第8話

 伸介が担任をしているクラスに手のかかる生徒がいた。その生徒は伸介の言うことを聞かず、悉く反抗した。その反抗も公然としたもので、面と向かって、「お前」と言うし、「ぶっ殺すぞ」と威嚇してくることもあった。叩くと、「叩いたな! 」と言って胸ぐらを掴んでくるという生徒だった。伸介はそんな生徒に接するのは初めてであり、その生徒の担任だった一年間は教師としてのプライドを傷付けられながら、対応に悩み続けた。学年の終り頃には反抗するその生徒に本気で喧嘩するつもりで、「かかってこい! 」と叫んだこともあった。

 原因を考えると、その生徒との最初の接触が体罰だったということもまずかったし、その後の伸介の対し方も良くなかった。彼は教師に必要な落着きを欠いていた。内心はおっかなびっくりなのに、教師としての体面を保つことばかりを考えてその生徒に臨んでいた。それが生徒から見透かされていた。伸介はその生徒から、「びびっとんのか! 」と言われたこともあったのだ。

 その生徒とは最後まで対立した関係のまま、二年生の一年間が過ぎ去った。伸介としてはもうその生徒と接したくなかったし、その生徒の教育上もその方がよいだろうと思ったのだが、大学受験本位のカリキュラム編成と教科内部の事情から、三年生になると担任こそ外れたが、その生徒のいるクラスに週九時間も教えに行かなければならなくなった。しかもそのクラスは学年のいわゆるワルたちを集めたようなクラスで、伸介を悩ませた生徒級のモサが五、六人もいた。

 伸介にとって毎時間が果し合いのような緊張の連続だった。その果し合いを毎日一度は勿論だが、一日に二度しなければならない日が週の半分あるのだ。彼にとってはまさに地獄の日々だった。

 それでも一学期は生徒たちも新しいクラスや担任に慣れていないこともあり、また一学期の成績が仮評定を付されて志望進学先へ内申されることもあっておとなしくしていた。しかし二学期も半ばになるとクラスにも慣れ、余裕が出てくる。

 ちょうど席替えがあって、最前列にワルのモサたちが並ぶことになった。教壇に足を乗せている者もおり、伸介は一種の圧迫を感じながら授業をしていた。特に板書するときなどは無防備な背中を彼等に晒している感じで、意識が自然と背後に向かうのだった。そんな時、彼等の私語の中に、「こいつ態度大きいな」という声を伸介は聞いた。自分のことを言っているように伸介には思われた。不快で不安な気分が起きた。同時に自分の後ろ姿を見つめている彼等の目が意識に浮かんだ。それ以後、伸介は板書をする度に背後に彼等の視線を意識するようになった。彼は緊張のあまり神経質になっていたのだ。生徒たちは伸介の内心の緊張や恐れを見抜きだした。伸介を悩ませた生徒の吹聴もあっただろう。しだいにワルたちの態度に伸介を揶揄するような色が出始めた。

 そしてある日、板書をしていて、「尻の形が云々」という彼等のなかの誰かの声を伸介は耳にした。自分の尻の形についてこいつら何か言っているのかと伸介は思った。頭に血が上った。ひどい恥辱だと思った。こいつらこういうやり方で俺を馬鹿にしてくるのかと思うと、伸介は近頃の生徒の奇妙な大人び方に舌を巻く思いだった。しかし聞き違えかも知れず、と言って誰が何と言ったのか、振り向いて問い質すようなことでもなかった。つまらないことを気にかけるなと自分に言いきかせながら、伸介は板書を続けた。

