくなったネルヴォスは、身内側からの信頼を少しづつ失い始めていた。

 露骨な悪評こそ出回らなかったものの兵士の士気も下がり、あまり好況とは言えなくなっていた。この実情にネルヴォスは責任を感じていた。


 ある夜、気を重くしたネルヴォスの足は自然と放牧地の方へ向いていた。誰かと話をしたかったのだ。

 放牧地とは王国に俗する龍たちに与えられた広場だ。その名の通りもとは農場であったため、すぐ近くに馬房もある。その先で、よほど顔色が優れなかったかエコに心配そうな声をかけられた。


「大丈夫か?」


「ああ・・・・君こそ、馬のような扱いをされて平気かい?」


「龍ってのは元来じっとしてるのが好きな生き物なのだよ。それに、ちゃんと尊重はされている。不満はないさ」


「そうか・・・」


 ネルヴォスは少しだけ安心したようにふっと笑った。


「・・・すまない。私にもっと速く飛ぶ力があれば」


「君のせいなんかじゃない。第一、これ以上速く飛ばれては俺の目が回ってしまう」


「それじゃ、今度からは亀より速く飛ぶのは止すとしよう」


「極端だなぁ、きみは。それじゃあ狙い撃ちだよ」


「ははは、たしかに」


「はははは」


 潤った笑いではなかった。しかしネルヴォスの乾いた心には十分染み渡った。


「ねえ、エコ」


「どうした?」


「空ってさ、どんな色をしていると思う?」


「どんなって、見ての通り、黒いじゃないか」


「そうじゃなくて、この黒い雲が晴れた向こうの色さ。俺たちは生まれてこの方、空の本当の色を知らず、松明を手放して暮らせない。もしこの戦いが終わったら、太陽というものが拝めるのかな、と思ってさ」


「ふうん」


 エコは少し考えて、それから思い出したように、歌を口ずさむみたいにしてこう唱えた。


「暗雲低く 天低く 燃ゆる炎も 微かなり 


 夢や現や 霧を抜け 空を割るもの あらはれり」


「あっ・・・それは」


 ネルヴォスははっとして、エコを見た。エコは続きを唱え、


「暗雲嘆き 天藻掻き 痛み拭えず 涙せり


 永劫続きし 夜を抜け 空は涙に いろずれり」


「「涙は日差しを 照り返し 空は蒼に 染まりけり」」


 最後には二人で口を揃えていた。


「俺の村に伝わる物語だ・・・どうして忘れていたんだろう」


「まさに今を表す物語だとは思わないか?まるで、はるか昔からこうなることを言い当てているようだ。すると、雲の向こうはきっと蒼いのさ。・・・・見て・・・いや、飛んでみたいものだ。さぞかし気持ちがいいのだろうな」


「ああ・・・そうだろうな」


 ネルヴォスは憧れを胸に、空を見上げた。今は黒くともきっと輝ける世界が、平和を手に入れた先にある。今この時は、そう信じていた。


「・・・いや、待てよ。そうか、その手があった!」


 ネルヴォスは唐突に、何かをひらめいて飛び上がった。


「君のおかげだ、エコ!君は最高の相棒だ!」


「待ってくれ、ネルヴォス。何が何やらさっぱりだ」


「日差しは、返してしまえばいいんだ!マルティスに勝てるかも知れないぞ!」



 明くる日、神将マルティスとの戦いについて緊急の作戦会議が開かれた。目下警戒すべきはなおのこと回避ほぼ不可能な光線であったが、ここでネルヴォスの考えた鏡を使うという作戦が、鶴の一声となった。


 マルティスの猛攻を如何様にし難く、みなそろって腕組み首をひねって奏でた野太い唸り声の不協和多重奏は、前途洋々の喝采となった。


 ネルヴォスの意見は早速採用され国中の鏡が集められた。龍騎隊には手鏡程度のものが複数、地上部隊には姿見が配備された。それでも鏡は不足してしまったため、ネルヴォスは『夢をうつす鏡』を老婆から借り受け、それを抱えてマルティスに臨んだ。作戦の立案者ということもあり、ネルヴォスは隊長に任命され先陣を切る運びとなった。

