それぞれの願い
久しく忘れていた、この感覚。まるで、世界の全てが音として感じられるかのような。
自分と外界とを遮断していたヘッドホンを外して。ただありのままの白銀綾羽が、帰り道の車を運転している。
かつては、それが何なのか理解できなくて。恐れるように逃げていた。けれども今なら分かる。ほんの少しだけ、だけれど。あの頃よりも大きくなったからか。それとも、一人ではなくなったから。
瞳を閉じて、自らの心に浸る綾羽、であったが。
「綾羽さん、居眠り運転は止めてください!!」
助手席に座っていた犬神知沙が、叫ぶように声を上げる。それに呼応し、綾羽はゆっくりと目を開いた。
「寝てないわ。少し目を瞑って、考え事をしていただけよ。」
「いえ、だとしても。前を見てもらわないと、みんな死んじゃいます。」
「ああ、そうね。確か凡人は、前を見ないと運転すらままならないのよね。」
一応、知沙の言う事に従う形で、綾羽は前を見て運転し始める。
なぜだろうか。綾羽は無意識に微笑を浮かべていた。愉快なのか、楽しいのか。言葉にし難い雰囲気を味わうように。
――人間という生き物には、色々な種類がいる。優しそうな嘘つきに、性格の悪い嘘つき。穏やかな嘘つきもいれば、とても注意深い嘘つきもいる。そして、ごくたまにだが、正直者も存在する。
綾羽はほんの少しだけ視線を知沙に向ける。
知沙は正直者である。きっと霧子だって似たようなもの。ノエルに関しては、正直それ以前の問題であるが。
綾羽は知覚する。今なら分かる、理解できると。人が心の内に抱えているものの正体や、訴えている感情の意味すらも。
だからこそ、綾羽は気になってしまう。あの時、あの勝負の後に”彼女”がしていた、形容し難い”感情の瞳”を。
故に問う。
「――ねぇ、舟引美野って、どういう人なの?」
◇
暗い部屋の中。ベッドの上で丸くなりながら、スマートフォンの光を見つめる、一人の少女。
彼女の名は、舟引美野。鈴蘭女学院の3年生にして、水泳部に所属している。非常に卓越した身体能力の持ち主であり、幼少の頃からあらゆるスポーツで結果を残してきた。その能力の高さと、優れた容姿が相まい。他の生徒達からは近寄りがたい高嶺の花のような扱いを受けている。
そして、友達はいない。
”友達を作る方法”。そんな事を真面目にネットで検索しているのは、きっと彼女くらいのものであろう。しかし、彼女は非常に真剣で、本心から”それ”を欲していた。
(友達の友達と繋がってみる? それは無理ね。そもそも、一人でも友達がいれば、こんな事調べてない。)
(マッチングアプリを使う。これはこの前試したけど、返信するのが怖くなっちゃって、結局出来なかった。)
(時間をかけて頑張る。いや、わたしもう3年生よ? 時間なんてかけていられない。)
(速攻で距離を詰めて、内側に入り込む。いったいどうやって? 何か話そうとすると頭が空っぽになっちゃって、すぐに言葉が出てこないのに。)
(かつての交友関係を辿ってみる。どうかしら。幼稚園くらいの頃なら、わたしにも友達がいたのかも。)
調べても調べても、決定的なアドバイスは見つからない。”生まれてから一度も友達が居ない”なんて、きっとそうそうあることではないのだろう。もしくは、たとえ居たとしても、そういった人種が表に出てくることが少ないのか。
深く、渇望する。美野は他のみんなが羨ましかった。いつも学校では楽しそうで、何でもかんでも笑っている。わたしもあんなふうに笑いたい。はしゃぎたい。冗談が言い合いたい。舟引さん、舟引先輩なんて他人行儀じゃなくて、下の名前で呼んで欲しい。そして叶うことなら、あだ名とかも欲しい。
どうして、わたしには友達がいないのか。なぜ、友達が出来ないのか。どれだけ考えても分からない。他の人達が何を考えていて、どうやって友達を作っているのか。何一つ理解できない。
諦めたようにスマホの明かりを消し。美野はベッドの上で丸くなる。こうやって、ただ一人で悩むのはいい加減飽きてきた。
ふと、思い出す。今日、よく分からない勝負を挑んできた一年生の女の子。名前は確か、白銀綾羽。あの時は、ただ嬉しかった。一年生の子と話すのは初めてだったから。
あの子には友達がいた。少なくとも2人は確実に。まだ一年生。それも、どこかわたしと似ているような気もしたのに。なぜ彼女には友達がいるのだろうか。
彼女は敗者で、わたしは勝者だから?
