少女と勇気



 少女の手が、棚に置かれたゲームソフトを掴む。

「ワクワク体験ペットショップ、また値下げしてる。流石は、今年のクソゲーオブザイヤーの筆頭候補ね。」

 白銀綾羽は少々呆れた様子でソフトを見つめていた。

 そんな彼女の側に、もう一人の少女が寄ってくる。綾羽と同じ学生服を着た、銀髪の少女、ノエルである。

「綾羽さん、こういうゲームもやるんデスカ?」

「わたし、こういうのはゲームだと思っていないの。」

 それほど興味のある対象ではないのか、持っていたゲームソフトを棚へと戻す。

「じゃあ、普段はどういうゲームをやってるんデス?」

「TTOっていうゲームよ。近未来を部隊にしたゲームで、リアルにギガントレイスを操って戦うのよ。まぁ、Gスポーツとは違って、完全にガチの戦争ゲームだから。貴女は、そういうの興味ないわよね?」

「そ、そうですね。」

 否定はしてみたものの。その実、ノエルはTTOというゲームに興味を抱いていた。綾羽は知る由もなかったが。

 その他にも、適当にゲームを物色するも、特に面白いものは見当たらず。綾羽とノエルは、当初の予定通り”Vコン”を購入するべく、レジへと並ぶ。少々大きな外箱を抱えながら。

「本当に大丈夫なの? これ、結構値段するけど。」

「平気デス! 好きに使うように、お兄様からいっぱいお小遣いを貰っているので。」

「そう。」

 少々値の張るゲームハード。けれどもノエルは、普段から持ち歩く財布の中身のみで、それを買うことが出来るようだった。”お兄様”という単語について、綾羽は反応をしないことにする。

 Vコンをつつがなく購入し。2人はゲームショップから出る。

「あの、綾羽さん。実はわたし、こういう機械とか触ったことなくて。一応、”コンセントの指し方”くらいは分かるんですケド。……よければ、始め方を教えてもらって良いですか?」

「ええ、それくらい構わないわ。」

 そんなこんなで、綾羽はノエルの家へと向かうことになった。


 ノエルの家へと向かう道すがら。実際の所、これまでさほど話したことのなかった二人の間に、微妙な沈黙が流れる。

「少し、意外ね。」

 沈黙を破ったのは綾羽。

「貴女、もっと”明るい”性格かと思っていたわ。蓮城や越前なんかと一緒の時は、もっと元気そうだったから。」

「えっ、ええ〜!? わたし、元気じゃないデスカ〜?」

「まぁ、何でも良いけど。」

 明らかに様子のおかしいノエルであったが、綾羽にとってはさほど問題ではなかった。


「ここが、貴女の家ね。」

 ごく普通の一軒家。まだ新築なのか、どこか小綺麗な印象を受ける。

「はい。お兄様と二人暮らしデス。でも基本的に、お兄様は仕事で家を空けているので、ほとんど一人暮らしなんですけど。」

「ふぅん。」

 そんなノエルの言葉を聞き流しつつ。招待された家へと綾羽は入っていく。

 2階にあるというノエルの部屋へと向かうため、廊下、階段とを進んでいく。道中目に入る、壁や棚の上などには一切の装飾や雑貨が存在せず、不気味なほどに生活感が感じられない。だとしても、他人の家のことだと我関せず、綾羽は黙ってノエルについていく。

 ノエルの自室へと入り。流石の綾羽も、思わず目を見開く。なぜならその部屋には、ベッドと机、椅子”しか”存在していなかった。他には何も無く。数少ないそれらの家具もシンプルなデザインで、より一層、部屋の異質さを際立てている。綾羽の部屋も、同年代の少女たちと比べたら質素なものである。けれども、好きな漫画の揃った本棚や、ヨハネ用の着け耳が置かれた棚など、他にも最近はインテリアが充実しつつある。それ故に綾羽は、この部屋の異質さ。敷いては、家主であるノエルの人間的部分に、若干の不安を覚える。

 部屋への感想を口にできず。綾羽は適当に顔をそらす。すると、部屋の隅っこに、何やらガラクタのような物が積まれていることに気づく。目を凝らして見ていると、それらは”恐らく”化粧品のような物であると綾羽は判断する。この部屋唯一の、女子高生っぽい物品である。