 龍騎隊は体中に鏡を貼り付けるという不格好極まりない戦となったが、これが効果は覿面であった。降り注ぐマルティスの光の雨はそのまま天へと返り、神々は明らかに攻撃の手を緩めた。


 ネルヴォスはとうとう隙きを見せたマルティスの懐に潜り込み、溜め込んだ魔力を開放して必殺の一撃を繰り出した。魔法は見事にマルティスに命中したが神将という名は伊達でなく、マルティスの最後の力を振り絞った反撃を許した。

 マルティスは光を反転して闇の化身へと変身した。ネルヴォスを永遠に闇の中へ道連れにしようとしたのだ。マルティスは叫んだ。


「許さぬ、許さぬぞ、ステラルム・ネルヴォス!我にこのような醜い力を使わせたこと、闇の中で永遠に悔い続けるがいい!」


 闇の塊となったマルティスに囚われそうになった瞬間、ネルヴォスは機転を利かせた。『夢をうつす鏡』をマルティス自身に見せたのだ。神は常に己を完璧だと思い続けているはず。ならば神にとっての理想は常なる姿に他ならない。マルティスはかつての人型の姿を取り戻し、代償に闇の力を奪われるだろうと踏んだのだ。


 結果から言えば、その賭けは間違いだった。鏡を見せたマルティスは一本の光の柱となりそれは段々と細くなっていってついには空の果てに消えてしまった。


「ああ、光よ。我が理想の光。遍く空を照らし、命育むはずの光。一体いつから、滅びの光となってしまったのか・・・」


 それがマルティス最期の言葉であった。


 勝利の歓声が空を震わせた。神将マルティスを倒したことで残るは大神ロクスを残すのみとなった。神の軍勢が将を失い撤退してゆく中、ネルヴォスとエコだけが悲しい別れを告げたように静かに光の柱の跡を見つめていた。

 

 この戦いを経て英雄という肩書は、ネルヴォスとエコ、二人揃えて送られる称号となった。二人は互いに別々の理由でこれをあまり喜ばなかった。

 ネルヴォスはエコにも英雄の肩書が送られたことで、肩身の狭い思いをしていないかという心配から。エコは英雄とはネルヴォスにこそという考えから。互いを慮る気持ちがすれ違いを生み、知らぬ間に亀裂となっていた。


 最後の戦いを前に仲を違えたままでは良くないと、ネルヴォスは放牧地を訪れた。


「エコ、聞いてくれないか」


「説教なら散々聞いたが」


 口こそ素っ気ないが、エコはネルヴォスの近くへ寄って、はっきり顔を合わせていた。


「俺は君のことをとても大切に思ってる。今日まで生き残ってこれたのは君のおかげだ。本当に感謝している」


「それで?」


「・・・・・いや、回りくどいのは抜きにしよう。どうか君の翼で、また俺を戦場へと連れて行って欲しいんだ」


「・・・どうして、私の翼である必要がある?龍なら他にもたくさんいる。私は体格が大きい方だから、小柄な方が小回りも効く。元はと言えば、不完全な翼である私を選ぶ理由もなかったはずだ。それに、お前は私に翼をくれた時、まっさきに後悔した。なぜだ?」


「戦わずにいられるなら、そのほうがいいに決まってる」


「見くびるな!私は生まれる前から戦士の宿命を負っていると言ったはずだ」


「それでもだ!君が戦いで傷つくのを見ると、俺の力不足が不甲斐なくて、どうしようもなくなる」


「・・・・なんて惰弱な。これが英雄と呼ばれた男の真の姿か」


 エコは呆れ果てた。いかに強い魔法を持っていても、人間は所詮この程度だと。


「いいか?ネルヴォス、私は私のために戦っているのだ。かつて私を追放した谷の龍を見返すために、私は平和を欲するのだ。お前こそ覚悟がその程度なら、この戦を下りたほうがいい」


「・・・・・君の言うとおりだ」


 ネルヴォスは己を恥じた。いかに余計な世話をかけたことか今更ながら実感した。そして、自分が何のために戦うのかをこの場でもう一度考えた。

 村のためにか?世界のためにか?自分に力があるからか?どうして戦いを続けてこれた?