そう考えれば、これまでずっとそうだったかも知れない。わたしはどんな時も勝ってきて、一人で表彰台に立っていた。表彰台に立てなかった子の周りには、仲間がいっぱい居たような気もする。
わたしも敗者になれば、あんなふうになれるのか。そんな考えが浮かんでしまい、より一層自分が嫌になってくる。
分からない。一体何をどうしたら良いのか。
どうしたら友だちができるのか。
「……誰か、わたしを。」
その小さな声は、他の誰にも聞こえない。
「ふぅん。なるほどね。」
「はい。ストイックな人ですし。それにレベルがまるで違いますから。なんていうか、他者を寄せ付けまいとする、オーラのようなものがあるというか。」
知沙の話した内容を咀嚼しながら。綾羽は考える。舟引美野という人間がどういう存在で、なぜあのような”羨望の眼差し”を送っていたのかを。
「まったく。難儀なものね。」
導かれた結論に、綾羽はため息を漏らした。
◆
「それではこれより、舟引美野と白銀綾羽によるリベンジマッチを開催します!」
前回同様。生徒会役員の松平暁美の見届けの元、タイマンルールが宣言される。
屋内プールには水泳部員たちの他、知沙、霧子、ノエルの3人が観戦にやって来ていた。
綾羽と美野。水着姿の両者がスタート台の上で向かい合う。前回と同じ用に。けれども、今回の綾羽は前回とはまるで違う。少なくとも内面だけは。
「……貴女。一昨日あれほど派手に溺れたのに。正気なの?」
まさか美野も、こんなにも早くリベンジに来るとは思っていなかった。
対する綾羽は、不敵な笑みを絶やさない。ひたすら鋭い視線が美野を貫いている。真正面から、まるで全てを見透かすように。
「ええ、もちろん正気よ。だから安心して頂戴。」
綾羽はニッコリと笑う。
「敗北を味わわせてあげるわ。貴女の”お望み通り”にね。」
その発言に、美野は心臓を掴まれたような錯覚に陥る。
それに言い返そうとする美野であったが。
「それでは両者、準備はよろしいですね?」
見届人の声に遮られ、尻込みしてしまう。
結局、美野は綾羽の言葉に疑問を抱きながらも。進んでいく話を遮ってまで尋ねることは出来なかった。
見届人、暁美の腕が振り下ろされ。ホイッスルの音が響き渡ると同時に、綾羽と美野はほぼ同時に飛び込みを行った。
両者ともに着水はスムーズに行き。前回のようなトラブルは起きること無く。正真正銘の水泳対決として成立する。
他の生徒達が見守る中。綾羽と美野は、両者ともに譲らず”互角”の戦いを繰り広げていた。
「嘘でしょあの子。舟引先輩に並ぶなんて。」
水泳部員たちからは驚きの声が上がる。
しかし、同じGスポーツ部の仲間である3人は、どこか信頼しているかのような表情で戦いを見つめている。
「……それでこそ、綾羽だね。」
誰にも聞こえない小さな声で、霧子は呟いた。ただ一人、綾羽にだけ届くように。そしてそれは、本当に綾羽への後押しとなる。
激しいデッドヒートの中。自身と並び、追従してくる存在に、美野は驚きを隠せない。
(そんなっ、カナヅチじゃなかったの!?)