 しかしながら、どう見ても不要な物を隅っこに”どかす”ような置き方であり、やはりどこか違和感を感じてしまう。

「わたしも、人のことは言えないけれど。随分と殺風景な部屋ね。」

「えっ? 女子高生って、みんなこういう感じの部屋じゃないんデスカ? もしかして、もっと”広い部屋”を使っているとか?」

「いえ、そういう意味じゃないのだけれど。」

 綾羽は若干顔をひきつらせ。

「まぁ、他の友人を呼ぶのであれば、ちょっと改善が必要かもしれないわね。」

 新しく部活の仲間になった目の前の少女に対し、一抹の不安を覚えるのであった。

(……でも、ちょっと前まで、わたしの部屋も大して変わらなかった。)

 遠い昔のように感じられる、”ちょっと前”のことを思い出す。

(でも今のほうが、ずっと楽しい。)

 過去を塗りつぶし、今へと上書いていく。それが、綾羽の生きる世界。





 学校の休み時間。Gスポーツ部(仮)の仲間であり、友人同士でもある綾羽、知沙、霧子の3人が話をしている。

「で、何なの? その鈴蘭四天王って。」

「さぁ? むしろわたしが聞きたいくらいよ。」

 霧子が綾羽に尋ねるものの、綾羽は首を振るのみ。

「確証はないんですけど、それって多分、校長先生の作り話なんじゃ。」

「それでも、その作り話に乗るしか無いわ。」

 綾羽には、どうしても早く部活を作りたい理由があった。

「高校生向けのGスポーツの大会が夏にあるのだけれど、締め切りが5月までなのよね。だから、さっさと部としての承認が欲しい。それに、部として承認されれば、ちゃんとした部室と、人数分のVコンとソフトも用意してくれるそうよ。」

「なるほど。でしたら、もうほとんど完璧ですね。」

「あの校長、優しのかどうか、よく分かんないよね。」

 霧子は未だ謎の多い校長のことを思う。

「優しいんじゃなくて、おかしいのよ。」

 綾羽は考えるも無駄と判断する。

「それにしても、まさかノエルさんが入部してくれるとは。」

「確かに、意外だよね。」

 霧子は教室の他の場所で話すノエルの顔をチラリと見る。いつもの仲の良いメンバーと談笑をしている。

「なんというか、オシャレグループの一員ですし、明るくて普通の女の子っぽいのに。どうして、よりにもよってGスポーツ部に興味を持ってくれたんでしょう?」

「さぁ、ね。」

 綾羽はあやふやに受け答えながらも。昨日行った、ノエルの部屋を思い返す。一見、天真爛漫に見える少女の、得体のしれない内面を。

「目に見えるものだけが、物事の全てってわけじゃない。ってことかしら。」

 確かに異質ではあるが、自分と比べれば”マシ”と、目を瞑る。

「それで、その四天王ってのを倒すんでしょ? 相手って、誰なわけ?」

 霧子は綾羽に問うた。



「さぁ、勝負と行きましょうか。」

 腰に手を当てて。自分なりにポーズを決めながら。綾羽は対戦相手である、美術部の禍院薙咲に宣戦布告をする。薙咲は普段通りに絵を描いている最中であり。突然現れ、よく分からない戯言を口にする綾羽に対し、訝しげな視線を送る。

「……理解不能。」

 美術室への突然の殴り込み。薙咲は当然の反応をする。

「説明が難しいのよねぇ。とりあえず、美術部の”マジシャン”を倒せっていう話だから、たぶん貴女よね?」

「……わたしは手品師じゃない。」

「そういう異名を持ってるとか。」

「持っていない。」

 2人の不毛な会話が続く。

「まぁでも、美術部の人たちの中で、四天王っぽいのは禍院先輩だけですので。」

「勝負、受けてやってくださーい。」

 付添い人である知沙と霧子が口を挟む。けれども、薙咲の目の色は変わらない。

「なおさら意味が分からない。」

「新しい部活を作るのに、鈴蘭四天王ってのを倒せって言われたのよ。それで、そのうちの一人が貴女。たぶん、校長の頭の中ではそうなっているはずよ。」

「……なるほど。」

 散々説明を受けるも。薙咲は、校長という単語を聞いた時点で思考を止める。

「確かにあの人は、時折意図のわからない事をする。」

 薙咲は観念して、綾羽の言う勝負に乗ることにした。


「ということで、タイマンルールで戦うのだけれど。校長から勝負の内容は四天王側が決めるよう言われているから、お好きに決めて頂戴。わたし的には、手っ取り早く殴り合いでも良いけど。」

