11話 お互いに慣れよう



「んにゅ……」

「奏ちゃん?」


 とおるが逸る心臓を落ち着かせてから程なく、かなでが瞼を擦り始めた。

 うつらうつらと体が揺れている様子から、眠くなっているのだと澄は察する。


「奏、眠いのか?」

「ん~ん……」


 兄の問いに奏はほとんど目を閉じたまま首を横に振る。

 どうやら寝落ちした途端、灯依と別れて帰宅させられると考えているのだろう。

 澄としてはまさにそのつもりであったため、聡い妹の忍耐に苦笑を浮かべる。


 きっとこのまま眠ったとしても、起きた時に自宅だったら相当な大泣きが待っているに違いない。

 夜泣きが多かった乳児時代を思い出して、澄は若干憂鬱な面持ちになる。


「ひぉちゃん……」


 そうこうしている内に、眠気がピークに達した奏が灯依の膝を枕にして横になってしまう。

 よほど心地良いのか、奏は十秒と掛からずにスヤスヤと眠り始める。

 唖然とする澄と灯依は互いの顔を見やり、クスリと小さく笑いあった。


「……すみません、筑柴先生」

「ううん。これくらいなら気にしないから安心して」


 妹がご迷惑をと謝罪する澄に、灯依は微笑みながら手を振って気に障ってないと返す。

 その証左と言うべきか、彼女は奏の頭を優しい手付きで撫でている。

 心なしか寝顔が更に緩んでいる様子から気持ちよさそうだ。


 ただ何故だか澄の胸中にモヤッとしたノイズが走る。

 自身が感じた情動に対する戸惑いから頭を振って邪念を払う。


(いやいや、なんだよモヤって。あんまり変なこと考えるな)


 何はともあれ、膝枕をされている当人がそう言うのならば異論はない。

 しかし澄の中で引っ掛かりは拭えないままで、どうしても罪悪感が無くなりそうになかった。


 灯依との近所付き合い──と呼ぶには些か心臓に悪い──が始まってから、何かと謝ってばかりだと思い返す。

 その根底にあるのは、家族ではない彼女に頼ることへの申し訳なさだ。

 もっとしっかりしなければと自らを律する。


「久和君」

「? どうしました?」


 そんな思考に耽っていると、不意に灯依から呼び掛けられる。

 思わず聞き返した澄の鼻に灯依の細い指が添えられた。


 唐突な接触に堪らず心臓の高鳴りを感じてしまう。

 閉口する澄を余所に灯依がゆっくりと口を開く。


「どうしても申し訳ないって思うなら、学校以外で『先生』は付けて呼ばないこと」

「……へ?」


 不意に投げ掛けられた言葉に、ポカンと呆けた面持ちを浮かべてしまう。

 まさか顔に出ていたのかと反省する間もなく、灯依はいつになく真剣な表情で続ける。


「休みなのに迷惑掛けちゃうって心配なら、先生って呼ばれない方が私も肩肘張らなくて済むかな」

「そういう……でもだったらどう呼べば?」

「ん~久和君が呼びやすい方で良いよ。よっぽどの呼び方じゃないなら怒らないから。ね?」

「っ……ぅす」


 折衷案にしては妙な急接近を感じ、澄は面映ゆさから顔を逸らしつつ相槌を返す。


 せっかくの提案を無下にしないためにも、灯依をどう呼べばいいのか思案する。

 正直に言えば『先生』の方が呼びやすい。

 だがそれは彼女から却下されている。


 であれば『筑柴つくしばさん』呼ぶべきだろうが、それではどこか壁を感じさせてしまう。

 そうなると行き着く答えは一つしか無くなる。


(本当に、良いのか……?)


 失礼ではないだろうか?

 気を悪くさせないだろうか?


 そんな及び腰の思考がノイズになって決断を鈍らせるが、歩み寄ってくれた手を取るためにも頭を振って無視する。

 澄はチョコ色のクッキーを一つ食べてから小さく息を吐く。

 ドキドキと鼓動が加速する心臓に煩わしさを感じつつ、日和ってはいけないと勇気を振り絞って口を開く。 


「俺も、今まで食べた中で一番好みッス──ひ、、が作ったクッキー」

「っ!」


 灯依の名前を呼びながら感想を伝えると、彼女はピクッと体を硬直させる。

 ゆっくりと澄へ向けられた目は、自らの耳を疑うかのように見開かれていた。


 そして思考を取り戻した灯依の顔は、みるみるうちに赤みを増していく。


「く、久和君? 今、私のこと……名前で呼んだ?」

「…………すみません。流石に調子に乗り過ぎました」


 真っ赤な顔のまま困惑を口にする灯依に、つられて澄も赤面しつつ頭を下げて謝った。

 こうなると分かっていたにも関わらず、身を焼きそうな羞恥心に襲われてしまう。


「そんな風に謝らなくても良いよ! その、お父さん以外の男の人に呼ばれたのって初めてだったから、ビックリしただけ……」

「そう、なんッスね……」


 不快ではなかったと伝えられて安堵した半面、またも灯依にとって未経験だったことが明らかになった。

 いくら女子校出身といえど、異性経験に乏し過ぎるのではないかと心配になって来る。


「えっと、あはは……名前で呼ばれるのって、なんだか落ち着かないや」

「俺も、呼ぶだけでこんな緊張するのは初めてッス……」

「そ、っか……」


 互いに赤い顔色のまま感想を述べた後、視線を逸らしながら沈黙してしまう。


 何も家族以外の異性を名前で呼んだことが無いワケでは無い。

 友人の汐美しおみがまさにそうだ。

 しかし灯依が相手では異様に意識してしまう。


 どうにかドキドキとうるさい心臓を落ち着かせようとしていた時だった。


「じゃあ、お互いに慣れなきゃだね。──

「えっ?」


 不意に投げ掛けられた言葉が咄嗟に呑み込めず、澄は反射的に灯依の方へ顔を向ける。

 すると目が合った灯依は、照れくさそうな笑みを浮かべてから視線を外した。


 置いてけぼりにされた澄はポカンと呆けてしまう。

 一方で落ち着きそうだった心臓は、さっきよりも大きな音を立てて加速していた。

 灯依から不意に名前で呼ばれたせいだ。


 さっきの彼女もこんな気持ちだったのかと否応でも痛感させられる。


(えっと、つまり……名前で呼んでも良いってことなのか?)


 動揺で鈍っていた思考をなんとか働かせて、おおよその答えに行き着く。

 受け入れられた安心感から肩の力が抜けたが、これから休日に会う時は名前で呼び合うことになったらしい。


 きっと苗字で呼んだ際に奏を勘違いさせないため、呼び分けた方が良いと思われただけだろう。

 優越感すら懐いてしまいそうな高揚を落ち着かせようと、必死に自らへ言い聞かせるのだった。

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