怪獣の水浴びと見紛うような、前回の有様とは打って変わり。まるで、始めからそうだったかのように。完成された泳ぎを綾羽は披露する。
綾羽は進んでいく。ただ純粋に、勝利へと向かって。
(貴女の強さは分かるわ。きっと、他の凡人たちとは比べ物にならないほどの速さだってことも。)
更に、加速する。
(ずっと、”一人”で努力してきたのでしょう。それも”痛いほど”に分かる。)
誰にも聞こえない。もがくような叫び声も、綾羽には理解できてしまう。
(だけど貴女は、所詮は人の範疇での天才に過ぎない。わたしみたいな、”どこから来たのかも分からない化け物”の相手じゃないわ。)
そう、自分の在り方を定義しながらも。見知った誰かの”祈り”に肩を押されながら。綾羽は更に加速していく。
綾羽と美野の差は見る見るうちに広がっていき。完全に、追う者、追われる者の形となる。
追う者。美野は必死に水を掻き、追い付くために全力を尽くす。
けれども、追いつけない。届かない。全く違う時間を生きているかのように、綾羽は遙か先へと進んでいく。
(――どうして。なんで。)
美野の心の中に湧き上がる、理解不能という感情の渦。
綾羽はそれすら置き去りにして、ただ勝利を見つめている。
(当たり前じゃない。”本気で勝つ気もない”奴に、わたしが負けるはずがない。)
そうして、二度目の水泳対決は、綾羽の勝利となった。
歓声が上がる。Gスポーツ部の面々だけでなく、白熱の勝負を見つめていた全ての観客たちが称賛の声を上げている。
予想外の熱戦。それに対する戸惑いもあったであろう。けれども、勝負の熱気はそんなものを容易く吹き飛ばし、純粋な興奮へと変わっていた。
勝者である綾羽の周りには、その感動を分かち合うように仲間たちが集っている。綾羽の勝利を疑ってはいなかった。けれども、その喜びは正真正銘の本物であり。それを浴びせられた綾羽も、つられるように笑みをこぼている。
対する敗者、美野は驚きつつも、どこか安堵したような表情をしていた。全力を尽くしての敗北。嘘でも何でも無い、正真正銘の初めて。これで何かが変わるはずだと、確信しているかのように。
(……これでわたしも、みんなと同じように。)
期待するような表情で、他の水泳部員たちを見る。
だが、美野を見つめる他の水泳部員たちの瞳は、ただ困惑の色を帯びていた。まさか彼女が負けるだなんて。思いもよらない結果に、どう反応したら良いのか分からないように。
美野はただ一人、困惑する。
(みんな。どうして、そんな顔をしているの?)
どんまい。お疲れ。そんな感じで、気軽に声を掛けてくれればいいのに。
(どうして、そんなに遠いの?)
