舞い戻った男
そんな会話を鹿子とした数日後、噂をすればなんとやらで、誠司くんが部屋にやってきた。
私の住むアパートは昭和に建てられた割と古い建物で、名前も昭和ハイツという捻りのないアパートだ。2階建ての8部屋しかない建物で、間取りは2DKで広めだ。おしゃれとはかけ離れているが、お風呂とトイレが別で庭があり、月5万円の物件はおいそれとは手放せない。二階に住む向井さん夫婦はベランダで野菜と盆栽を育てているし、三号室のおばあちゃんは鈴木さんと言って、野良だった猫のミケとタマを引き取って仲良く日向ぼっこをしている。時々酒屋の末松さんと家で飲んでいるらしく、私も御相伴に
周りの建物もそんな感じでちょっと古びた趣きのあるこの周辺は、時間の流れが違うような気がして心がほっとするレベルなのだ。地域の防犯対策で、近所のおじさんたちが夜になると今時カチカチと拍子木を打ちながら周辺を見回りしているし、近所付き合いも極めて良い。ギリギリ20代後半の喪女である私がここに安心して住めるのは、この辺にある。
と思っていたのだが。
「頼む、ゆかり!開けてくれ!」
冗談じゃない。今頃何しに来たんだ。居留守を使おうかとも思ったけど、そういえば誠司くんは勝手にコピーした私の部屋の合鍵を持っているんだったと青ざめて、ドア越しに声をかけた。ついでにこっそりチェーンも掛けた。
「鹿子から誠司くんは結婚したって聞いたけど?」
今更、前カノの家に突撃するなんてどう言う神経をしているんだか。
「そ、それは……!騙されたんだ!」
「いやいや、奥さんって例の受付の女の子なんだよね?時任建設のお嬢さん、だっけ?」
名前は忘れてしまったけど、二股かけて同時進行していた彼女さんよね。私と別れる前に妊娠させた。ガッツリ種を仕込んでおいて騙されたんだって、どのツラ下げて言うのか。
「な、なんでそれを…。と、とにかく開けてくれよ。こんなところで話すことじゃないだろ!中に入れてくれ」
「嫌だよ。なんで入れなきゃいけないの。結婚したんだから諦めて奥さん一人に絞りなさいよ。今更戻ってこられても困るから」
「そうじゃないんだよ!俺の子じゃないんだ。騙されたんだって言ってるじゃないか」
「はあ?なんで自分の子じゃないってわかるのよ」
「だ、だって俺じゃないんだ!シた時期と妊娠期間が合わないんだよ!」
「そんなの私の知ったことじゃないでしょ。って言うか、誤解されるから私のとこにこないでよ。浮気とか言われたらどうするの」
「冷たいこと言うなよ、俺とお前の仲じゃないか!」
「いや、もう全然関係ないから。帰って」
「な、なんでだよ!頼むよ!話を聞いてくれ」
誠司くんはそう言ってがん、とドアを蹴った。多少乱暴でもやつ当たり的な行動に出ることは今まで無かった事もあって、驚いてドアから距離を置く。
「開けないなら、お前の性癖ここでバラしてもいいんだぞ!!近所の人に聞かれたく無かったら開けろ!」
「私の性癖って……そんなのないわよ!帰らないんなら警察に通報するわよ!」
何?この人、こんな人だった?ちょっと怖いんですけど。脅迫をしてくるような男では無かったはずだ。どうしちゃったのか。恐る恐る
どうしよう。ほんとに警察に連絡した方がいいのだろうか。それとも本当に騙されて、実は逃げてきたとか?匿って欲しいとか言い出すのではないだろうか。
手に汗を握っておろおろしていると、2階の向井さんが大きな声で誠司さんを怒鳴りつけた。
「おい!喧しいぞ!今警察を呼んだからな!防犯パトロール隊もこっちに向かってるぞ!」
「えっ」
焦ったのは誠司さんだろう。私の名を呼び開けろと叫んで、どんどんとドアを叩くものの、パトロールカーのサイレンが聞こえて誠司さんは慌てて逃げ出したようだった。
情けない事に私の足はガクガクと震え、へなへなと玄関に座り込んでしまった。しばらくして外が騒がしくなり、ドアベルが鳴らされたので、私は恐る恐る返事をした。
「ゆかりちゃん、大丈夫か?警察の人が来たからもう大丈夫だよ。ドア開けてくれる?」
「は、はい」
ドアを開けると、向井さん夫妻だけでなく、お隣の鈴木さんとおそらく飲みに来ていた末松さん、防犯パトロールの途中だったであろう人たちと警察官が二人、部屋の前にいた。
「怖かったよねえ、大丈夫だった?」
「は、はい。あの、ありがとうございました。どうしていいかわからなくなってしまって」
「そりゃそうだろう、あんな風に脅迫まがいのこと言われちゃ誰だって怖いよ」
「お巡りさんが早々さ来でぐれで助がったね。大事がなぐでえがったよ」
みんなもほっとしたようで、あれこれと警察の人に伝えていた。
警察以外の皆さんはそれぞれの部屋に、パトロールへと戻っていった。それから何があったのか女性の警察官に話をして、もう一人の警察官は窓の鍵や、庭のフェンスを確認してくれた。盗聴器や小型のカメラで隠し撮りをする事件もあるからだと言われた。怖い。
結果として、ハイツの管理人さんに部屋の鍵を早急に取り替えることと、防犯カメラを設置することなどをお願いし、私は防犯グッズを購入することで落ち着いた。
女性警察官には部屋を出る前に、男物の下着を外に干しておくのも意外と防犯になるから考えてみて、と言われた。今回に限っては、地域の人の協力で未然に事件は防げたけれど、毎回そうとも限らないからね、とも。
このアパートに住んで6年ほどたつが、今まで事件らしい事件は起こったことはない。野良猫が縁の下に潜り込んで子供を産んだと騒ぎになったり(今は鈴木さん家の猫になっている)、酔っ払いがアパートの前で騒いだりと言うことはたまにあったが、アパートの住人は皆気のいい人たちばかりだし、地域の団結力が割と高く、目が行き届いていると思っていたため、ぼんやりしすぎたのかもしれない。
私は防犯グッズのサイトをパソコンで眺めながら、これで終わってくれればいいのだけど、と不安に思った。
次の週になって、鹿子から連絡が入った際に誠司くんのことを話すと怒り心頭で「なんとかする」と言ってくれた。特に何かをされたわけではないから、記事にはしないでね、と念のため伝えることは忘れない。
鹿子はジャーナリストなので、そのツテを使ってどこまで騒ぎを大きくするかわからないから怖いのだ。ネットを使ってサイバーいじめなんかされた日には、誠司くんも生きづらくなってしまう。そこまで追い詰めなくてもいいし、逆に追い詰められた時に、何をするかわからなくて怖いから。そういうと、「それもそうね」と共通の友人枠に噂を流すだけにしておくわ、と渋々鹿子も納得してくれたようだ。
それも結構なストレスになると思うけど。どうか逆恨みだけはしないでほしい。
その数ヶ月後、誠司くんが傷害罪で逮捕されたと鹿子から聞かされた。
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