 ネルヴォスは期待を一身に背負って生まれてきた。そういう意味ではエコとは似た者同士だ。ならば、エコとネルヴォスの間の明確な違いはなにか。ネルヴォス自身はどうしたいのか。


「・・・ふむ、いい顔になったじゃないかネルヴォス。それでこそ私の相棒だ」


 こうしてネルヴォスの腹は据わった。エコは満足げに笑った。どうあってもエコにはかなわないと、力の序列がなったのもこのときだった。


「それで、どうしたいんだ?」


「どう、とは?」


「なに、空の色を追うだけなんて人間にしては淡白だと思ったのさ。平和を手に入れて、他にしたいことはないのか?想い人だって、居るんじゃないのか?」


 にやにやとエコは笑った。ネルヴォスは急に直球を投げられたことに慌て、顔を真赤にした。


「君がそういう事を言うやつだとは思ってもいなかったよ」


「その反応は、居るんだな?」


 ネルヴォスは手で顔を隠した。


「・・・・・・・・・・いや・・・・いない・・・」


 エコはぷうとため息を付いた。鼻からぼうと火を吹き、面白くなさそうに爪でネルヴォスの頭を小突いた。


「そんなことだろうと思ったさ。いいのか?伝えることなく死んでしまうことだってあり得るんだ。あとで後悔しても私は知らないからな」


 エコは話の腰を折られたときのように、途端に興味を失って背を向けた。他の龍がいないやや開けた空間へ向けてのしのしとあるき出したときだった。その背中に、ネルヴォスの渾身の叫びが轟いた。


「誇り高き龍よ!!」


 びくりとエコは立ち止まった。なんのことを言っているのか、一瞬理解に戸惑い、壊れた人形みたいに長い首をゆっくり後ろへ向けた。

 ネルヴォスは顔を隠していなかった。両拳を固く握り、松明のメラメラと燃えるそのとなりで、神をも殺さん形相で佇んでいた。


「俺に想い人は、いない。本当だとも。なにせ相手は人ではないからね!確かに、俺はある慟哭を聞いたその時から、ずっと心に決めていた相手がいる。その子は俺を雨から庇うためだけに身を呈してくれたり、村の子どもたちの話し相手になってくれたり、俺とともに命をかけて戦ってくれる、そんな心優しい子なんだっ!!だから俺は心奪われた!!だから俺は、その翼が必要なんだ!!好きという言葉では足りないんだ、愛なんて安っぽい言葉で語れないんだ。できることなら戦を、世界を捨ててでも、一生涯、隣にあり続けたい・・・!!!だが俺は戦う。彼女の夢を、蒼い空を自由に飛ぶという願いを、叶えてやると決めたからだ!!」


 その叫びの中で相手の名前は一度たりとも明かされなかった。そんなものは本人に聞かせないと意味がないというのに、人とそれ以外が結ばれるはずなどないのに・・・何故か、エコの目には涙が溢れていた。


「なんで、どうして・・・」


 最後の告白を終えた時、ネルヴォスは肩で息をしていた。エコは、信じられないとばかりに首を振った。


 ネルヴォスは柵を飛び越えてエコに駆け寄った。


「俺の胸に触れてほしい」


 エコは言われるままにネルヴォスの胸に頭を擦り寄せた。どく、どくと普段よりも強く、速く脈打っていた。戦っているときよりも余程ひどい脈拍だった。ネルヴォスをいつも背中に乗せているエコにはそれがすぐに分かった。


「本気・・・なの、だね。お前がそんなろくでもない人間だとは思わなかった」


「それで・・・」


「だめだね。お前はちゃんと、人間同士で愛し合うべきだ」


「そ・・・・・そう、か」


 ネルヴォスはガクリと肩を落とした。

 人と魔物の寿命はたいてい差があるものであるから、同じ時を過ごせないことへの葛藤は、きっとこれの比ではなくなるだろうことをエコは理解していた。ネルヴォスは覚悟の上であろうが、この男にそんな悩みは無用であるとエコは思ったのだ。


「・・・・傷心か?なら、慰みに口づけのひとつもしてやらんでもない。どこにしてほしい?」


「ええっ・・・・そ、それでは、く、唇に・・・・」


「よかろう」


 ネルヴォスが願うと、エコの太い両腕に抱き寄せられた。かたいツメが肉に食い込む。まるで肉食獣が獲物を逃さないように捕まえているようだった。ネルヴォスは一瞬恐れを抱いてしまい、ぎゅうと目を閉じた。