近づくものだと思っていた。みんなと同じ立場、みんなと同じ敗者になれば、自然と距離が縮まっていくはずだと。けれども、結果としてその距離は何も変わらず。より痛々しさを含んだものへと、悪化しただけにも思えてしまう。
そうして、美野が絶望に染まったかのような顔をしていると。
「酷い顔ね、貴女。」
対決の勝者、綾羽が美野の元へとやって来る。
「期待でもしていたの? 敗者にでもなれば、誰かが慰めに来てくれる。そうして友達にもなれるって。」
まるで心の内を覗いているかのように。見透かしたように微笑んでいる。
「……どうして。」
驚きとも恐怖とも知れない。不安の感情に胸が締め付けられる。
「正直、驚いたわ。不器用なんてレベルを通り越して、こんなに”哀れ”な人間が存在しているなんて。」
綾羽は嘲笑いながら、美野の心に指を刺す。
「最初は似ているのかと思ったわ。他者よりも優れた才能を持ち、望んで孤独に生きている。けれど違った。貴女は決して望んで孤独に居たわけじゃない。ただ単純に不器用で、人とのコミュニケーションが致命的に苦手だっただけ。」
たったそれだけで、2人の少女は全く異なる道をたどる。
「それだけだったら、きっとここまで拗らせることはなかったでしょうね。人との会話が苦手な内気な人でも、それを理解してくれる誰かが必ず存在する。でも貴女には、とても”不幸”なことに才能があった。天才的な運動の才能が。本来ならそれは、祝福とでも言える代物のはず。けれどもそれは、貴女にとって最も致命的な呪いとして機能してしまった。」
全てを見透かす綾羽の瞳が、美野を貫く。
「度の過ぎた不器用な性格と、天賦の運動能力が合わさり、その結果として”孤高の天才”が生まれてしまった。決して望んだわけではないのに。周囲の人間は、貴女の心情なんて知る由もなく、ただ表面的な見てくれだけで、貴女が望んで孤独で居るのだと”勘違い”してしまったのね。貴女の心は、こんなにも他者を求めているというのに。」
目の前の少女は、一体何を言っているのか。いいや、本当は全て分かっているはずなのに、美野の心はそれを理解することを拒絶する。
「何でもかんでも、知ったような口で。貴女に、わたしの何が分かるの!?」
心が、叫んだ。
その突然の大声に、一体何事かと周囲がざわつく。
声を浴びせられた綾羽は、何一つとして表情を変えていない。
「……分かるのよ。今のわたしなら、分かってしまう。ただ声が聞こえると言うだけじゃなくて、それがどういう意味を持っていて、どういう願いであるのか。」
それ故に、綾羽は目の前の少女を憐れむ。
「やっぱり、人間って愚かよね。他者の心を何も理解できず、そのくせに無駄な知恵はあるものだから、すれ違いや誤解を生み、挙句の果てに嘘を付く。だからわたしは人間が嫌いだった。心の中では見下して、距離を取るようにしていた。誤解なく分かり合うなんて、不可能なのだから。」
思い出すのは、甘くも辛くもないモノクロの記憶のみ。
「でもわたしは、もうそんな過去には戻りたくない。」
綾羽は今の世界。目の前にいる少女の瞳を見る。
「良い勝負だったわ。」
優しく手を差し伸べる。対の手を求めるように。
それに対し、美野はただ目を丸くする。
「2度も勝負したら、もう友達ってことでいいでしょう?」
生まれて初めて差し伸べられた、他の誰かの手。
それが何なのか理解するのに、ほんの少し時間がかかって。
美野は、大粒の涙を流した。
「わたしって、なんて愚かなの? ただ友達が欲しかっただけなのに。これまでずっと勘違いして。色々な部活も頑張ったのに。」
それはもう、止まらない。
「わたしのこれまでの努力、全部無駄ってことじゃない!」
嬉しいのに。手を差し伸べられて、本当は嬉しいのに。これまでの自分の不甲斐なさに、どうしても悔しくてたまらない。
「バカ正直な人ね。」
綾羽は呆れていた。
「でも、好きよ。そういう人。前までのわたしなら、きっと何も思わなかったでしょうけど。」
ずっと手を伸ばし続ける。
「でも、今なら分かるわ。少なくとも、わたしが部活を作りたいと願った理由は、貴女と同じ”憧れ”だから。」
それ故に、綾羽はこの手を握り返してくれることを望む。
「Gスポーツ部と言って、わたしが作ろうとしてる部活なのだけど。設立のためには、あと一人部員が必要なのよね。」
そこには、2人の少女しか存在しない。
「まぁ、ほとんど遊びの延長みたいな部活になるかも知れないけど。もし良ければ、一緒にどうかしら。」
たとえ、おせっかいだと思われようとも。綾羽は正面から他人に向き合うと決めていた。
――だからわたしを、仲間に加えてください!
