24話 ワガママ


 あっという間に時間は過ぎていき、六月の第二土曜日が訪れた。

 平日と変わらない時間に起きた澄は朝の家事を済ませていき、午前七時に奏を起こしたのだが……。


「おはよう、奏。朝だぞ」

「ん……」


 あれから奏は泣き止みこそしたが、目に見えて元気がなくなっていた。


 保育園の先生にどうしたのかと聞かれては、体調に問題は無いと愛想笑いで返す気まずさが続く。

 毎週の土曜に灯依の家へ遊びに行くのがどれだけ楽しみだったのか突き付けられた気分だった。

 しかし今週ばかりは彼女に用事がある以上、厚意であっても邪魔するワケにはいかないのだ。


 着替えと歯磨きをさせ、二人は朝食のために食卓に着いた。


「いただきます」

「……ます」


 いつもだったら元気よく返す合図も、ほとんど聞き取れない声量だった。

 これは重症だなと苦笑しながら澄は食べ進めていく。


 そこから洗濯物や掃除をこなしつつ奏の様子を窺う。

 頻りに壁の向こうに目を向けたり、時計を眺めては項垂れるなど落ち着きが無い。

 普段は集中していた落書きや絵本もまるで手に付かない有り様だ。


 やがて昼過ぎになると挙動不審は顕著に出て来た。

 不意に立ち上がったかと思いきや、ハッと何かに気付いてゆっくりと床に座り込む。

 お菓子を食べるか聞いても要らないと返したり、澄が飲むココアを欲しがったりする。


 それらは言葉にせずとも灯依に会いたいという意思表示なのは明らかだ。

 無理も無いと共感しながら澄は奏の頭を撫でる。


「奏。今日は我慢だぞ」

「む~……」


 兄の言葉に対し、奏はあからさまに頬を膨らませる。

 一旦は呑み込んだものの、いざ当日になると不満が再燃したのだろう。


(妹さんはもう来てるんだろうか? 仲は良いって聞いてたし、姉妹でどんな話してんだろうなぁ……)


 ふと澄はそんな考えを浮かべる。

 今の落ち着かない自分達と違って、きっと仲良く過ごしているのだろう。

 寂しさこそあるが、やはり断って正解だったと再認識する。


「とぉくん、ひぉちゃんにあいたい」

「今日は行けないって言っただろ? 来週なら会えるからな」


 とうとう我慢出来なくなって願望を口にした奏を、澄は次の機会にしようと宥める。


「やっ! とぉくんのいじわる!」


 だが期待に応えてくれない澄に嫌気が差したのか、奏は頭に乗せられた兄の手を払ってキッと不満げな眼差しを向ける。


「かな、いまがいいの! ひぉちゃんとあいたい!」

「っ、今日は用事があるから遊べないんだって」

「あそべるもん! ひぉちゃん、やさしーもん!」

「遊べないから言ってるんだよ。今日は無理だけど、来週は大丈夫だから──」

「やーー!」


 募りに募った不満を爆発させるように、奏は地団駄を踏んで我が儘を叫ぶ。

 これでは隣の部屋に……それこそ灯依の耳にまで届いてしまう。

 それだけは避けたい澄はなんとか宥めようとするが、一向に聞き入れてくれる様子は無い。


 灯依の都合も考えずに癇癪を起こす妹に、澄は段々と怒りが沸いてくる。


(勘弁してくれよ、いくらなんでも勝手すぎる)


 灯依と会ってからというものの、それまでとは一転して我が儘を口にするようになった。

 最初はどれだけ彼女に懐いたのかと微笑ましさがあったが、こうも続くと笑える余裕など無くなってくる。


 近所迷惑など考えない奏の泣き声が、頭痛を引き起こしそうなほどにガンガンと響く。

 頭を抱えたくなるほどの心労に辟易しそうになって……。


「もーー! とぉくん、どーしてかなにイジワルするの! かなのことキライなの!?」

「っ!」


 ──その言葉が引き金になった。



「──いい加減にしろよ!!!!」

「ひぅっ!?」


 ずっと張り詰めていた弦の糸が切れたような錯覚と共に、栓が取れた感情が瞬く間に溢れ出た。

 我慢の限界を迎えた澄が発した怒声に、奏は一転して愕然としながら黙り込む。


「俺だって我慢してるのにあれこれ我が儘ばっか言うなよ! 次に会えるんだから今日ぐらい行かなくたっていいだろ! なのにそうやって騒いで人を困らせるな! そんなに俺が嫌いならもう勝手にしろよ!!」

