薮内中納言物語

江山菰

第1話 月下、流るるは

 薮内中納言さまのお邸は、田舎風のわびしさを好まれた亡き父君が野山の草木を垣や庭に植えて愛でられていたので、雑木林のようでした。人々から陰で「薮内殿」と呼ばれても、中納言さまは笑って自らそう名乗られ、通り名になってしまったのです。

 中納言さまはお邸に母君と兄君とでお住まいでした。兄君は蒲柳の性質で宮仕えは難しく、かといって出家もなさらずにお邸の中で静かに過ごされていました。兄君は官位にも恋にもご興味がないお方で、倹約を旨とし終日ひねもす学問に打ち込んでおられるので、世の人々には変わり者どころか、ほとんど亡き者扱いされておいででした。


 さて、秋も深まったある月夜のことです。

 遅い時刻まで多くの書き物を作っておられた中納言さまがやっと官府からお戻りになり、門からお邸へ入ろうとされたそのとき、中納言さまは垣のかどに怪しい人影を見つけられました。さっそく刀を手にお一人で追われます。

 その人影はそそくさと垣の南側へ回り、母君や兄君がよくくつろいでおられる広縁が見えるあたりで立ち止まって熱心に覗いています。

 字が読めるほどの月明かりの下、男は中納言さまの束帯よりもあてに見える直衣のうしを纏い、物腰は雅やかです。高価な香も焚き染められています。賊ではなく、美しい女を品定めにそぞろ歩きする洒落男のようですが、ここには垣間見されるような女君はいらっしゃらないので、中納言さまはとても怪しく思われました。


「何奴だ! ここで何をしている」


 声をかけると男はぎょっとして振り向きました。

 中納言さまも驚きました。男は帝の末の弟君、帥宮さまだったのです。


「えっ? 帥宮さま?」

「しっ! 声が高い! 聞こえてしまうではないか」

「聞こえるとは?」

「あの美しいお方にだ! これから天上の音楽を奏でようとされているのに」


 中納言さまが、いったい誰のことだ、と垣の隙間からご自分のお邸の広縁を覗くと、今夜は少し体調がいいのか、兄君が久しぶりにすっきりと髭を剃られ、箜篌くごを持ち出しているのが見えました。


「……美しいお方とは、あの、けったいなぼろ楽器をいじっているあれでございますか」

「何だと? あれほど美しいお方に失敬な!」


 兄君はずっとお邸で臥せっておられるので髪を切るのも結うのもおやめになり、長い黒髪をぼさぼさと垂らして母君の古く年寄り臭い単を引っかけておられます。貧相この上なく、まさしく変わり者のいでたちです。


呆れてものも言えない中納言さまに、帥宮さまは言葉を尖らせました。


「其方も垣間見か! あのお方は譲れぬぞ」

「譲るも何も、あれはわたくしの身内でございます」

「は? 其方、あのお方の縁者と申すか」


 帥宮さまはやにわに懐から文を取り出し、中納言さまに押し付けました。


「頼む! 文を届けてくれぬか」


 中納言さまは思わず後ずさりしました。受け取るのが大変はばかられたのです。


「帥宮さま、もしやお目を悪くされているのでは……」

「わが目のよきことは鷹のごとしだ」

「では、美しさの感じ方が、世の人とズレていらっしゃるのでは」

「あのお方の美しさがわからぬとは、其方のほうがズレておろう! いや待て、其方、身内として日々接しておるから麻痺しておるのだな。ならば教えてやろう、あのお方の美しさを。凛としたお顔立ちに涼しい眼差し! 射干玉の黒髪に夜目にも白き肌! 古の箜篌を愛づる深き心! ……ああ、これほど非の打ちどころのない麗人がこの世におられようとは」

「麗人? あれはただの変人でございますよ?」

「其方、定家卿の選ばれし百人一首のこの歌を知っておるであろう。『秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ』」

「はあ」

「そう、あのお方は月のようにさやけくきよらかなのだ! そこら辺の女みたいなぬるついた生臭さがない! 遊びに遊びつくしたはずのこの私が心を奪われるとは……恋心は募るばかり……ああ、あのお方こそわが命……このような想いは初めてだ」


 どうしても上手いとは言い難い箜篌の音の流れる中、帥宮さまは目を潤ませてうっとりと語り続けます。口ぶりからするとどうも足繫く垣間見に通われているようです。

 薄気味悪く、またバカバカしくなられて、とうとう中納言さまは申し上げました。


「あの、恐れながら申し上げますが……あれはわたくしの兄でございます」

「は?」

「兄です。男です」


 帥宮さまはしばらく黙って、こうおっしゃいました。


「だからどうした」

「え?」

「そのようなことはどうでもよいのだ! 男が何だ、女が何だ! どちらであろうと、いや、どちらでもなかろうともわが想いの前には些末なことだ!」

「へっ?」

「私はあのお方が髭を生やしておられるところも愛おしく眺めてきたのだからな」

「うわぁ……ご存じで……うっわぁ……」

「よいか、あのお方は、美しき月の化生だ。月神は月読命、つまり男だ。あのお方が男であっても何ら問題はないのだ」


 帥宮さまは涙を流しながらつらつらと思いの丈を語られるのですが、中納言さまは「この人は独特の美的感覚と論理体系を持っている」ということ以外よくわかりません。そして二人とも、箜篌の音がやんでいることにも気づきません。

 突然、生垣の向こうで怒鳴る声が聞こえました。


「何奴だ! 検非違使けびいし呼ぶぞコラ!」


 いつの間にかぼさぼさ頭で瘦せっぽちの兄君が庭の側から垣を挟んでこちらを睨んでおられます。身内の中納言さまから見ても大変な柄の悪さです。


「ああっ! このような近くにあのお方が……あっあっお怒りのお顔もお声もこの世のものとは思えぬ美しさ! ……ああっあああっ……果てるっ! ここで果ててしまうっ!……また日を改めて、さらば、わが愛しき月よ!」


 帥宮さまは前かがみで息も絶え絶えに走り去り、垣を挟んでご兄弟が取り残されました。


「あー、兄上、ただいま」


 我に返った中納言さまが垣根越しに挨拶すると、兄君は拍子抜けしたご様子でした。


「ああ、なんだ、伊惟これただか。お帰り。今逃げてった奴は誰だ?」

「なんか……うーん、すんげー変な人」

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