あの時の彼女のように、誰かに手を差し伸べられる人間で居たいから。
差し伸べられた手に、対の手が重なる。
強く固く、結ばれるように。
「――じゃあ、よろしく頼むわね。ミーノ先輩。」
◆◇
わたしが初めて描いた絵は、赤いカーネーションの花束である。なぜそれを題材にしたのか、特にきっかけは存在しない。ただ、父親が喜んでくれるかも知れないという、単純な理由であろうか。
父はわたしの描いた絵をとても褒めてくれた。天才だ、素晴らしい絵だと。純粋に嬉しかったのは、今でも覚えている。
わたしの絵を称賛したのは、父だけではなかった。その他の大勢の人々。顔も知らない他人が、わたしの絵を称賛した。
それがわたし、禍院薙咲の始まりであり。まだ純粋な気持ちで絵を描いていた、幼き頃の記憶である。
父に褒められて、他の大勢の人々に評価され。それに押されるような形で、わたしは絵を描き続けた。絵は本当に好きだったし、それ以外に興味の向くものも存在しなかったから。
しかし、いつ頃だろうか。人々の称賛するわたしの絵が、実は”空っぽ”であると気づいたのは。
幼い頃から、わたしは美術商である父に連れられて海外を巡り、様々な美術品を”目利き”する手伝いを行っていた。どうやら、わたしには優れた美術品とそうではない美術品を見分ける才能があったらしく、父の元で多くの目利きを行った。
多くの絵画、多くの美術品には、それを制作した人間の”想いの残滓”が込められている。わたしはその残滓を、”淡い光の粒”として認識することができ。それの強弱や質などを自分なりに判断し、優れた作品を見分けていた。
素人、玄人。作者の人となりは関係なく。どんな作品にも、大なり小なり必ず残滓は存在する。優れた作品にはその残滓が色濃く残っており、逆になんてことはない作品には対して残滓が残っていない。
そうして、様々な美術品に宿る想いの残滓を見る内に、わたしは気づいてしまった。自分の描いた絵には、何一つとして残滓が宿っていないことに。
どんな作品だろうと。どんなくだらない落書きにでも、想いの残滓は宿る。それは間違い無い事実である。ならばわたしの絵は、それにも満たないガラクタなのか。
そんなはずはない。そう自分に言い聞かせるように、わたしは絵を描き続けた。己の全てを刻むように。見えない何かを燃やし尽くすように。他の誰にも負けられない。皆が認めたわたしなのだから。
しかし、そんなわたしの努力は、何一つとして実を結ぶこと無く。結局、絵に想いが宿ることはなかった。ありていに言って、絶望である。
そんなわたしの心情を知ること無く。周囲の人間は、より熱を帯びてわたしの絵を褒め称えるようになった。稀代の天才画家。情熱の画家の再来だと。わたしがそれをどれだけ否定しても、称賛の声は鳴り止まなかった。
わたしの絵は、他の誰にも劣るような空虚な代物なのに。その価値観を、わたし以外の誰一人として理解できない。
周囲の的はずれな称賛に辟易しながら、ただ見えない何かと戦い続ける日々。
そんなある日、彼女は現れた。なんてことはない、一つ年下の後輩である。あの頭のおかしな校長にそそのかされたらしく、意味の分からない勝負を挑んできた。
なんてことはない少女だと、最初は思った。他の誰とも変わらない、色のない世界に生きる住人だと。普通の人間のくせに、纏っている残滓が妙に多かったが、それだけである。
だが、彼女の描いた絵は、わたしの想像を遥かに超えていた。まるで生まれたばかり。焼き付いたばかりの情熱。近付こうとすれば、実際に熱を感じてしまうような。そんな、強烈な絵を描いた。
技術、表現力? そんなことはどうでもいい。そんな領域の話ではない。これほどの作品が相手であるならば、わたしは素直に負けを認めても良いと思った。