「ぇ、う……」


 ずっとずっと我慢して来た。

 それこそ母が亡くなり、奏が生まれてからの四年分を。

 今まで見ない振りをしてきたそれらを、余すこと無くぶちまけていった。


「はぁ……はぁ……──ぁ」


 一息の内に捲し立てた澄は、遅れて冷静さを取り戻したと同時に自身のしでかしたことに気付く。

 激情で熱されていた心が逆に凍り付き、恐る恐る奏の顔を見やる。


 兄の激昂を目の当たりし、怒号をぶつけられた奏は青ざめた顔色で目を見開いていた。

 やがてその両目の端に大粒の涙が溜まっていく。


「か、奏。今のは……」

「うっ、っ、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ! わぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」


 澄が弁明するより先に、奏はボロボロと涙を流しながら泣き喚き出す。

 普段ならこうして泣いた時、頭を撫でるなり抱き締めるなりして泣き止ませていた。

 だが今回は自分が妹を泣かせてしまった手前、澄の両手は彼の迷いを表すように躊躇いがちに空を彷徨う。


「奏……」

「やっ!」

「奏っ!!」


 弱々しい声音で呼び掛けるも、奏は拒絶して弾かれるように駆け出した。

 靴も履かずに外へ出た奏を慌てて追い掛ける。


 遅れた澄が外に出た時には、既に奏が灯依の家のドアを開けていたところだった。


「ひぉちゃーーん!」

「えっ、奏ちゃん!?」

「なになにっ、急にどしたの!?」


 開け放たれた扉の向こうで、奏に泣き付かれた灯依が困惑を露わにしていた。

 もう一人見知らぬ金髪の女子──恐らくは灯依の妹──も、乱入して来た奏に驚き戸惑っている。

 その様子を前に澄は頭が真っ白になるが、ボーッとしてる暇は無いと首を振った。

 早く奏を連れ戻そうと、失礼を承知で灯依の家へと足を踏み入れる。


「奏、いきなり入っちゃダメだろ? 早く帰ろう」

「やっ!!」

「っ……」


 兄の呼び掛けに対し、奏は聞く耳を持たずに拒否した。

 湧き上がる苛立ちと焦燥感を抑えながら、どうにかして連れ帰ろうと思考を巡らせる。


「澄くん、落ち着いて」

「……灯依さん」


 だがそんな澄を灯依が制止する。

 こんな時に落ち着けるはずがないと歯痒い面持ちを浮かべる澄に、灯依は奏の背を撫でながら、もう片方の手で自身の頬を突く。 


「そんな辛そうな顔をしてたら、奏ちゃんも怖がっちゃうよ? まずはゆっくり深呼吸をして、落ち着いて?」

「…………ぅす」


 いきなり兄妹が飛び込んで来て困惑しているだろうに、灯依に柔和な言葉に澄は毒気を抜かれる。

 言われた通りに深呼吸をしてようやく、心身を蝕んでいた焦燥感が幾ばくか静まった。


 冷静になった澄を見て灯依は安心させるような笑みを浮かべる。


「喧嘩したの?」

「……はい」

「そっか。それじゃお互いの頭を冷やすためにも、奏ちゃんは家で預かった方が良いかな?」

「そうして貰えると、助かります。奏も今は俺と離れたいでしょうから」


 大方の状況を察した灯依の提案に、澄は申し訳なさを感じながらも承諾する。


 今まで兄妹喧嘩をしなかったワケではないが、どちらかといえば奏が拗ねることが発端だった。

 しかし今回は澄が怒鳴ったことが切っ掛けであり、怖がらせてしまった以上は距離を取った方が良いだろう。

 同じ部屋だと奏の気も休まらないであろう中で、灯依の方から預かってくれると告げられて少なくない安堵を抱いた。


 同時にそんな安心感を覚える自分に嫌気が差す。


「うん、任せて。その代わり、着替えとか用意して貰って良い? 流石に私の家じゃ子供用は無いから」

「はい。……奏をお願いします」

「んじゃ、ウチはお兄さんの手伝いに行っとくよ」

「え?」

奈由なゆも?」


 突如名乗り出た灯依の妹──奈由の行動に、澄は驚きを隠せなかった。

 それは姉である灯依も同様で、目を丸くして真意を推し量れないでいる。


 呆気にとられる二人に対し、奈由は奏に視線を向けながら続ける。


「だってウチも居たら妹ちゃんが緊張しちゃうっしょ? だからその子の相手はおねぇに任せとこかなって」

「もう……。澄くん、初対面だけど妹も一緒に良いかな?」

「大丈夫ッス」

「よろ~お兄さん♪」


 同行を受け入れた澄に、奈由はわざとらしく気楽な調子を見せる。

 暗い空気を払拭しようとしているのだろう。

 気が利くところは確かに灯依と似ていると、澄は少しだけ気持ちを持ち直せた。


 そうして澄は奈由と共に自宅へと向かう。

 去り際、灯依の背に隠れて自身を見つめる奏と敢えて目を合わせないまま。

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