 口づけは驚くほど優しかった。唇は、エコの顔のどこかに触れて、硬い感触を感じるだけに終わった。


「すまない、危うく食ってしまうところだった」


「あ、危うく食われるかと思った・・・」


「ところで・・・ひとつ頼みがあるのだが」


「な、なにか?」


「・・・・もう少しだけ・・・してもいいだろうか・・・?」


「あ・・・・ああ、お安い御用だ!」


 それから二人は短くて、長い夜を過ごした。知ってか知らずか、他の龍たちからまこと、奇異なる視線を向けられる中での出来事だった。




 そして、最後の戦いが始まった。


 目指すは天遥か高き大神ロクスの御座ただ一点のみ。出し惜しみなしの総力戦となった。英雄エコ=ネルヴォスは旗槍を掲げ、先導の役を担った。小脇にはお守り代わりに、例の鏡を抱えていた。


 大神ロクスは巨体を誇る最大にして最強の神。その攻撃は地上へ向けた落雷と、小細工なしの純粋な身体機能より繰り出される肉弾戦だった。ロクスの体はいかなる攻撃も弾く強靭さで、物量による力押しも物ともしない。

 しかしながらロクスには明白な弱点があった。彼は強力な力を持つ代わりに、視力を持たない。それを利用し、感知可能な範囲の外から魔法部隊全員の全魔力を集結した攻撃を以て、大神の心臓を貫く手はずとなった。


 エコ=ネルヴォスは飛翔した。ロクス率いる無数の軍勢を蹴散らし、道を切り開いて突き進んだ。エコは天もろとも敵を焼き焦がし、ネルヴォスの魔法は群がり道を塞ぐ敵を空間ごと切り裂いた。


「ああ、なんと晴れ晴れした戦いだろうか、ネルヴォス!」


「俺たちの勝利を、地上すべての生きとし生けるものが願うからだ!思うまま飛べ、エコ!」


 王国軍は快進撃を続け、エコ=ネルヴォスはいよいよその手の届く範囲にたどり着いた。

 実際に対峙すると、その大きさに物怖じした。巨人の石膏像を相手にしているかのような圧倒的な存在感と威風だけで潰れてしまいそうだった。


 ロクスは口を開いた。言葉ひとつが、落雷のようであった。


「我が神領。大空と大地を侵すものどもよ。なぜ欲す。なぜ穢す。自然への畏怖と敬服。人と龍とはかくありき。なぜ、抗う」


 エコは言葉に詰まった。神の言葉に惑わされぬよう心を固くしていたはずなのに。

 神の言葉は、嘆きの訴えは、この星をこんなにも憂えている。空を求めたのは果たして過ちだったのか?

 エコの心に巣食った疑念は、けれどもネルヴォスの言葉により払拭された。


「俺たちの命は多ければ多いほど、強く輝けるからだ。そして分け合わなければ生きられない、弱い生き物でもある。住処も、食料も、技術も、愛すらも。そう作ったのは貴様だろうに」


「何という愚行!個々に与えられたものだけに至上の感恩を報じておれば、尽きぬ安穏を得られようと言うのに!」


「ならばなぜ貴様は空の蒼を壟断した!抗っているのは貴様の方だ!大神ロクス!」


 ネルヴォスは先制した。最大級の斬撃の魔法をロクスめがけて繰り出した。

 だがロクスは避けようともしなかった。片手ひとつでネルヴォスの全力は防がれたのだ。ロクスの体には傷一つない。無敵の証明がそこにあった。


 ロクスは一瞬のうちに間合いを詰め、ネルヴォスの胴体に拳を叩き込んだ。そのあまりの速さはマルティスの瞬間移動にも匹敵し、目で見て理解した頃ではすでに遅い。


 ネルヴォスの体は宙を落ちた。咄嗟に魔法で防御したはいいが、それでも体の臓器には大きな損傷を受けた。


「ネルヴォス!」


 落下するネルヴォスをエコが拾い上げようと駆けつける。しかしロクスがエコを逃すはずはなく、エコは落雷を受けてしまい、ネルヴォスと同じく力なく落下してしまった。


 エコは痺れる翼を必死に広げようとしながら、強い苛立ちを感じていた。


 何のための翼だ!今日この日のために得た翼だと言うのに、何の役にも立っていない!もっと、素早く飛べる羽と、もっとよく見える目が必要だ!