 綾羽の思考は至極短絡的であった。

「……勝負の内容は、何でも良いのでしょう?」

 薙咲は特に考えず。勝負内容を決めた。


「それでは、美術部のマジシャンこと禍院薙咲と。鈴蘭の覇者、白銀綾羽によるタイマンルールを宣言します。」

 綾羽のクラスメイトであり、生徒会役員でもある松平暁美が、見届け人として両者の間に立つ。その隣には、何故か知沙が気恥ずかしそうに立っており。画用紙と鉛筆を用意した対戦者二人に見つめられている。

 よく分からないイベントの開始に。付き添いの霧子だけでなく、他の美術部員たちも物珍しさに集まってくる。

「制限時間は1時間です。その間に、2人には対象となる人物をデッサンしてもらい、最終的にどちらが上手く描けたかを判断し、勝敗を決めます。絵の対象となるのは犬神知沙さんで、勝敗の判断はその他のギャラリーの方々に決めてもらいます。」

 問答無用で進められていく謎の対決行事。

「どうしてこんな事に。」

 戸惑う知沙の気持ちなどは置き去りに。

「それでは、始め!」

 綾羽と薙咲の、デッサン対決が開始された。


 お行儀よく椅子に座る知沙の姿を、2人が画用紙に描き写していく。双方の瞳、やる気は真剣そのものであり。周囲のギャラリーも固唾を呑んで見守っている。

 薙咲の筆の動きは素早く、それでいて迷いが無い。いつも通りにやれば良いのだから、当然である。

 対する綾羽の筆は、時折止まったりと規則性がない。悩んでいたと思えば、衝動的に書きなぐり。納得がいかないのか、それを無理やり描き直す。良くも悪くも迷いがない綾羽としては、珍しい行動であった。

「あの、綾羽さん?」

 綾羽の苦戦に気づき。姿勢を動かさぬまま知沙が声をかける。綾羽はその声に耳を傾けながらも、悩む指先を止めようとしない。

「……意外に、難しいのね。綺麗に描こうと思っても、どうも理想通りに行かない。」

「綾羽さん、普段絵を描いたりの経験は?」

「どうかしら。少なくとも、記憶には見当たらないわね。」

 綾羽は思い出す。自分がつい最近まで、重度の引きこもりゲーマーだったことを。小学校に通っていた大昔ならば描いていたかもしれないが。綾羽はなるべく昔のことを忘れるように心がけていた。

 どうしても思い通りの絵を描けず。ついには綾羽の手が完全に止まる。その様子に、対戦相手の薙咲も気づく。

「ろくに一つの作品も描き切れないなら、勝負をする価値も無い。」

 冷たい視線と声は変わらず。綾羽の瞳を見つめる。

「小手先で苦悩した所で、自分の才能を超えた結果は生み出せない。どれだけ精確に、どれだけ工夫を凝らしても、それは変わらない。」

 けれども薙咲は、勝負のために筆を止めない。

「ただ想いを込めて、描けばいい。」

 それ以上言うことはないと。薙咲は視線を元に戻す。

「……ふん。」

 不器用なアドバイスのような何かを受け。綾羽は再び自分の絵へと向き合ってみる。結局の所、薙咲の言うことはこれっぽっちも理解できなかったが。

(わたしの想い。知沙への想い?)