けれども、やはり。それを評価する立場にある人々の目は、その絵の真の姿を映してはおらず。あまつさえ、あれ程の作品を描いた当の本人すら、わたしの絵のほうが優れていると評価した。
自分が一体、”何を”産み出したのか。なぜ当の作者すら気付け無いのか。気づけばそれが、決定打となっていた。
わたしは筆を折った。他人の評価は、何一つ当てにならない。どれほど望んでも、誰もわたしの絵に”正当な評価”を下してくれない。
優れた絵を描く。たった一つしか無かったわたしの夢が、音の一つも立てずに崩れ去った。
わたしはこれから、何を目指して生きれば良いのか。
壁に飾られた無数の絵画を見つめながら。禍院薙咲は決別の時を迎えようとしていた。
しかし、それを遮るように。チャリンという鈴の音が、”店の中に”響き渡る。来客を知らせる音である。
「いらっしゃいませ。」
気持ちを切り替えて。薙咲はお客様へと応対へと移行する。
だがしかし。
「お邪魔するわね。」
そのお客が、くすぶる感情の発端である人物だとは、薙咲には思いもよらず。
「絵、見てもいいかしら。」
憎たらしい微笑みを浮かべながら、白銀綾羽はやって来た。
◆
禍院薙咲と、その父親が経営しているギャラリー。その名も、”CAIN GALLERY”。アンティーク調の店内には、薙咲と父が世界中から集めた様々な美術品が存在しており。それらを展示、販売している。
基本世界を飛び回っている父に代わり、実質的な経営は娘の薙咲の手によって行われている。店が開かれるのは、基本的に薙咲の手が空いた時間だけであり、それ故に平時は客は殆ど存在しない。
事実、今現在において。店内には店主である薙咲の他、よく知らない後輩である白銀綾羽がいるのみ。
どこからか流れているクラシックの音楽が耳に届く。それほどまでに、二人の間に会話はなく。綾羽は何も言わずに、壁に飾られた絵画を見つめていた。
「……自由に見ていい。気に入った作家があれば、奥にも仕舞ってある。」
客が誰であろうと関係ない。いつも通りに、薙咲は淡白な接客を行う。
「そう。」
綾羽もそれ以外には何も言わず。ただ黙って、飾られた絵画から目を離さない。
客と店主の間に会話は無く。ただ無言と、絵画を見つめる瞳だけが存在する。
時計の針が、見る見るうちに回っていく。本来なら誰よりも、何よりも遅いはずなのに。時計の針の巡りと、空の色だけが変わっていく。
気づけば時刻は、午後の6時半を迎えていた。
まるで、その時間を待っていたかのように。綾羽が口を開く。
「確か、部活が終わるのって、ちょうどこの時間帯よね?」
「そうね。」
薙咲の反応は薄い。その次に続く言葉を、理解しているかのように。
「美術部、辞めるそうね。」
そう言って、綾羽はただ静かな客のふりをするのを止めた。
「貴女には何の関係もない。ただ限界が来たと言うだけ。」
薙咲も、店主としての皮を脱ぐ。
「もったいないわね。わたしの目から見ても、貴女には絵を描く特別な才能があると思うのに。」
その一言に、薙咲は苛立つ。
「よくも、そんな事が言える。」
明確な敵意を込めた瞳で、薙咲は綾羽を睨む。
「ここに飾られている絵画の価値、その素晴らしさが、一つでも理解できる?」
無数の絵画を背に、薙咲が問う。
「どうかしらね。わたしも、普段から絵を見る習慣があるわけじゃないから。」
そう言いつつも。綾羽は歩を進め、絵画の前へ立つ。
どの絵画が良いか。少々悩むように見つめて。
綾羽はとりあえず、一つの絵画を指差した。
「この向日葵の絵は好きよ。どこまでも成長していくかのような、そんな溢れん程の可能性を感じるわ。家の玄関にでも飾りたいわね。」
少々動いて、また他の絵を指差す。
