4話 お隣の先生が望むお返し


 ──澄と奏の母親は亡くなっていた。


 その事実を知った灯依は、両目を大きく見開くほどに驚愕していた。

 やがて思考を取り戻した彼女は目を彷徨わせながら、気まずそうな面持ちのまま口を開く。


「えっと、ゴメンね……」

「大丈夫っス。俺も父さんも割り切ってますから」


 余計なことを言わせてしまったと謝罪する灯依に、澄は問題ないと苦笑しながら返す。

 確かに母親が亡くなった当初は悲しみに暮れていたが、四年も経った今ではある程度の割り切りが出来た。


 しかし澄達はそうでも、奏だけは違う。


「生まれてすぐ亡くなったのもあって、奏は写真以外に母さんのことを知りません。幼いなりに気を遣ってるのか、俺達に母さんの人柄をあまり聞いたりしないので尚更です」

「とぉくんとパパ、ママのおはなしするとき、いつもさびしそーなかおするもん……」

「……こんな風に」

「そう、なんだ……」


 澄の説明に続き、奏が顔を伏せながらも母のことを聞かない理由を話す。

 小さくとも家族を思い遣れる奏の想いに、灯依は動揺を隠せないまま相槌を打つ。


 ただそれだけであれば、妹の我が儘の理由に母を挙げたりしない。

 澄はソッと両手で奏の耳を塞いでから続ける。


「保育園の先生から聞いた話ですけど、子供って無邪気だから遠慮が無いじゃないですか。だからかよく言われるみたいなんです。奏ちゃんのところはママが居なくて可哀想だって」