 ぐちゃぐちゃに描かれた絵。ではなく、座っている本物の知沙を見つめる。初めて出会った時と大して変わらない。こんな所まで付いてきてくれた、初めての”友達”への想いを。綾羽は自らの指先へと込める。

 そんなこんなで、時間は経過していき。

「1時間経過。双方、筆を置いてください。」

 見届け人である暁美の言葉に従い。2人共に手を止める。綾羽は最後のギリギリまで、懸命に作業を続けていた。

「あ、ようやく終わった。」

 すでに飽き。スマホを弄っていた霧子が反応する。

「それでは、皆さんに審査していただきますので。どうぞご覧になってください。」

 暁美に促され。霧子や他の美術部員たちが綾羽たちの描いた絵へと足を運ぶ。絵の表題となっていた知沙もそれに混ざる。薙咲の描いた絵は、とても繊細で、知沙の特徴を的確に捉えていた。絵としてのクオリティは圧巻であり、一つの作品と考えても申し分ない。対する綾羽の絵は、お世辞にも上手とは言えない出来だった。知沙の特徴は所々捉えているが、とにかく荒さが目立つ。

 それぞれの絵を見てみて。あえて口には出さないものの、みんなの中では勝敗が決まったような雰囲気だった。

「それでは皆さん、どちらの絵が上手いと思ったか、挙手でお願いします。」

 暁美の言葉の元、ついに勝敗が決まる。

「禍院さんの絵のほうが上手かったと思った人は、挙手をお願いします。」

 その声に、おおよその人々の手が挙がる。心情的には綾羽の仲間で居たい霧子も、嘘を付くのは違うと、心苦しそうに手を挙げる。

「では、こちらの白銀さんの絵が上手か――」

 暁美の言葉が止まる。なぜなら、紹介しようとした綾羽の絵を、対戦相手である薙咲が食い入るように見つめていたから。その瞳は驚くほどに見開かれ、どこか感情を揺さぶられているかのようだった。