「こっちの絵も好き。田舎の、農家か何かの絵かしら。落ち着く雰囲気ね。廊下にでも飾りたいわ。」
また少し歩を進めて、別の絵を指差す。
「この絵もいいわね。正直、何を題材にして描いたのかはよく分からないけど、妙に面白さを感じる。リビングに飾ってもいいわね。」
次々と、綾羽が好みの絵の感想を述べていく。
それに対して、薙咲は激しい怒りを拳に募らせていた。
そして最後に、綾羽は一枚の絵の前で立ち止まる。かつて、まだ”名もなき頃”の少女が描いた、”赤いカーネーションの花束”の前で。
「でもやっぱり、一番はこの絵ね。赤い花束。どうしてかは分からないけど、思わず目を惹かれてしまう。まるで、ずっと探していた”何か”のように。」
その選択が、薙咲の逆鱗に触れた。
「貴女は、何も分かっていない!」
最後の絵だけではなく。綾羽が選んだ”他の3つの絵も”、薙咲にとっては度し難い程の選択であった。
「そんな絵には何の価値も無い! くだらない作品、ゴミ以下よ!」
本当は、自分でも貶したくはないのに。怒りと涙が、とめどなく溢れてくる。
「他にも、もっといっぱいあるのに。優れた絵画なんて。」
悲しくて、苦しくて。薙咲は膝から崩れ落ち、うつむいてしまう。
綾羽は、そんな彼女の心情を知るかのように、穏やかな笑みを浮かべる。
「そうね。確かに、ここにある絵はみんな素晴らしいわ。」
壁に飾られた無数の絵画。それらを瞳に収める。
――この人物画も悪くないわ。一見暗そうに見えるけど、本当はとても幸福な絵。
――こっちの少女の絵も素敵ね。きっと、おとぎ話を信じていたのね。
――この絵はとても綺麗だけど、それ以上に悲しい絵。でも、どうかしら。最後には救いがあったようにも見える。
綾羽は次々と、絵に対する自分の感想を述べていく。全ては綾羽の主観によるもののため、絵に対する評価としては意味不明な表現ではあるが。
それでも薙咲は、その感想を黙って聞いていた。なぜならば、自分も全て同じように思っているから。
絵画に残された、作者の想いの残滓。特に色濃く焼き付いたものに関しては、時として作者の記憶の一片すら覗かせる。それは全て、他の誰にも理解されない、薙咲だけが見る世界のはず。
それが見えるということは。つまり目の前の少女は、薙咲と同じ価値観を下せる人間という事である。
だが、それ故に、疑問が生じる。
「……なぜ、それほどの優れた目を持ちながら。わたしの描いた絵を、素晴らしいなどと評せるの?」
それだけが、どうしても理解できない。
「これらの名画と比べては、わたしの描いた絵は、ゴミクズにも等しい。いいえ、むしろ比べることすらおこがましいはず。わたしの絵には、何一つとして、想いがこもっていない。」
そんなことは思いたくないのに。事実、薙咲の瞳には何も映らない。
「――偽物、なの。」
ずっと言いたかったことを、ようやく口にした。
誰も指摘してくれない。自分にだけ分かる真実を。
しかし、それを告げられた綾羽の表情は、何ら変わらず。ただ微笑を浮かべるのみ。
「確かにこれは、盲点かもしれないわね。」
どう表現するのが正しいのか。ほんの少し考えて、綾羽は語りだす。
「わたしはね、自分がこの世で最も優れていると思っているわ。この世界で一番。最強の人間は誰かと尋ねられたら、堂々と自分だと答えられるくらいには。」
恥ずかしげもなく。綾羽は堂々と自分を評価する。
「でも結局の所、それはただ自分で思い込んでいるだけで、何の確証も無いわ。わたしはこういう存在なんだって、自分で勝手に決めつけているだけ。世界中探せば、わたしよりも強いやつなんて本当はいくらでも居るのかも知れない。」
「……何が、言いたいの?」
「つまりは、ね。自分がどういう存在なのか、どういう評価をされているのかなんて、自分じゃ分かりようがないということよ。」
