3話 奏のワガママ

 なんとも気まずい空気を紛らわそうと、とおるは別の話題を切り出すことにした。


「それにしても先生の私服ってとても似合ってますね。学校で見掛ける時とは別人にしか見えないッス」

「そんなに褒められても何もないよ。単にヘアアイロンをしてコンタクトを付けてるだけだから」


 澄の称賛に灯依は大したことではないと謙遜する。


「そもそもメイクと服の着こなしを教えてくれたのは、実家で暮らしてる妹なの。数学や国語と一緒でせっかく教わったんだから、活用し続けないと勿体ないでしょ?」

「返す言葉も無いっスね……」


 装いが異なっていても教師としての志は変わらない灯依ひよりの言葉に、澄は苦笑しながら首肯する。

 確かに教わったことは使わないと忘れる一方だ。

 とはいえ分かっていても実践する人はそう多くない中で、実直に続けられる灯依の生真面目さが窺えた。


「でもなんか勿体ない気もしますね」

「勿体ない?」


 ふと漏れ出た澄の呟きを聞いて、灯依が首を傾げながら聞き返す。

 こんなこと言って良いのかと気恥ずかしさと躊躇いを懐きつつ、澄は真意を明かす。


「だってそっちの格好の方だったら、クラスの皆からも人気出たかもしれないですし」

「あはは、学校じゃこんな格好出来ないよ」

「え? なんでですか?」


 余計なお世話に聞こえる言葉を、灯依は苦笑しながら流した。

 生徒ならともかく教師には決まった制服は無いため、彼女が何を着ようが問題ないはずだ。

 そんな疑問を口にした澄に灯依はきょとんと呆けた面持ちを浮かべて……。


「だって学校じゃ私服とか化粧は禁止されてるでしょ?」

「……」


 本気でそう信じ込んでいる無垢な眼差しに、澄は驚きと呆れから絶句してしまう。

 灯依の中では生徒に髪染めなどを禁止しておきながら、教師は染めて良いという道理はないようだ。

 しかし律儀に校則を守る教師は中々いない。

 幾らか偏見が混じっているものの、少なくとも澄はそこまで考えが至らなかった。


 融通の利かない真面目な一面がある一方で、簡単に生徒を自宅に招いてしまう天然染みた無防備さもある。

 なんともチグハグな灯依の価値観を目の当たりにした澄は、しばし茫然とした後に堪らずといった調子で噴き出してしまう。


「くっ……ははは! 先生ってしっかりしてるんだか抜けてるんだか分かりにくいッスね!」

「そ、そこまで笑われるほど変なこと言ってないよ?」


 腹を抱えて笑う澄に、灯依は頬を赤くして照れながら抗議する。


 なんとか落ち着いた澄は飲み終わったカップの片付けを切り出したが、お客様だからと灯依に断られてしまった。

 澄からすればご馳走になった上に洗い物まで任せてしまうのは忍びなかったが、無理に願い出ても迷惑にしかならない。

 引き下がりつつも内心では後日に菓子折でも渡そうと決めていた。


 壁に掛けられている時計を見やれば、時刻は午後三時を過ぎたところだった。


「えっと、色々とありがとうございました。筑柴つくしば先生。そろそろ帰ろうと思います」

「あ、もうこんな時間なんだ。こっちこそ疑いを晴らすためとはいえ、家にまで来て貰ってゴメンね?」


 そろそろ帰宅する意図を伝えられた灯依が、眉を下げながら謝罪を口にする。


「いや隣ですから謝られることじゃないッス」

「ふふっ、それもそうだね」


 澄が苦笑しながら返すと彼女もクスリと笑みを零す。

 和やかな空気が二人の間に漂うが……。


「う~……ひぉちゃんとバイバイ、や……」

「奏……」


 しかし奏だけは帰宅に納得がいかない様子だった。

 さっきまで笑顔だったにも関わらず、いざ灯依ひよりと別れると察するや泣きそうに俯いてしまう。

 とおるからすれば警戒心が強いはずの妹がこうも懐くのは疑問しか浮かんでこない。


かなで。父さんが家で待ってるし、早く帰らないと今頃寂しがってるぞ?」

「パパよりひぉちゃんがいーの!」

「おぉ……」


 兄の諭しに耳を塞いでしまったどころか、優先順位の変動を報せる残酷な言葉が返された。

 この場に父が居なくて良かったと安堵した半面、灯依に対する好感が高過ぎるのではないかと動揺してしまう。

 視線だけ灯依の方へ向けるが、無言で首を振る様子から彼女にも心当たりはないようだった。

 真相は奏にしか分からないものの、実を言えば澄には少しだけ思い当たる節がある。


 無関係の灯依に話して良いのか一瞬だけ躊躇ってしまう。

 しかし彼女にも説得に加わって貰うためにも、何よりこうして巻き込んでしまった以上は避けて通れないと腹を括った。


「多分ですけど、奏が帰りたがらない理由は家の環境にあると思います」

「家庭環境?」


 澄の心当たりに灯依が疑問を露わにする。

 不穏な背景を浮かべたのか、少しだけ顔を曇らせる彼女に澄は慌てて笑みを繕う。 


「あ、先に言いますけど虐待とかじゃないです。ちょっと奏に甘いですけど、親父とは仲が悪いワケじゃないですから」

「それじゃどういうこと?」

「えっと……」


 いきなりこんなことを言って不安にさせてしまわないか。

 少しだけ言葉を詰まらせながらも、澄は意を決して告げることにした。




「──家には母親がいないんです。四年前に奏を産んだ後、亡くなりました」



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 次回は明日の朝更新。

 そこから1日一話更新となります。

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