第3話

 その指導を受ける以上、桂子は伸介にとって無視できない存在であり、注意を払うべき相手だった。伸介はレッスンの間、桂子の指示を注意深く聞き、それに忠実に体を動かそうと努めてきた。桂子の指示にはそれだけの説得力があったからだが、そうであるだけ尚更、伸介は桂子の良い生徒であろうとした。彼は桂子から自分を軽んじていると思われることを恐れた。あなたは立派なインストラクターであり、女だからと言って馬鹿にするような気持は全くないということを伸介は常に桂子に示そうとしていた。それは自分を桂子から良い生徒、真面目で分かりのよい受講者と認められたい気持の裏返しとも言えた。つまり伸介もまた桂子から軽んじられたくなかったのだ。

 それで伸介は桂子に会った時の挨拶からこだわった。彼は桂子に会ったら先生として失礼のないように頭を下げ、挨拶しなければならないと考えていた。しかしそれは同時に彼が桂子に求めることでもあった。伸介が桂子に自分と同等以上の礼儀を求める理由もあった。フィットネスクラブの会員である伸介は桂子にとってはお客様であり、また彼は桂子より年上というのがそれだった。そんなわけで伸介が挨拶したのに桂子からうまく返しがないと彼は不愉快になった。そんな出会い時のつまずきがわだかまりを生んで、二人の間に緊張を醸し出してしまうことも初めのころにはよくあった。

 そんなどこかぎこちない伸介と桂子との関係が少し進展したのは、伸介がレッスン参加者の飲み会に出るようになってからだ。タイムトライアル(一キロをどのくらいの時間で泳ぐかを計測)やスイムマラソン(さだめられたインターバルで一時間泳ぎ続ける)などの後には打ち上げの飲み会が行われた。参加者の自発的意志で始まったものが恒例化していた。コンディショニングⅡの参加者が主要メンバーだった。桂子は飲み会に積極的に参加した。初めの頃は会員が幹事になっていたが、次第に桂子が飲み会の推進力となり、彼女が場所や時間を決め、呼び掛ける形になっていた。

 伸介が初めて飲み会に出た時のこと、割烹での一次会を終え、六名ほどが二次会のスナックに向かった。カウンターに座り、それぞれがカラオケを歌った。桂子は酔ってはしゃぎ気味だった。桂子の誘いで伸介は彼女とダンスをすることになり、他のメンバーの冷やかしの声の中で二人は体を寄せ合った。踊りが終り、伸介はふとした遊び心で、「どのくらいの重さかな」と言いながら桂子を抱え上げた。桂子は小柄な女であり、軽く小さな体だった。伸介は「軽い、軽い」と言いながら、抱えたまま、二、三度揺すった。桂子は笑いながら身を任せていた。

 それからも何度か飲み会があり、その度にいくつか伸介と桂子の接触が生まれた。酒場を移動の途中、桂子が伸介ともう一人の男の間で、腕にぶら下って宙ぶらりんになったり、酒場の場所を間違えて路上に座り込んだ桂子を伸介が抱え上げたりしたこともあった。そんな時の桂子は本当に楽しそうで、伸介は自分が桂子に決して拒否されていないことを感じて嬉しくなるのだった。スナックのカウンターに座っている桂子の裸の肩に、伸介が手を置いて話しかけた時、その手に応えるように体を傾けてきたこともあった。そんな接触は外から眺める水着を着けた肉体としてではない、性格をもった一人の女としての桂子を伸介に感じとらせた。

 伸介は確かに桂子に引かれるものを感じていた。しかしそれは愛とは言い兼ねた。それは言ってみれば、互いに水着で接することを媒介とした性的な牽引だった。伸介の他にも、コンディショニングⅡのレッスンに入っている男、特に中年の男の会員には桂子にそんな牽引を感じている者が居るようだった。実際、三次会まで残って、もう半年近く妻との接触がないなどと言いながら桂子を口説いた男もいた。桂子が三十代の後半という年齢で独身であることが男たちをそんな気にもさせ、また桂子自身もその勝気な言動のなかに、男を求める熱い情のようなものを発散させているのだった。

 

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