2話 ココアみたいな甘さ


 迷子になっていた妹を助けた女性が、副担任である筑柴つくしば灯依ひよりだと気付けなかったのには理由がある。


 学校での彼女は引っ詰めた一つ結びの黒髪、最低限の化粧に丸眼鏡を掛けた言わば地味としか評せない控えめな装いなのだ。

 授業やホームルームでの様子から受ける印象は、良くも悪くも普通の先生の域を出ない。

 露骨に嫌われているワケでは無いが、積極的に声を掛けられることもない程度だ。


 もしクラスメイトが今の灯依ひよりの姿を見ても、自分と同じく別人としか思えないだろう。

 休日の副担任の清涼感のある私服は、それだけのインパクトがあった。


(……なんか、ちょっとだけ得した気分)


 誰に言うでもなくそんな感想を浮かべてしまう。


「おじゃましまーす!」

「はーい、いらっしゃーい」


 未だに衝撃が抜けきらないとおるを余所に楽しそうに挨拶するかなでを、灯依が微笑ましげな面持ちで迎え入れる。

 そんな妹に澄も続いて部屋に入ると、フワリと鼻に甘いココアの香りが擽った。

 堪らず澄の胸が高鳴り、無性に鼓動の加速を感じてしまう。


 一目見て綺麗だと判る彼女の部屋は当然ながら、ベッドの位置やカーテンの柄など久和家とは異なっていた。

 それ故に同じ間取りのはずが、どこか全く別の場所へ足を踏み入れたように錯覚する。


 美人な歳上の女性の部屋だから?

 それともクラスの副担任だから?

 どちらとも判別がつかないが、とにかく緊張していることだけは確かだった。


「喉渇いたでしょ? 飲み物を用意するからソファで座って待っててね」

「わかったー!」

「は、はい」


 灯依ひよりの呼び掛けに奏は元気よく返事する一方で、とおるは身を強張らせながら首肯する。

 言われた通りに妹と揃ってソファに腰を掛けるのだが、一瞬だけ脳裏に灯依が座って過ごす光景が過り、慌てて首を横に振って邪念を払う。

 かといって人の部屋を見渡すのも憚られた澄は、チラリとカウンターキッチンで準備をしている灯依の方へ視線を向ける。


 淀みのない動作で手元を動かす姿が様になっていて、穏やかな表情で集中する彼女を注視してしまう。

 ボーッと眺めている内に、ふと顔を上げた灯依と目が合った。


「? 何か気になることでもあった?」

「っ、いえ。なんでもない、です……」

「そっか。丁度終わったから、そっちに持って行くね」

「ありがとう、ございます」


 なんとなく気まずくなって、咄嗟に誤魔化した。

 そんな拙い言い訳に気付いた素振りを見せない灯依は、トレーの上に二つのカップを乗せて運んで来る。


「はい、アイスココアだよ」


 そう言って渡された氷の入ったカップの中は、チョコレート色で満たされていた。

 ホットじゃない理由は恐らく、奏が火傷しないように配慮してくれたからだろう。

 自然な気配りに仄かな感動を覚えながら一口含むと、ひんやりとした感触と共に甘いカカオの香りが口の中に広がる。

 ココアの柔らかい口当たりはもちろん、まろやかな味わいはとても飲みやすかった。


 ほぅ、と一息ついてから灯依ひよりへ感想を述べることにした。 


「美味しいです」

「おいしー!」

「ふふ、良かった」


 とおるの感想に続いて、唇の上にココアのヒゲを作った奏が笑顔で喜んだ。

 二人の称賛を受けた灯依はたおやかな笑みを零す。

 その笑顔に堪らず胸が高鳴るが、澄は妹の口元をティッシュで拭いながら平静を繕う。


「その、凄いですね。俺がインスタントで作っても、ここまで美味しくならないッス」

「ありがと。私、ココアが好きだから美味しく飲むために色々と調べたんだ」

「あぁだから部屋に入った時にココアの香りが──」


 合点がいった澄はそこまで言ってから、自らの失言に気付く。

 これでは人の部屋の匂いを嗅いだと自白したようなモノだ。


 現に澄の発言を耳にした灯依は目を丸くしたかと思うと、両手で口を覆いながら顔を赤らめていく。


「……そ、そんなに匂ってた?」

「う……」

「~~っ!!」


 恥ずかしさから顔を伏せつつ、上目遣いで聞き返されて澄は言葉に詰まってしまう。

 それは決して返答しにくいからではなく、灯依のいじらしい反応にときめいてしまったからだ。

 しかしそんな澄の心情を察せるはずもない彼女は、今にも泣きそうな面持ちを見せてから顔を覆った。


「あー! とぉくん、ひぉちゃんなかした-!」

「ち、違うって! これはそういうんじゃなくて……」


 一連の会話を眺めていた奏からの非難に、澄はタジタジになりながら否定する。

 泣くほど恥ずかしい思いはさせてしまったため、完全に言い切れないところが歯痒かった。


 だが幼い妹はぷくっと頬を膨らませながら首を横に振る。


「わるいことしたら、ごめんなさいってあやまるのー! メッ!」 

「……分かったよ」


 どんな兄だって妹に弱い。

 これ以上迷惑を掛けないためにも、何より気に障ることを言ってしまった自責もあるので謝罪することにした。


「灯依さ──じゃなくて筑柴つくしば先生。気持ち悪いことを言ってすみませんでした」

「へ? ぁ、だ、大丈夫だよ。は、恥ずかしかっただけで、そこまで思ってないから」


 澄から謝罪の言葉を投げ掛けられた灯依ひよりは、未だに頬を赤らめながらも許してくれた。

 少し優しすぎではないだろうかと心配になってしまうが、隣人で生徒でしかない自分が言うことではないと呑み込んだ。


「とぉくんとひぉちゃん、なかよし!」


 二人の様子から解決したと思った奏が満足げに微笑む。

 そんな妹とは対照的に、澄と灯依は赤い顔を伏せて黙り込んでしまうのだった。



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 本作の略称は『まいはは』です。

 皆で『私のママ』と連呼しましょう←


 次回は夜9時に更新します。

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