「……なに、これ。」

 まるで困惑しているように。信じられないものを見るかのように。なぜ彼女がそんな反応をしているのか。他の生徒達には分からない。綾羽にさえも分からない。

「えっと。まぁ、とりあえず、勝者は禍院薙咲さんです。」

 そもそも勝敗は明らかであったため。暁美が薙咲の勝利を告げる。

 鳴り響く拍手の音。

「……はぁ。」

 綾羽は完全に落ち込んでいた。たとえどのような内容とはいえ、敗北は大嫌いなのである。

「ドンマイ。」

「そうですよ。後で校長先生に抗議しに行きましょう。」

 霧子と知沙が慰めの言葉を送る。けれども、そんじゃそこらの慰めでは、綾羽の気持ちを癒すことは叶わず。うつむいたまま。

 そんな、敗者のもとに。勝者である薙咲が寄ってくる。先ほどとは、少し違った感情を瞳ににじませながら。

「貴女。……貴女の目から見て、どっちの絵が優れていると思う?」

 薙咲が問いかける。

「どっちって。そりゃあ、貴女の方に決まっているじゃない。喧嘩でも売ってるわけ?」

 その綾羽の回答に。薙咲の瞳が、冷たい色に戻る。

「……そう。貴女でも、その程度なのね。」

 まるで興味を失ったかのように。そう言い捨て、薙咲は身を翻した。

 この一連のやり取りを理解するのに、綾羽は数秒要し。

「うがああぁぁー!!」

 理解不能な初めての感情に叫びを上げた。

「綾羽さん、そんなに暴れないでください!」

「てゆうかあの人、なんで最後に追い打ちかけたんだろう。」

 若干の疑問を残したまま。四天王、美術部のマジシャンとの戦いは、綾羽の敗北で幕を下ろした。





「もう一人の四天王は、どなたでしたっけ?」

「えっと確か、水泳部の”スポーツ番長”、じゃなかった?」

「誰でもいいわ。何が何でも、徹底的に殺し尽くす。」

「あはは。よっぽど堪えたんだね。」

 とりあえず、先程の敗北は忘れて。3人はもう一人の四天王の元へと向かう。綾羽の闘志は、かつて無いほどに燃え盛っていた。

「それでは、行きましょうか。」


 最後の四天王と戦うべく。3人は水泳部が活動を行う屋内プールへとやって来る。

「うわぁ。立派なプールですね。」

「この学校、やけに金持ってるよね。」

 資金難からプールそのものを造らず、水泳の授業を廃止する学校も多いご時世だと言うのに。この鈴蘭女学院は贅沢にも、コストの高い屋内プールを有していた。

「まぁ、何でも良いわ。」

 ここへ来た目的はただ一つ。綾羽は脇目も振らず、全体を見渡せるプールサイドに立つ。

「スポーツ番長に用があるの。さあ勿体振らず、出してもらいましょうか!」

 綾羽は高らかに声を上げた。

 水泳部の生徒たちは、彼女が何を言っているのか理解できず。みなポカンとした表情で綾羽を見つめている。

「いやいや、ちょっと。」

「綾羽さん? そんな当然のように呼びかけても、きっと当人すら理解できてないですよ?」

 霧子と知沙が暴走気味の綾羽を諭す。

 そんな中、綾羽の声を聞いた水泳部員たちは、各々に声を掛け合う。

「スポーツ番長って何だろう。」

「ねぇ。」

「あっ、もしかして、舟引ふなびき先輩じゃない?」

「なるほど、確かに。」

「あの人なら、スポーツ番長っぽさあるかも。」

 水泳部員たちの中では、すでに該当者が浮かんでいるようだった。

「……話が早くて助かるわね。」


 水泳部員たちの紹介を受け。綾羽達は一人の少女の元へと訪れる。

「わたしになにか用かしら?」

 凛とした声に、意思の強そうな瞳。顔立ちは端正で、艷やかな長髪が目に止まる。その魅力的な容姿からはどこかカリスマ性のようなものが感じられ。綾羽と少し似ている。霧子と知沙はそう思った。ただ一つ。水着越しでも主張の激しい、その”胸部装甲の分厚さ”を除いて。我らが綾羽の紙装甲ぶりとは大違いである。

「貴女と一対一の勝負がしたいのよ。勝負の内容は何でも良いわ。殴り合いでも殺し合いでも、水上相撲でも構わないわ。」

「あの、綾羽さん。それは流石にちょっと。」

 ひどく暴力的な綾羽に、知沙は若干引いた。

「……そう、ね。よく分からいけど、受けて立ちましょう。後輩の頼みなら断れないわ。」

 対する彼女、水泳部の3年生である舟引美野ふなびきみのは、堂々とした様子で綾羽の勝負を受け入れた。

「さっすが先輩。人間が出来てる。」

 霧子は凛とした美野の姿勢に感心する。

「でも流石に、暴力とかに訴えるのはアレなので。勝負の内容は先輩が決めてください。」

 知沙は、目の前で怪我人が出るのがトラウマになっていた。

「……そう、ね。」

 勝負の内容を問われ。美野は思考を巡らせて。

「とりあえず貴女、着替えられる?」

 そう、綾羽の胸に問いかけた。



「それではこれより、水泳部のスポーツ番長、舟引美野と。鈴蘭の覇者、白銀綾羽によるタイマンルールを宣言します。」

 先程の美術室の戦いと同様に、クラスメイトである松平暁美がルールの見届け人を務める。

「勝負内容は100m自由形。双方ともに、全力を尽くして頑張ってください。」

 内心では、一日に何度も勘弁してくれ、と思っているが。それを全く感じさせない真面目な表情で臨んでいる。

 対決をする両者は、共に水着姿で、プールのスタート台の上に立っている。共に凛々しい表情は変わらず。違うのは年齢による身長差と、胸の大きさぐらいのものである。

「なんていうか。こうやって並ぶと、あの先輩の胸、ほんっとうにデカいよね。」

「霧子さん、その言い方はちょっと。綾羽さんには、まだまだ成長の余地があるんです。」

 一部の外野の思考は、勝負とは全く関係のない部分に注がれていた。

「ねぇ貴女。それを頭に着けたまま、泳ぐつもり?」

 胸の大きい方、美野が、綾羽に対して指摘する。綾羽は水着姿ではあるものの、その頭部にはいつも通りヘッドホンが装着されていた。

「あ、……確かに、そうね。」

 指摘され。綾羽はヘッドホンを外す。ただ、”それだけ”の事なのに。綾羽はまるで、頭を強く殴られたような衝撃を受ける。無論、それは単なる錯覚であるが。今すぐにでも、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。

(……あぁ。お願いだから、わたしを見ないで。)