 エコはどうにか大きく翼を広げると、ネルヴォスの落下に速度を合わせて、その脇の鏡に瞳を重ねた。


「どうか、ネルヴォスを勝利に導く力を!」


 エコの姿は大きく変化した。眼球はどんな速さも見逃さぬよう倍に増え、翼はより高速で、小回りの利く虫のようなものに変化していた。その代わりに角や後ろ足などを失い、もはや龍と呼んでいいのかわからない姿となっていた。


 ネルヴォスは再びエコの背に戻ると、痛みに気を失いそうなのを堪えて、ロクスの姿を捉えた。既に勝敗は決したと言わんばかりに、ロクスは背を向けていた。


「ロクスめ・・・まだ戦えるな、ネルヴォス!」


「ぐっ・・・う・・・ああ。だが、エコ・・・俺のために、何という姿に」


「英雄の龍には相応しくないと?」


「馬鹿な。そんなことはない、君は俺の自慢の相棒だとも!」


「なら、行くぞ!」


「ああ!」


 ネルヴォスとエコはもう一度舞い上がり、ロクスに戦いを挑んだ。

 新たな翼と目を得たエコは別次元の動きをした。通常の龍ではできないような複雑な飛び方を可能にし、予測不能な緩急と、前進以外の直角行でロクスを翻弄した。最初は馴れなかったネルヴォスもすぐにエコの癖を理解し、速度にも順応した。


 ロクスの攻撃を、エコは完全に見切った。単調な白兵戦ではもはやエコを捉えることはできない。そしてネルヴォスは気づいていた。ロクスは格闘の最中に雷撃を同時には扱えないことを。


 エコ=ネルヴォスとロクスは、この時たしかに対等であった。


 しかし、互いに決定打を欠いている状態ではロクスのほうが有利であった。ネルヴォスの魔力かエコの体力が先に尽きれば、防戦一方となってしまう。


 だから王手へ至る一手は、二人の連携に委ねられた。


 エコの業火がロクスを包み込む。ロクスが腕を交差することによって防御の姿勢に入ったところを、更に尻尾による追撃で足を払う。


「小癪な!」


 ロクスにはそれも大したダメージにはならなかった。そしてエコ自身が攻撃に加わったことで、ネルヴォスには明らかな隙きができた。エコはそれをわかった上で行った。それでいいからだ。


 炎を振り払い、ロクスは動きの鈍ったネルヴォスを捉えた。そこへ向けて渾身の突きが放たれる。足払い攻撃という性質上、一瞬背を向けたあとだ。防御は間に合うまい。ロクスは勝利を確信した。


 しかし、ロクスの攻撃は空を切った。ネルヴォスが居るはずの場所に、なにもない。

 ネルヴォスはエコの背を離れていた。足払い攻撃の回転の際に、同時にネルヴォスをロクスの背後へ投げ飛ばしていたのだ。


 視力を持たないロクスは完全にネルヴォスを見失った。そして魔力を感知できた頃にはロクスはネルヴォスの攻撃をまともに受けていた。


 ネルヴォスの氷結魔法が、ロクスを捉えた。一時的に空間ごとロクスの動きを固定する。ネルヴォスは落下しながらも旗槍を大きく振り回した。

 そしてそれを合図に、地上の魔法部隊より、遠隔狙撃魔法が放たれた。


 ロクスの心臓は見事貫かれた。人間と龍の勝利が此処に成った。


 ロクスの体は少しずつ砂粒のように細かく崩れ始めた。曲芸のような一計を実践したネルヴォスはエコの背に戻るとロクスの消滅を見守ろうとした。


「く・・・・くくく・・・」


 ロクスは笑っていた。


「何がおかしい」


「貴様はとんでもない過ちを犯したぞ、ステラルム・ネルヴォス。我を倒せば、蒼い空が手に入ると思ったか?それは大きな間違いだ!」


「どういう意味だ!」


「抗っているのは貴様だ、と言ったな。そのとおりだ。あの黒い雲がなぜ空を覆っているかを教えてやろう。あれは柱だ。その向こうの空を支えるためのな!我が滅びる時、あれもまた晴れる。全ては貴様の願ったとおりだ!手に入れた空に、この星もろとも押しつぶされるがいい!」


