トラブル到来
思い耽っていてもお腹は空く。すっかり暗くなってしまったことに気がついて、慌てて炊飯器のスイッチを入れた。玉ねぎを刻み、軽く炒めながらニンニクと胡麻油をたらし生姜も入れる。白滝を入れて軽く炒めてから水を足し、火をトロ火に緩める。醤油とみりんと、砂糖の代わりに羅漢果の甘味料を入れる。25歳を過ぎたあたりから砂糖を取りすぎると体に悪い聞いて、羅漢果はすっかりおなじみになった。仕事柄、よく甘味を脳が欲しがるので、カカオニブやココナツ、羅漢果で誤魔化しているのだ。高血圧とか糖尿病とかも怖いしね。
こんなことを考えなくてもよかった10代が懐かしい!
そろそろご飯が炊ける、と言ったところでピンポン、ピンポンとベルが鳴りどんどんとドアを叩く音がした。
「ん?鈴木さんかな?」
『ゆがりぢゃん』と呼ばないことに引っかかりはしたけれど、平日にこうして来ることは少ない鈴木さん、さては鍵を無くしたとか牛丼の匂いに釣られてきたのかと思い、はいはいとドアを開けた。
目の前には、鈴木さんではなく昨夜の女の子が私を睨みつけて立っていた。
ぱあん、と乾いた音が廊下中に響いて私はよろめいて壁に手を付いた。数拍後に頬を打たれたのだと気がついた。
強烈な一撃。
この小さな体のどこにそんな馬鹿力が秘められているのかと驚いて、その子を見返した。私の身長は168センチ。彼女は多分160センチもない。けど、ものすごいピンヒールを履いているから視線はそれほどで変わらない。あれで足を踏まれたら甲に穴が開くだろうなと考えていると、彼女がペッと唾を吐いた。
うわ、きったな!?女の子が取る態度じゃないでしょ、それ。
幸い顔にかかるほどの距離は飛ばず、そのまま曲線を描いて自分の高価そうな靴にペチャッと落ちた。あっという顔なったが、それも私のせいだと言わんばかりに靴を脱いで、私に向かって投げ捨てた。もちろん避けたけど。
もう。何この人?
「この泥棒猫っ!タクは私の恋人なのよ!割り込んでこないでよ!」
「……え?」
驚いた。本当に何この人。
「どちら様ですか?」
私が真顔になり低い声でそういうと、少し怯んだように視線を泳がせる。
「な、なによっ!しらばっくれたって駄目よ!私知ってるんだから!おばさんのくせにタクに手を出すなんて図々しいのよ!くそブスババア!」
「……ババア……」
大きな瞳からぼろぼろと溢れる涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。ちょっとパグみたいよ。化粧も流れ出してるから、見苦しい。あ、まつ毛長いと思っていたら付け睫だったのね。叩かれた頬よりババアって言われた心が痛い。まだ29歳だよ、私。
ヒリヒリと痛み出した頬に手を当てると熱を持っていて、どうやら引っ掻かれたのだと気がつく。必死に毛を逆立てて威嚇してくる姿は、自販機の後ろに住んでいる野良猫のクロにそっくりだった。ああ、そう言えば、子供がいる時はこうやって威嚇するんだよな、子猫を守るために。
あれ。まさかと思うけど、この子も妊娠してるなんてことはないだろうな。
最近の若い子は、って言い始めると歳をとった証拠とはいうけれど。一度あることは二度あるとか、こんなところで体験したくないんだけど。
「何してる!?」
呆然と頓珍漢なことを考えていると、ちょうど仕事帰りだったのか、タイミング悪く拓郎くんが通路の先から走り込んできた。
「ゆかりさんに何をした!美優!」
「タク!?」
拓郎くんは美優さんを押しのけて、私の顔を覗き込んだ。明らかに叩かれて、爪を立てられた私の頬にはミミズ腫れが浮き立っていて血が滲んでいたようだ。「血が…」と呟いてヒュッと息を呑んだ拓郎くんは私を後ろ手で隠し、押された勢いでよろめいた美優さんと対峙した。
途端に美優さんは真っ赤な怒り顔から血の気が引いて、真っ青になって後ずさった。
「そっ、そのおばさんが悪いのよ!そっちが先に手を出したんだからぁ!」
いやいやいや。私ドア開けただけだから。
なんて言いながら、足もガクガクと震えている。私から拓郎くんの顔は見えないが、怒っているのだろうということはわかった。後ろで隠されていても、全身の毛が逆立っているようなピリピリした気配が溢れている。これが殺気というのかしら。自分に向けられなくて良かった。今は顔を見るの、ちょっと怖いかも。
「た、タク…。ごめんなさい、許して…。私、私っタクと別れたくないの、だから…」
「お前、俺に接近禁止令が出てるの知ってるか?裁判で有罪になったんだぞ?これ以上付き纏うなら刑事訴訟を起こす。ここには来るなと昨日も言ったよな。美優の嘘で、俺は仕事も友達も無くしたんだ。許せるわけないだろう!」
うわ、なんかトラブル娘だったのね?
「俺が、本気で怒る前に、俺の前から消えてくれ。二度と俺の前に現れるな。美優の嘘はもうたくさんだし、俺は美優を信じられないと散々言ったはずだ」
「タ、タク…お願い、私、タクをあい…」
「失せろ!」
「ひっ!」
美優さんは飛び上がって慄き、靴を片一方残して走り去っていった。後ろに隠されていた私は最後まで拓郎くんの顔を見ることはできなかったけど、彼の腕は僅かに震えていた。
「あの…」
私はそっとその腕に触れると、ビクッとして拓郎くんは振り返った。その顔は今にも泣きそうで眉はヘニョリと垂れ落ち、腰をかがめる。
「痛かったろ?ごめん、俺のせいで。すぐに冷やさないと…」
彼の大きな手のひらが、打たれた頬にそっと触れた。僅かに震える手が冷たくて気持ちいい。思わず拓郎くんの手に頬を押し付けてその手の上から自分の手を重ねた。わずかに拓郎くんが目を見開く。視線が絡まって言葉が出てこない。
吐く息が震えて、拓郎くんが何かを言いたげに僅かに唇を動かす。喉仏が上下するのがわかって、私はその唇から紡がれるであろう言葉を黙って見つめた。
これは、どういう状況なのか。
私は期待している。この状況から、勘違いをするほど純粋ではない。でも受け入れるべきか突き離すべきかを考えられない。鹿子は流されるなと忠告してくれた。その通りだと思う。
思うけど。
拓郎くんの顔がゆっくり近づいて、柔らかい感触が唇に押し付けられた。
心臓の音だけが頭に響く。私は身動きもできず、ただ目を閉じた。
どれくらいそうしていたのか、あるいはほんの僅かな時間だったのか。拓郎くんの手が私の両肩に移動して、彼の頭がその上に載せられた。
はあ、とため息をつかれて、我に返る。
「……ごめん」
ぽつりと拓郎くんが掠れた声でつぶやいた。
それは、何に対する謝罪なのか。
キスして、ごめん?巻き込んで、ごめん?
「タオル、濡らしてくる」
そう言って、拓郎くんは自分の部屋に戻っていった。
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