私が19歳の頃
「あれ?もしかして……ゆかり、さん?」
寝不足気味の目を擦りながら、「気まぐれ貴族」のコーヒーをカウンター席で味わっていると、後ろから私を呼ぶ声がした。振り返ると拓郎くんのお手伝いだった人がスーツ姿で立っていた。久しぶりすぎて名前を思い出せないのだけど。
拓郎くんに負けず劣らず背が高く、逆三角形の体つきをしている人がスーツを着ると、こんなに様になるんだなとぼんやり思う。
「あ、おはようございます。えっと…」
「田中っす。田中俊介。奇遇っすね!」
「ああ、そうでした。ごめんなさい、名前」
「いいっすよ、平凡な名前だから一度で覚えてもらえること少なくて」
あ、隣いいっすか?と言いながら、専用マグを片手に田中さんは隣に腰掛けた。
「よく来るんですね?」
専用マグは、このカフェで購入することができる。中身はカフェラテのようだ。
「ええ、よく拓郎と朝、かち合うんですけどね。ここのラテがないと一日が始まらないっす。ゆかりさんは?」
「私も時々。ブラックが飲みたくなると来るんですよ」
「ブラック!大人っすね!俺はカフェラテ、ココアパウダー倍増乗せっす。ついでに砂糖入りで」
「ふふ。すごく甘そう」
「ま、俺みたいなビターな人間にはちょっと甘みが必要ってことで」
ばちん、と上手にウインクをしてみせる田中さんに、ああ、女慣れしてる人なんだなと思う。わざとらしいのに嫌味にならないというのはイケメンならではなのだろうか。
ビターというよりミルクココアみたいな人だけど。
「はあ〜、大抵の女の子はこれで頬染めるんっすけど、ゆかりさんには不発でした」
わざとらしくしょぼんとする田中さんに、苦笑する。
「いやいや、上手にウインクするなって感心しました」
「そこっすか!?」
田中さんはI T会社の営業マンで、なかなかやり手らしい。拓郎くんとは高校時代からの友人で、安城(兄)ともアメフト部で先輩と後輩の仲だった。高校を卒業してからもアメフトは有志を募って3人とも続けていたのだが、社会人になってから仕事が忙しくてなかなか練習時間が取れず、ラグビーに移行したらしい。
そういえば、拓郎くんもそんなこと言っていた。
「週末は大抵試合があったんっすけど、出張が続いて試合も練習も出れなかったせいでメイン外されたんっすよ。そんで、安城先輩が結婚しちゃったもんだから、もうダメだなって。拓郎のやつは仕事の仲間とラグビーを始めちゃったし、俺もそっちに行こうかなって思って」
「最近人気ですもんね」
「でもアメフトとラグビーって接触の度合いが全然違うんっすよね。ラガー選手ってダンプカーみたいにゴーっと走り込んでくるんで怖いったらないっす。ゆかりさんは見たことないっすか?」
「そうですねえ。スポーツはテニスくらいしか見ないです。あとはウィンタースポーツ系でスキーとかスケートかなあ」
「あ、じゃあ今度見にきませんか?ちょうど今週末試合があるんっす」
「え、ラグビーの?」
「はい。あ、俺も今回は見学だけなんで、まだ始めるかどうかわからないっすけど。卓郎は出るはずっす」
「えっと、か、考えておきます。でも迷惑じゃないですか?」
「迷惑?まさか!女の子の応援はみんな大歓迎っすよ。無理にとはいいませんけど、天気も良さそうだし。あ、俺のケータイこれなんで」
田中さんは名刺を取り出して、私に押し付けた。
「連絡待ってます、ゆかりさん」
そう言って、遅刻遅刻、と慌てて出て行った。
「若いわぁ……って口に出すとおばさんっぽいけど…」
私は田中さんの名刺をバッグに入れて、残ったコーヒーを一気に飲み干した。気がつくと朝のモヤモヤした気持ちはスッキリしていて、少し寝不足気味ではあったものの、その日の仕事は滞りなく進んでいった。
◇◇◇
今晩は牛丼が食べたい気分だったので、帰りにスーパーに寄って薄切り肉とネギを買った。今週末はまたクックオフしようかと思っていたのだが、田中さんのいう通り、たまには気分を変えて出かけるのもいいかもしれない。田中さん曰く、拓郎くんも試合に出るみたいだし、機会があったら聞いてみようかな。あ、でもあの彼女さんと仲直りするなら、私が行くとややこしくなるのかしら。
昨日のような、カップルの喧嘩なんかを耳にしたから、昔のことを思い出して夢にまで見たのに違いない。誠司くんのことはすっぱり忘れたと思っていたのに、意外としこりになっていたのか。変な事件に巻き込まれたりしたものだから、気掛かりになっていたのかもしれない。
誠司くんは今頃どうしているんだろう。マグロ女と別れたと思ったら、二股かけてた彼女がすでに妊娠していたなんて。避妊もしなかったのだろうか。そう言えば私の時もナマでシたいとか、気をつけて外出しするからとか言ってたな。断固拒否したけど。誠司くんとの最初も最悪だったっけ。
「19歳ですでに母とか、その覚悟がすごいわ…」
私は来年30歳になる。まあ、別に焦ってもいないしいいんだけど、そう考えると小さな子供がいてもおかしくない年齢なのか。私の周りは結婚をしていない人が多いせいで、割とみんなのんびりしている。手に職があるからなのか。
自分が19歳の時、何を考えていただろうか。作家になりたくて、人間ウォッチングを楽しんでいた。何もかもがネタになる気がして、耳を澄ましていたし、好奇心で色々首を突っ込んで、好きでもない人と付き合ったりもした。それで、乱暴されたんだ。あれは19の時だったのか。
「あの時妊娠しなくてほんとよかった…」
あの男は…。付き合った男なのに名前も覚えていないし、顔も朧げだ。自信家で軽薄で、私を落とせるかサークルの仲間と賭けをしたんだと言っていた。今頃どこでどうしているのか。レイプしたことを後悔しているのだろうか。それともすっかり忘れてしまったのだろうか。
「まあ、私もすっかり忘れていたし。お互い様か」
屈辱的で、鹿子の住んでいた寮に押しかけた。悔しくて痛くて一晩泣いた。でも、好奇心で首を突っ込んで自分を疎かにしたのは私自身だったから、忘れることにしたんだった。
それ以来、人を信じることはやめた。そして作家になることも諦めた。第3者の目から見ると、人間関係は意外とはっきり見えてくる。それですっかり興味を無くしたんだ。
情熱を無くしてしまった。
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