綾羽は、自分の瞳を指差した。深い輝きに満ちた、美しい宝石のような瞳を。
「だってそうでしょう? この瞳は、鏡とかに頼らないと、自分の姿すら写せない欠陥品なのよ? ましてや”自分の心”の中身なんて、見えるはずがないじゃない。」
そう。結局の所、それは単純な理屈であった。
「わたしだって、自分の描いた絵には何も見えなかったわ。わたしの中の、彼女に対する想いを、ちゃんと絵に込められたのか。それすらも定かじゃない。でも、それを知りたいだなんて思わない。世界中に居る、他の多くの画家たちだって、きっとそのはずよ。」
それは、薙咲が久しく忘れていた、純粋な絵に対する気持ち。
「”誰かに届けば良い”。それが、絵を描くって事でしょう?」
当たり前。そう、それは当たり前のことだった。
最初は分かっていたはずなのに。優れた目、異なる視点を得てしまったことにより、いつの間にか見失っていた。
初めて絵を描いたときから、何も変わらない。初めから、父は褒めてくれていた。それを信じられなくなったのが、全てを虚偽だと決めつける原因だった。
あまりにも、自分が愚かで。薙咲はただ、笑うしか無い。
言葉にならないとは、まさにこの事。
「……しっかり、刻まれていたわ。」
薙咲は、少女を描いたあの鮮烈な絵を思い出す。
「ん?」
「貴女の描いた絵。貴女の想い。ひたすらに真っ直ぐで、純粋な気持ち。それがどういった意味なのか、わたしも上手く言葉には出来ないけど。確かにあの絵には、貴女の想いが宿っていた。それはきっと、あの子にも届いているはず。」
「そう。……なら、嬉しいわね。」
自分の描いた絵を、そう評価され。綾羽の頬も緩む。
誰かに届け。嬉しい。
それはきっと、誰もが思う単純な事であり。薙咲も過去の自分と重ねて見てしまう。
「……教えて欲しい。貴女の目に、わたしの絵はどう見えているのか。」
随分と、久しぶりの感覚であった。純粋な気持ちで、他人に絵の感想を尋ねるのは。
「そう、ね。」
綾羽も、それに応えるように。まずは一つ目の絵、向日葵の絵を指さす。その口から語られるのは、絵画に宿りし想いの残滓。作者の少女が、まだ幼かった頃の記憶。
楽しかった。夢を見ていた。未だ無垢で、純粋だった。
絵を描くことに苦悩しつつも、根っこは何も変わらない。
言葉にならないのなら、感情をありのままぶつければいい。
――赤いカーネーションの花言葉は、”母の愛”。
遠い昔。在りし日の感情。描いた本人すら忘れていた記憶を、絵画はいつまでも憶えてくれている。
この絵画には、禍院薙咲の全てが詰まっている。
「――誇りなさい。こと絵画という分野で言えば、貴女はわたしの遥か高みにいる。きっと並大抵の努力じゃ、足元にすら及ばないでしょうね。」
負けず嫌いの綾羽にしては珍しい、素直な告白であった。
「まぁ、そういうわけだから。なにか別の形での勝負を申し込むわ。貴女に勝負で勝たないと、部活が作れないのよ。」
なにはともあれ。結局の所、今日綾羽がここへやって来たのは理由はそれに尽きる。諦めるという文字は、綾羽の思考内には存在しない。
再度、対決を申し込まれて。
「……いいえ。勝負をする気は無い。」
対する薙咲は、首を横に振る。
「あの勝負、”犬神知沙の絵”に関しては、どう考えても貴女の作品のほうが優れていた。何度勝負しても、きっとわたしでは敵わない。」
そこに在るのは、そもそもの認識違い。
「故に、わたしに言えることはただ一つ。」
礼節を込め、薙咲はお辞儀をする。
「参りました。」
それが、事の顛末である。
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