第6話
桂子が熱を上げていた男は四カ月ほど前コンディショニングⅡのレッスンに入った、寡黙でがっしりした体つきの男だった。年齢は三十代後半くらいで、苦味の利いた風貌をしていた。泳ぎは達者で、レッスンでは伸介のいる一レーンではなく、隣の二レーン、つまり五十メートルを五十五秒以内で泳ぐレーンに入っていた。聞くところでは柔道三段で、勤め先ではラグビーもしているらしかった。いかにもそんなごつさを感じさせる男で、桂子の好みには合うようだった。桂子がたくましい男を好きそうなのはカラオケで歌う曲からも察せられた。彼女がよく歌う歌の歌詞に「言葉じゃだめさ、男らしさを立てておくれ」という文句があり、伸介はその文句に桂子の志向を強く印象づけられたものだ。
打ち上げでの出来事が伸介の足をフィットネスクラブから遠ざける方向に作用したのは確かだった。彼をプールに導いていた牽引力の一つが大きく揺らいだのだから当然とも言えた。彼はつまりがっくりきたのだった。
しかし、伸介が桂子に引かれる気持は元々性的牽引を内容とする遊び心であり、それもそんなに強いものではなかった。彼はフィットネスクラブに通う本来の目的に自分の気持をセットし直した。健康のため、糖尿病の発病を抑えるため、彼には運動が必要なのだった。伸介は十日ほどの間隔を置いて、また以前と同じようにクラブに通い始めた。スイムマラソンという年間で最もハードな行事が終れば、疲れを癒すために暫く休むことはよくあることで、伸介のブランクもそんなに目立つことではなかった。
伸介は桂子に対して言葉や表情などで特別な親しさを示すことはやめ、会員とインストラクターという割り切った関係で接するようにした。それが本来であり、無難なのだ。すると桂子の方も、そんな伸介の気持を察したのか、ビジネスライクな対応をしてきた。勝気な彼女らしかった。
桂子とその相手の男ー柴田との関係がその後どうなったのか、伸介には分からなかった。伸介がプールで二人を観察する限りでは、会員とインストラクターという関係からはみ出すものは見えなかった。伸介はその後、柴田が妻帯者で子供も二人いることを知った。とすると、桂子は不倫の相手にはならないという自らの言葉を遵守しているのかも知れなかった。
あの出来事の後、伸介は柴田が自分に気を遣い始めたように感じていた。柴田はこれまで伸介とプールで会っても会釈をすることもなかったのだが、近頃は顔が合うと頭を下げたり、挨拶をするようになっていた。伸介は柴田のこの変化を、伸介が桂子に気があることを知ったためではないかと思っていた。桂子の気持を射止めた柴田が優越感とともに感じる伸介への済まなさの意識が気を遣わせているのではないかと。それは伸介としても面映ゆい推測だった。あるいは伸介は次のようにも考えた。あの夜、桂子は確かに柴田に激しく迫ったが、その後柴田が妻子持ちだと知ると、やはり距離を置くようになった。治まらないのは柴田の方だ。あれだけの情熱を示しながら、一転して冷たくなった桂子の態度が物足りない。満たされない気持で桂子を注視していると、どうも桂子は伸介を意識しているようだ。それで柴田も伸介に関心を持つようになった。もう一つの推測は、表面的には変化がないように見える柴田と桂子の関係だが、隠れたところでは進んでいて、親密に語り合うようになっている。その語らいのなかで、桂子が伸介のことを好意的に話した。それで柴田も伸介を意識するようになった。後の二つの推測は伸介が今もなお、柴田は代替で、桂子の本命は自分だと心のどこかで未練がましく考えていることを示していた。
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