 ロクスは高く笑いながら、完全に消滅した。

 エコは言葉を失った。


「そん・・・・な・・・では、私達は、なんの・・・・ため・・・・に・・・」


 黒い雲がゆっくりと晴れてゆき、少しずつ光が差し込む。信じてきたもの、全てが瓦解する。


 ああ、憧れてきた空が、こんなにも、こんなにも、近い。

 空は思い描いた以上の蒼だった。蒼と、翠と、白と、ほんの少しの錆色。


 空が、落ちてくる。


 勝利に喜ぶ声どころか、恐れにおののく悲鳴すら起こらなかった。

 ざわざわと風の音だけが世界を満たし、それ以外はしんと静まり返っていた。


 蒼い空も平和も、勝利と呼べるものすら手に入らなかった。それを誰も理解できなかったのだろう。


「エコ・・・」


 呼んでも、エコからの返事はなかった。二人は首を上に向けて呆然と眺め続けた。


 しばらくしてから、エコは言った。


「何なんだろうな、あれは」


「さあ。でも・・・とても綺麗だ」


「私たちのせいだよな」


「さあ。でも・・・頑張ったじゃないか」


「その結果が滅びなど・・・・あんまりじゃあ・・・・ないか・・・」


 ネルヴォスは声を震わせるエコの背を撫で、そして仰向けに寝そべった。


「平和な蒼い空の下を、君とこうしたかったな」


「ああ・・・ああ・・・!私もだ・・・」


 ネルヴォスは目を閉じた。風は穏やかだった。滅びの時を迎えているなど到底信じられないほどに。


「よし」


 ネルヴォスは起き上がると、深呼吸をした。エコはその行動にどうも不穏なものを感じた。


「ネルヴォス?」


 エコが首を向けた先で、ネルヴォスは鏡を掲げていた。ネルヴォスはにこっと微笑みを返した。覚悟を決めた時の、ネルヴォスの表情だった。


「おい、何をする気だネルヴォス!」


「エコ、すまなかった。君の願いを叶えてあげられなくて」


「願いなんかもういい!今はただ、お前がいれば・・・だから頼む・・・・お願いだからやめてくれ・・・!」


 いつだって、後悔のないように行動してきたはずだった。それでもエコの心を満たしたのは後悔ばかりだった。


 もっとたくさん話をしておけばよかった。一緒に笑うのも、喧嘩をするのも、涙するのも、空を飛ぶのも、口づけも・・・何一つ満ち足りない。

 せめて、せめて最後に・・・。エコは手をのばすも、それは虚しく空振った。





「ごめんね」


 エコの静止も聞かず、ネルヴォスは空の下へ落ちていった。


「夢をうつす鏡よ!」


「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 そして、エコがネルヴォスの声を聞くことは、二度となかった。



  ◇



「・・・・・こうして、ネルヴォスの勇気によって大地の肉が世界を覆い、蒼の落下は食い止められて世界は平和になりましたとさ」


 赤龍は話し終えると、ぷうと鼻から小さく火を吹きました。


「そうやって、今の世界が出来上がったんだね」


「そういうことよ。つまり私達はネルヴォスの体内に大事に守られているというわけ。だから資源はみんなで、大事に使わないと駄目よ」


「ところでその後エコはどうなっちゃったの?」


「さてねぇ、ネルヴォスの生まれた村にでも行って、そこで余生を過ごしたんじゃないかしら」


「不思議な物語だね。今まで聞いたものよりずっと!」


 トーヴは満足そうに笑って立ち上がると、背中にしょっていた荷物をひとつ下ろして言いました。


「はぁ、とても楽しかったよ」


「ええ、私も楽しかったわ。でも、もう本当に此処へ来るのはおやめなさい。もうすぐ私の牙を狩りに、たくさんの男たちが現れるわ」


「どうしてそんな事がわかるんだい?」


「私の目は壁の向こうもよく見えるのよ」


「そう・・・・ところで、今日はいつものお礼に、お土産があるんだ」


「まあ、何かしら」


 きっと布に包まれたもののことを言っているのだろう、と赤龍は思いました。手こずりながら布から取り出されたものを、トーヴは自慢げに見せてあげました。

 赤龍はそれを見て目を丸くしました。


「じゃーん、これ、『魔法の鏡』なんだって!少し前に発掘されたものをかっぱらってきてしまったよ。なんでも、これには見たこともない何かが映るらしいんだ。まるで、さっきの物語の鏡みたいだろう?」