「それは……」


 とても無邪気では片付けられない残酷な憐れみに灯依は悲痛な表情を浮かべる。

 大人の彼女でさえ耳にしただけで顔を歪める程の言葉を、悪気も無くぶつけられた奏のショックは澄でも計り知れない。


 耳を塞いでから話すのも当然だった。

 聴かせにくい話は過ぎたため、奏の両耳を開放してから再開させる。


「そのことに関しては向こうの親から謝られてますんで大丈夫っス。けれどそんなことも相まってなのか、母親って存在にどこか憧れがあるんだと思います」

「憧れ?」

「家族の似顔絵を描くと四人を並べてたり、友達とごっこ遊びをする時に母親役をやりたがったり……そんな感じで」

「……」


 澄から奏の現状を聞いた灯依は絶句から口を閉ざしてしまう。

 そうなるのも無理も無いと澄は内心で共感しながら続ける。


「それでその……こう言ったら失礼かもしれないんですけど、奏が先生に懐いてる理由は自分が求めてた母親像と先生が一致したからじゃないかもしれないッス」

「ええっ!?」


 母親の話から奏が自身に懐く理由に繋がっていたことに灯依は大いに困惑した。

 若い女性に対し妹が母親みたいに思ってると言って、冷静でいられる方が難しいだろう。


 そんな申し訳なさを覚える澄を余所に、困った表情を浮かべる灯依は奏へ視線を向ける。


「えっと……奏ちゃんは私がお母さんに似てると思ったの?」

「? ひぉちゃんはママじゃないよ? ひぉちゃんはひぉちゃんだもん」

「え、えぇ……?」


 灯依の問い掛けに奏はコテンと可愛らしく首を傾げながら否定する。

 肩透かしを受けた灯依は戸惑いの声を漏らす。


 そのままプクッと子供のように頬を膨らませながら澄を睨む。

 母親に似てるだとか自惚れた恥を掻かされた、と言葉にされずもなんとなく伝わった。

 可愛いなんて言ってしまえば、不機嫌にさせてしまうのでなんとか呑み込んでから澄は口を開く。


「いや、その……俺も外見が似てるとかは一言も言ってないッス」

「そ、そうだけど! そうなんだけどぉ……!」


 気まずさを感じつつも弁明する澄に、一度ならず二度までも辱められた灯依は理解しながらも納得がいかない様子だった。

 両手で顔を覆って体を震わせる姿は、申し訳ないが可愛らしいと思えてしまう。


「ま、まぁそういうワケで、奏にしか分からないお眼鏡みたいなのに、先生が当て嵌まったってことには違いないと思います」

「うぅ……」


 母親との関連はあくまで澄の推測に過ぎない。

 結局のところ奏にしか本当の理由は分からないままだった。


 何はともあれいつまでも灯依の家に留まるワケにはいかない。

 澄は空気を紛らわすのも兼ねて、奏をサッと抱き抱える。


「! やー! ひぉちゃんとバイバイ、やー!」

「奏、我が儘ばっか言って困らせちゃダメだろ」

「とぉくん、いじわる!」

「あぁそうだよ、今日のお兄ちゃんはイジワルなんだ」

「むーー!」


 どうしても帰りたがらない奏は澄の腕の中で暴れるが、流石に腕力差があるため全く逃れられない。

 これ以上灯依に迷惑を掛けられない一心で敢えて悪者ぶる兄に奏は頬を膨らませ、目尻に涙を浮かべながら睨む。


 そんな妹に構わず澄は灯依の方へ顔を向ける。


「先生。改めて迷子になってた妹を見つけて貰ってありがとうございました。近い内に何かしらお礼をさせて下さい」

「私が好きでしたことだし、久和くわ君はそこまで気にしなくていいよ」

「それじゃ俺の気が収まらないんです。バイトもしてない学生だから大したことは出来ないですけど、だからって何もしないヤツではいたくないんで」

「う~ん……」


 案の定灯依からお礼は要らないと返された。

 生徒にお礼をされるのは忍びないという教師としての意地があるのだろうが、澄は恩知らずでいたくないと主張をする。

 折れない様子を見せられた彼女は困ったような表情で逡巡を始めた。


「やー! ひぉちゃん、いっしょー!」

「こら、奏」


 このままでは離れてしまうと悟ったからか、奏は泣きながら灯依に助けを求めて手を伸ばす。

 依然として澄の腕に抱えられたままだが、こんな状態が続いては彼女の罪悪感を煽り兼ねない。


「……」


 ふと灯依が無言で自分達を見つめていることに気付いた。

 気を遣わせてしまったかと澄の背中に冷や汗が流れる。 

 いっそのこと話の続きは学校でした方が良いかと考えた瞬間、灯依は『それじゃ』と前置きしてから続けた。


「──次のお休みの日、奏ちゃんと一緒に遊んでもいい?」

「へ?」

「にゅ?」


 思わぬ返答に澄は目を丸くして呆けてしまう。

 それは奏も同様で、ピタリと泣き止む程だった。


「え、っと……それじゃ何のお礼にもなってなくないッスか?」

「そんなことないよ」


 それでは恩返しにならないという問い掛けに、灯依はゆっくりと首を横に振って続ける。


「見ての通り私って一人暮らしでしょ? だからふと寂しい時があって……いい大人が何を言ってるんだーって思うかもだけど、奏ちゃんと一緒ならそんなことも無くなると思うの。ね? 私にとってもちゃんとメリットがあるんだから」

「いやいや……」


 語られた理由を聞かされても澄は腑に落ちない。

 結局は灯依に迷惑を掛けることに何の変わりもないのだから。


 納得出来ない様子の澄に、灯依は苦笑を浮かべながら続ける。


「それにこのまま黙って見送っても、久和君と奏ちゃんの仲が心配だし……」

「うっ」


 鋭い言葉の矢が澄の胸を突き刺す。

 迷惑を掛けまいとしたはずが、今度は心配を掛けてしまっていたのだ。


 もし意地を通して灯依の提案を断っても、澄に待っているのは泣き喚く奏をどうにかして宥めることである。

 であれば無下にするよりは了承した方が何倍も早く済む。


 そして肝心の灯依は見た限りでも引き下がる様子は見られない。

 悶々と頭を悩ませた後に、澄はゆっくりと息を吐いてから奏を床に下ろす。


「先生がそれでいいなら俺に文句はないッス。出来れば妹には嫌われたくないですし」

「ふふっ。ありがと」

「お礼を言うのはこっちの方なんですけどね」

「細かいことは気にしないの。約束だよ」

「……」


 にこやかに微笑む灯依に、澄は熱くなる頬を冷まそうと顔を逸らす。


 彼女は自覚しているのだろうか。

 奏に再び会うということは、自分とも顔を合わせることに。

 つまり今日のように再び学校以外で関わることになると。


 教師と生徒の間柄でそんな約束をしていいのかという、常識的な思考より先に澄はどこか嬉しさを感じてしまっていた。

 なんだか自分が自分でないような不思議な感覚に戸惑いを隠せない。

 困惑の原因が分からないでいる間に、事の成り行きを眺めていた奏は灯依の足元にしがみつく。


「ひぉちゃん、またあえるの?」

「うん。今度は美味しいお菓子を用意するね」

「やったー! おかし!」


 市販なのか灯依の手作りなのかどうあれ、お菓子が出ると聞いた奏は目をキラキラと輝かせる。

 半日にも満たない時間で、どうしてここまで懐いたのか不思議でならない。


 何はともあれ奏が喜んでいるのなら約束して良かった。

 そう結論付けて、未だに落ち着きそうにない心臓をひっそりと宥める。

 ようやく機嫌を直した奏を再び抱き抱え、澄は玄関まで進む。


「久和君」

「はい?」


 ドアを開けると同時に、見送りに来た灯依から呼び掛けられる。

 何の気無しに振り返ると優しげな彼女と目が合った。


 仄かな胸の高鳴りを感じている間に灯依がにこりと微笑みながら口を開く。

 

「──

「ま、また、明日……」

「ひぉちゃん、バイバーイ!」

 

 ドキドキと鼓動の逸りを覚えながらも、吃りつつも挨拶を返す。

 元気よく手を振って返事をする奏と違い、変に思われていないだろうかという不安になってしまう。

 そんな澄の様子に気付いた素振りを見せることなく、灯依はにこやかに手を振り返した。


 胸の熱に戸惑いながら、澄は軽く会釈して灯依の家を後にする。

 ドアを閉めたものの、心臓が落ち着くまでその場から動けそうにない。


「? とぉくん、かおまっか?」

「……ちょっと疲れただけだよ。奏は?」

「かな、げんき!」

「そっか」


 兄の変化に気付いた妹をはぐらしてから、澄は自宅へと足を運ぶ。

 とはいってもすぐ隣にあるため十歩程度で着いた。


(明日、先生に会ったら平常心でいられる気がしない……)


 そんな緊張を脳裏に浮かべて、澄は我が家へ帰るのだった。

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