 そんなことがあってしばらくして、伸介は奇妙な現象に気がついた。彼と対立し続けた生徒が授業中、ズボンの内側に手を差し入れてもぞもぞと動かしているのだ。明らかに股間の一物を握っているようだ。伸介は目を逸らした。これはどういうことだ。こいつはオナニーをしている。伸介は混乱を覚えながらも、深い屈辱感に浸されていった。「尻の形云々」の言葉を聞いた時、反射的に伸介の頭に浮かんだのは男色であり、ホモだった。現在の社会の性風俗は興味本位に流される情報によって敏感な高校生に浸透しており、男子校の教室ではそれらの用語がおおっぴらに飛び交っている。ホモセクシュアルな事象も彼等は気軽く口にするのだ。あの言葉を聞いた時、伸介は自分がホモの対象として見られたのだと思った。だから恥辱を感じて頭に血が上った。そして今、その一歩進んだ形を見せられているのだ、と伸介は思った。俺の姿を見ながら、こいつはオナニーをしているのだ、と。伸介は対処に戸惑い、取り敢えず無視することにした。彼は深い動揺を覚えながら、何とか授業を終えた。

 生徒は同じ事を繰り返すことが予想され、伸介は対処の仕方を考えなければならなかった。やはり無視することは出来なかった。

 案の定、その生徒が同じ動作をするのを見たその次の機会、伸介は意を決して「何をしとるんか」とその生徒に注意した。そして「恥ずかしいのう」と付け加えた。クラスの他の生徒に知らせて恥をかかせることで懲らしめるというのが彼の考えた対処だった。〈ここはお前の勉強部屋じゃないんだぞ〉という言葉も考えていたが、それを言える余裕はなかった。生徒は「見るな」と言い返したが、動作をやめた。その後はそういうしぐさはあまり目につかなくなった。体育の授業の後で、体操服のまま授業を受けている時など、短パンの下に手が入っていることもあったが、伸介が見ると、すぐ出すようになった。しかしこの悪風は他のワルたちにも伝播していて、彼等の中で一番陽性で、いつも突拍子もない発言で授業を攪乱する生徒が、そそり立った一物を出して、公然と片手でしごいているのを伸介は目にしたこともあった。その生徒はあっけらかんとしたところがあり、伸介は苦笑を覚えながら、注意する気にもなれなかった。

 例の問題の生徒は、今度は伸介の授業中トイレに行くことが多くなった。殊更のように伸介の目の前まで近づいて、「ウンコ行っていいですか」などと幼児めいた言葉遣いをするのだ。始めのうちは何気なく許可していた伸介だが、度重なると、こいつはトイレでオナニーをするのではないかという思いが浮かんだ。すると、その生徒がトイレに行っている間は、今頃は自分のことを考えながらオナニーをしているのではないかという思いが彼を不快な落着かない気分にした。しかし、トイレを許可しないわけにはいかず、その生徒が前日に続いてトイレを申し出てきた時、「お前、よく行くなぁ」と伸介は皮肉を言ってやった。生徒は嫌な顔をしたが、それ以後はあまり言ってこなくなった。

 こうして悪夢のような一年が過ぎ、その生徒たちは卒業していった。しかし伸介には奇妙な感覚が後遺症のように残された。彼は自分の後ろ姿、はっきり言えば尻を、人(特に男)の視線に晒す位置をとる時、自由さを失ってしまうようになった。何気なくそういう位置をとることができなくなったのだ。そんな場合、彼は尻を見られている自分を、もっと端的に言えば、男色の対象となっている自分を否応なく意識させられてしまうのだ。そしてそんな意識を持つ自分に違和感と不快感を感じて戸惑うのだ。自分が健全な男ではなくなったような不甲斐なさと屈辱感を覚えるのだ。それは自分が自分でなくなったというアイデンティティー喪失の不安感を伴うものだった。

 体操服の短パンやズボンの中に手を入れている生徒を、伸介はその後も授業中何度か目にした。冷静な目で見ると、そういうことはこの年頃の男子には珍しいことではないようだった。特に夏の体操服の短パン姿の時には何気なく手を入れるようだった。とすればあの生徒たちも特に伸介を意識してそういう行為をしていたわけではないと言えるのかも知れなかった。そう思うと伸介の屈辱感は少し薄められた。しかし後遺症はなくならなかった。


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