「ええ・・・ほんとね」


「それじゃあね。今日もありがとう。きっと、また会おう!」


 そう言うと、トーヴはいつものように去っていきました。赤龍は手を振って見送りました。


 トーヴがいなくなったあとで、赤龍は残された鏡を眺めていました。そしてぽつりと、誰にともなくつぶやきました。


「懐かしいわね、ヴェネフィクス。おかげさまで元気にしているわ」


 当然、誰からの返事もありませんでしたが、赤龍はとても嬉しそうでした。

 赤龍は鏡を拾い上げるとそれを覗き込みました。今更望むこともないので、鏡に写るのはなんてことない自分の姿だけ・・・そう思っていました。


 しかし何ということでしょう、鏡はぐにゃりと像を変え、その先に全く知らないものを映し出していました。

 赤龍は驚きました。かつてこんなことは一度もなかったからです。


 鏡の向こうにあるのは、赤龍の知らない世界でした。見たこともない建物が乱立し、たくさんの人間が暮らし、緑に満ち溢れ・・・・。何より空はとても蒼々としていました。


「ああ・・・・・あああ・・・・・!」


 一度忘れたはずの夢。


 二度と見ないと誓った夢。


 鏡の向こうには、それがあったのです。


「なんて、なんて美しい。こんな空へあなたを連れて行ってあげたかった!ああ、どうしてここに空はないの?ねえ、その空は・・・どうしてそんなにも蒼いの?ああ、親愛なるトーヴ、あなたのくれたプレゼント、とっても素敵だけど、それ以上に残酷だわ・・・!」


 赤龍は鏡の世界に釘付けになってしまいました。憧れのためでしょうか、恩讐のためでしょうか。はたまた嫉妬のためでしょうか。


 赤龍は一日中鏡を見つめました。二日目も、三日目も、一週間経っても。食べることも寝ることも忘れて、鏡の世界に思いを馳せました。


 とうとう牙狩りの勇者たちが赤龍のもとを訪れました。勇者たちは数を揃えて赤龍に襲いかかりました。それでも赤龍は鏡から目を離しませんでした。


 勇者たちは赤龍からの反撃がないことに気がつくと、攻撃の手をより苛烈にしました。


 赤龍は殴られ、蹴られ、切りつけられ、鱗を剥がれてもやめませんでした。

 そして勇者の剣がついに、肉の露出した首元に突き刺さり、赤龍は仕留められました。勇者たちはついに念願の赤龍の牙を手に入れたと、切り落とされた首を天に掲げて大いに喜びました。


 鏡にはもうなにも映っていませんでした。


 勇者たちは赤龍の首を担いで歌を歌いながら、上機嫌でトンネルを通って村へと帰りました。村はやはり暗い地下深くにありました。

 勇者の帰還に宴が催されました。そして、村人たちの前で牙を解体されていきました。


 その最中のことでした。赤龍の目元から、ころりと何かが落ちました。勇者のひとりが気づき、それを拾い上げました。手の中に握られていたのは、涙の形をした石でした。


 勇者は息を呑みました。それは宝石の牙が霞むほど純粋で、胸がとどろく美しさだったのです。


 それを見た一人の小さな少女が、勇者に近寄り言いました。


「わぁ、とっても素敵な石!でも・・・見ているとなんだか悲しい気持ちになるな。ねえ、お父さん。その石はどうしてそんなにも蒼いの?」


 勇者は答えることができませんでした。


 勇者たちは赤龍の首を元あるところへ返すことにしました。涙の形の宝石も龍の遺体のそばへ埋められました。そしてそこは神聖な場所に指定され、誰も立ち入れぬようになったのでした。


 こうしてこの村には小さな物語が実しやかに語られるようになりました。

 その物語の題名は『煉獄の赤龍と無垢の結晶』というのだそうです。


 後日、村の外れで一人の少年の遺体が見つかったというのはまた別のお話。


                        

                        めでたし めでたし

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煉獄の赤龍と無垢の結晶 水屋七宝 @mizumari

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