19話 うっかりからのぼた餅


 澄と奏の母──久和美沙希みさきはとても物腰柔らかで、どこかぼんやりとした不思議な雰囲気を纏う女性だった。

 けれども持つべき芯はしっかり持っており、大雑把な父を叱る姿を澄が見掛けた回数は数知れない。

 正直に言えば怒ってもあまり怖くなく、そうして一頻り説教したあとは父と人目も憚らず仲睦まじい姿を見せていたと記憶している。


『とぉくんはとても頑張り屋さんだね』


 そんな母から澄は何度もそう褒められ、頭を撫でられた。

 彼女に褒められることは、かつての澄にとって何よりの幸福でありあらゆる評価における指標だった。

 もっと褒められたくて勉強もバスケも弱音を吐かずに努力し、今の澄があるのは間違いなく母のおかげだと自負している。


 しかし母は澄が中学一年生の頃、奏を産んだ際に産科出血による失血死でこの世を去ってしまう。

 日本の現代医療では非常に低確率なそれが、どうして自分の母の身に起きたのだと世の理不尽を呪う程の悲しみに暮れた。


 だがいつまでも泣いてばかりではいられない。

 亡くなった母の分まで、奏の成長を見守るのだと自らを奮い立たせる。

 始めたての頃は慣れそうにないと感じていた料理も掃除も、今では学業の傍らでもこなせるようになった。


 天国にいる母も安心出来るような兄として、胸を張れるような息子として。

 そのためならどれだけでも頑張れると自信を持って言える。


 しかし……。


『とぉくん。頑張り屋さんだからって頑張り過ぎるのはダメよ? 程々くらいで丁度良いんだから』


 奏の出産を控えていた母と面会した折り、そう諫められたことがあった。

 どうしてなのか聞き返したところ、母は顎に手を当てて思案する。


『う~ん。いつも全力だと疲れちゃうじゃない? そういう感じ』

『ふんわりしてる……』


 言わんとすることは分からなくもないが、それだけで考えを改められるなら苦労はしないだろう。

 納得が行かない様子の息子の頭を、母がクスクスと微笑みながら撫でる。


『そんなとぉくんに寄り添ってくれる女の子がいたら、ママも安心なんだけどなぁ』

『俺、まだ中学生になったばっかだぞ?』

『とぉくんならきっと良い子と巡り会えると思うけど、せっかくなら相性が良い子が一番よね!』

『聞けよ』


 気が早すぎると楽観的な母の言葉に呆れるが、彼女はにっこりと笑みを湛えるだけだった。

 そしてゆっくりと唇を開いてから言う。


『とぉくんにぴったりな女の子は──』


 瞬間、視界が一気に白一色に染まっていった。


 ========


「ん……」


 ふと目を覚ました澄の視界に入ったのは、夕陽が射すシミ一つ無い綺麗な天井だった。

 耳を澄ませば何やら忙しない音が聞こえることから、それで眠りから覚めたのだろうと察する。

 その正体を確かめようと身体を起こし、寝惚け眼で周囲を見渡す。


「あ! とぉくん、おはよー!」


 するとクッションの上に座っていた奏と目が合い、ニパッと明るい笑みを浮かべて挨拶を口にする。


「……おはよ、奏」

「ん!」


 寝起きで口の中が渇いているせいで大きな声は出なかった。

 それでも兄から返された挨拶を聞き取った奏は大仰に頷いて見せる。


「かな、ひぉちゃんにほーこくする!」


 次に奏は勢いよく立ち上がり、タタッと軽い足取りで駆け出す。

 その背中を視線で追えば、キッチンでエプロンを身につけた女性の元へと行き着いた。


 奏は女性のスカートの裾を引っ張りながら話し掛ける。


「ひぉちゃん! とぉくん、おきた!」

「あ、ホントだ。澄くんを見ててくれてありがとうね、奏ちゃん」

「うん!」

「っ!?」


 女性の声を耳にした瞬間、澄は眠気が一気に吹き飛んで完全に覚醒させられる。

 鮮明になった視界の先にいた女性は灯依だったのだから。

 そして眠る前までの状況を思い出し、自分でも分かるくらい頬が紅潮していく。


(膝枕された上にそのまま寝るか普通……っ!)


