第2話 文の通い路

 翌朝、中納言さまはいつものように起き、いつものように朝餉を召し上がっていらっしゃいました。

 母君は、年が近く気の合う女房のお給仕で巷で今を時めく草子などの話をしながらゆっくり召し上がり、兄君は時を決めず体調の良いときに食事をなさるので、朝はしんと静まった中、中納言さまはお一人で公達にしては質素な朝餉をしたためられます。

 ところが、その朝は少しだけ様子が違いました。

 荒々しい足音が近づいたと思えば、あの体は弱く気だけが強い兄君がご自分で朝餉の膳を持って乗り込んできたのです。相変わらず髪はぼうぼう、破れたところから糸が垂れた母君のお古の単衣を昨晩のそのままにお召しです。その後からばたばたと、わたくしがお膳をお持ちしますのに、などと口々に言いながら女房達が追いかけてきます。

 目の前に膳を据え置いた兄君に、中納言さまは眠そうに挨拶なさいました。


「おはよう、兄上」

「おはよう、伊惟」


 兄君が置いたお膳の前に女房が慌てて円座わろうだを敷き、その上に兄君はどっかと座られました。


「どうしたの、こんな朝っぱらから」

「お前に言いたいことがある」

「食べながらでいい? 遅刻するし」

「そのつもりで膳を持ってきた」


 兄君はさっそく粥をちびちびと匙で口に運ばれます。

 今日も宮仕えで、あれやこれやと仕事を任される中納言さまは朝からしっかり召し上がります。

 兄君は口をへの形にして匙を咥え、少しばかり弟君を見ながら何事か考えたあと、かたちを正して低くおっしゃいました。

 

「私はな……お前の夜の過ごし方にはあーだこーだ言わない。その……男と付き合うのは構わんけども、母上に孫は見せてやってくれ。この通り、頼む」

「何なんだよ急に」

「私は体が弱いことを言い訳にして兄らしいことをしていないのはいつも心苦しく思っているし、その、あのな、お前に幸せであってほしくも思う。だから、もしお前が添いたい相手がいるなら男でも女でも構わんが……しかし、お前はうちの当主で後継ぎがやっぱり必要なんじゃないかと思うと……なんかいろいろすまん」


 中納言さまは兄君の突然の言葉に面食らってしまわれました。早く奥方をもらえと母君にそれとなく言われたことはあったのですが、兄君がこのようなことをおっしゃるのは青天の霹靂です。いったい何のことでしょう。皆目見当がつきません。

 兄君もそれなりに混乱していらっしゃるご様子で、少し落ち着こうと大きく一息ついて続けられます。


「昨日、お前が帰ってきてから、お前の袍の袖口からこれが落ちた」

「え?」


 兄君が手にしているものを見て、中納言さまは強飯に噎せそうになり、目を白黒させてやっとのことで飲み込まれました。

 それは、昨晩帥宮さまが中納言さまに押しつけた恋文でした。中納言さまは受け取らなかったはずでしたが、いつの間にか束帯の袍の袖に滑り込んでいたようなのです。


「悪いとは思ったが、読ませてもらった」

「読んだ?!」


 中納言さまはわりなく、「やっべ」と思われました。 


「書いたやつの名前がないんだがどう見ても男手だな。そしてお前の字じゃない」

「……それは、あのー」

「しかも文才もくそもない男宛ての恋文……ああ目が腐る。それに何だこの文香ふみこうは……趣味が悪いにもほどがある! くっさ!! マジくっさ!! 胸が悪くなる!」


 ご気性のままにそう言い放たれた後、兄君ははっとして少しうなだれました。


「あ、すまん……その、本当のことだが、なんか、ちょっと言いすぎた……かもしれない」

「はあ……」

「とりあえず、思い人に返しの文は書いとけ……礼儀だからな」


 なぜ自分が返しの文を書かねばならぬのか、と中納言さまが困っていると、さらに兄君の言葉の矢が鋭く突き刺さりました。


「それでお前、その……盈月えいげつの君とか呼ばれてるんだな……」

 

 中納言さまは傍ら痛すぎて、とうとうお口になさっていた白湯を吹き出してしまわれました。真ん前で頭からその白湯を被ってしまった兄君は、手鼻でも噛むように手で顔にかかった白湯を払われます。


「汚いぞ盈月の君」

「盈月の君言うな! くっそ痛いわ」

「だって書いてあるし」

「それ私宛てじゃないんだって! 渡してくれって預かっただけだって! 私、それ読んですらいないんだって!」

「マジか」

「マジだよ」

「誰から預かったって?」

「昨日のすんげー変な人」


 うっかりそう答えたとき、中納言さまの頭にあることがよぎりました。

 帥宮さまのことは話してよいものなのでしょうか。

 帥宮さまは、帝の大変年の離れた弟君です。帝だけでなく宮さま方皆におん覚えめでたい方なのです。

 ここは適当にごまかしてしまうのが一番良いと中納言さまは思いました。


「ああ、昨日の」

「うん」


 兄君は合点がいったようです。


「変なやつからものをもらうなと幼き頃から父上や乳母めのとにさんざん言われただろう。気をつけろ」

「だって無理やり袖に入れられたんだよ」

「ふーん。で、誰に渡せと?」

「官府の……この間入ったばっかりの権中納言に」

「へえ」


 噓をついた中納言さまを兄君はじろじろと眺め眉根を寄せられましたが、もともと公達の関わり合いや栄達に一切興味がないお方でしたので、それ以上詮索はなさいませんでした。

 宮仕えの中納言さまは、逃げるように朝餉の席を立つと、大慌てで出仕の支度をなさいました。兄君とのお話に時間をとられてしまったのです。

 ところが、冠の紐を急いで結んでいる中納言さまのところへ、また兄君がついっと寄られました。


「昨日のあいつについて、今ちょっと思い出しそうなことがある」

「あいつって、あの変な人?」

「うん」

「あの人がどうかした?」

「……お前、あれは本当に知らないやつだったのか」

「もちろんだよ! もちろん全っ然知らないよ!」

「そうか」


 兄上は顎をさすって言いました。


「なーんか、知っているような気がする」

「私は知らないって!!」

「いや、お前が知らなくても私が知っているような……すごくいやーな思いをしたことがあるような……うーん、あの香……不快でならぬ」


 よほど嫌なことを思い出したのか、兄上はいみじく不機嫌なお顔です。


「あの文、なんかムカつくから燃してよいか」

「ああ、もう、好きにして」


 中納言さまはこれ以上兄君のお話につきあってはいられません。どたばたとお仕事に必要な巻物を抱え、くつを履かれました。


「もう遅れるから! じゃあ行って参ります!」

「おう、行ってらっしゃい。変なのには気をつけろ」


 そしてその朝、みごとに中納言さまは出仕にお遅れになり、夕刻までかかってお机の上に積まれたいにしえの宣旨の巻物を大納言さま方の数だけ書き写されたのでした。

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薮内中納言物語 江山菰 @ladyfrankincense

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