 十中八九、寝顔も見られていたに違いない。

 どうやら途中で灯依の膝枕から下ろされたようで、若干ではあるが残念な気持ちが芽生えるが、そんな場合ではないと邪念を払う。

 穴があったら入りたい程の羞恥心に悶える中、ふとイヤな予感がして顔を上げた。


 それは灯依がエプロンを着けてキッチンに立っていることが関係している。

 夕方になった現時刻において彼女は今、夕食の準備を進めているのだ。


 つまり本来予定していた帰宅時間から大幅に寝過ごしてしまったのである。


 現状を把握した澄は先の恥ずかしさが塵のように消え、真っ赤だった顔は一転して真っ青に染まった。

 肝を冷やすほどの焦燥感に駆られるまま立ち上がり、灯依に向けて勢いよく頭を下げる。


「す、すみません灯依さん!」

「? 澄くんが謝ることなんて何もないよ?」


 澄の謝罪に対し、灯依はキョトンと目を丸くする。

 本当に気にしていない様子に少しだけ肩透かしを喰らうが、それでも罪悪感は容易に無くならない。 


「いやその俺、バカみたいに眠りこけて邪魔しましたし……」

「それだけ疲れてたってことでしょ? それに邪魔だなんて思ってないから心配しないで」

「……そう言ってくれるのはありがたいッスけど、もういい時間ですし俺達はもう帰ろうと思います」


 優しい灯依の言葉に少しだけ胸が弾んだものの、やはりこれ以上は迷惑だろうと澄は帰宅の意志を見せる。

 帰るために奏を抱えるべく屈んで手を伸ばす。


「奏、家に帰ろうか」

「やっ!」


 しかし妹は兄に近付こうとせず、灯依の足に隠れるように逃げてしまった。


 半ば予想していたとはいえ、奏の態度に澄は頬を引き攣らせながらも平静を装う。


「コラ、帰らないと晩ご飯が食べられないんだぞ?」

「ひぉちゃんがつくってるもん!」

「何言ってるんだよ。そんなことダメに決まって──」

「えっと勝手に決めて申し訳ないんだけど、今まさに三人分作ってるから大丈夫だよ?」

「…………」

「むん!」


 絶句する兄に対し、奏がどうだと言わんばかりに腰に手を当てて胸を張る。

 自分が与り知らぬ間に妹が我が儘を言ったか、灯依が気を利かせたのか定かでは無いせよ決定していたらしい。

 ともかく灯依からの思わぬ援護に澄が絶句するのは無理も無かった。


 申し訳ないと思うなら起こしてでも聞いて欲しかったが、既に作り出している状況で言っても後の祭りでしかない。


「澄くん。これもご褒美の一つとして受け取って欲しいな」

「……良いんですか? ケーキとか膝、枕とかたくさん貰ってるのに、食事までご馳走になるのはいくらなんでも申し訳ないッス……」

「私から誘ってるんだから気にしなくて良いのに」


 未だに及び腰な澄の言葉に苦笑しながら灯依は続ける。


「それに一人で食べるより、二人と一緒の方が私も楽しいから」

「っ!」


 少しだけ恥ずかしそうな表情で口にした意見に、澄は胸の高鳴りと共に目を見開く。

 決して他の意図が合るワケでも無いのに、どうしようもなく見惚れそうになる。


(……ホント、灯依さんは狡い)


 赤くなりそうな顔を手で覆いながら澄は逡巡する。


 自分は奏と居るから失念していたが、灯依は一人暮らしなのだ。

 彼女が一人で食卓に座る光景を浮かべれば、否応なしに寂寥感に襲われる。

 だがそれは自身が了承するだけで回避出来ることだ。


 それ以外の他意は無いのだと己に言い聞かせつつ、澄は軽く咳払いをしてから灯依と目を合わせる。


「……今日だけ、お邪魔します」

「! ふふっ。じゃ、張り切って作っちゃうね」

「おー!」


 澄の返答にパァッと笑みを輝かせる灯依の宣言に、奏の無邪気な相槌が打たれる。

 人の気も知らないでと呆れそうになるが、今は彼女の手料理に期待しようと思考を切り替えるのだった。



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