 表情はなるべく崩さず。けれども綾羽は、溢れ返るような不快感が止まらない。

 そんな綾羽の顔を見て。ただ一人、知沙だけが違和感に気づく。

「何だか綾羽さん、すごく不安そう。」

「そう? それにしてもアイツ、ほんっと筋金入りだよね。ヘッドホンに寄生でもされてるんじゃ。」

「……です、ね。」

 なぜ胸がざわつくのか。知沙には分からなかった。


 スタート台に立ち、水面を見つめる2人の少女。本日2回目のタイマン勝負が始まろうとしていた。

 美野が綾羽の方をチラリと見る。

「……白銀綾羽、だったかしら。」

「なに?」

「……貴女、水泳の経験はどれくらいなの?」

「さあ? 覚えていないわね。」

「……言っておくけどわたし、結構速いのよ?」

「そう。」

「ちょっと前まで、」

「――ねぇ。」

 綾羽が美野の言葉を遮る。

「ちょっと、黙ってくれない?」

 若干の、”殺意”にも似た感情を込めて。その異様なプレッシャーに、美野も言葉を失う。

「貴女の”愚鈍で滅茶苦茶な思考”に付き合っていられるほど、わたしは寛容じゃないの。前を向いていなさい。」

 そうやって、会話を強制的に終了させた。

「それではお二人共、準備はよろしいですね。」

 そのやり取りは聞こえていなかったのか。変わらぬテンションで暁美が問う。

 2人は黙って前を見つめ、暁美もそれを了承と取った。

 手を振り上げ。

「よーい!」

 開始のホイッスルが鳴り。

 両者はほぼ同時にプールに飛び込んだ。


 いつ以来だったか、水を泳ぐのは。そう考えている内にホイッスルが鳴ってしまい、綾羽はほとんど反射的に飛び込んだ。

 つい、飛び込んでしまっただけで。綾羽の思考は完全に停止していた。なぜ自分が飛び込んだのか。なぜ目の前に水面が迫っているのか。綾羽は何一つ思考することがままならず。


 故にそのまま、水面に衝突し。

 ”パニック”に陥った。


 綾羽が飛び込んだ直後。凄まじい水しぶきが上がった。おおよそ、ただ人が着水しただけとは思えないほど、ド派手な音を立てながら。

「な、なんなの?」

 観戦していた他の生徒達がざわつく。

 水しぶきは一瞬の内には終わらず。むしろより激しさを増しているようにも見える。

 人が。いや、まるで怪獣が暴れているかのように。その勢いは止まらない。

「あ、綾羽さん?」

 知沙の中の懸念が、確証に変わる。

「ちょっと彼女、溺れてるんじゃない!?」

 あまりにド派手な水しぶきのため、思考が滞っていたものの。ようやく周囲の生徒たちも、何が起こっているのか理解する。

 白銀綾羽は、盛大に溺れていた。

 その騒ぎに。そこそこ距離を泳いでいた美野も異常に気づき。泳ぐのを止め、綾羽の生み出す水しぶきに注視する。

 他の水泳部員たちがプールサイドに集まるものの。

「助けようにも、これじゃ。」

 下手に近づけば、ただじゃ済まない。故に、その足を踏み止まらせる。

「……綾羽さん。」

 知沙や霧子も、今はただ見つめることしか出来ない。

 そうして、みなが見つめる中。

 ゆっくりと、段々と、水しぶきの勢いが落ちていき。

 ついには完全に、静寂へと変わった。

「……あれ、浮かんでこない?」

 水面に綾羽の姿は見えず。

「綾羽さーんっ!!」

 知沙の叫びが、屋内に響き渡った。



 声が聞こえてくる。知っているような、知らないような、そんな不思議な声が。

 わたしはずっと、他人の声に囲まれて生きてきた。始まりだけはどうしても思い出せないけど。きっと生まれたときから、わたしには他者の声が聞こえていた。

 他者というのは、自分以外の全ての存在を指す。目の前にいる人間。後ろにいる人間。左右にいる人間。そんな身肌に近しい者だけではない。隣の部屋にいる誰か、遠くの家にいる誰か。測り知れぬほど、遠い場所にいる誰か。耳を澄ませば限りがなく。それが、わたしにとっての”他者の声”。

 声にも種類がある。わたし自身に向けられたもの。他者から他者へ向けられたもの。己の中で完結する、単なる独白まで。それらを識別することすら、幼い頃のわたしには不可能だった。

 自分以外の誰にも理解されない事であるが。聞こえるのは人間の声だけではない。この世界、万物そのものの声すら聞こえてくる。野生に生きる多様な動物たち。自然に満ちる大いなる植物たち。それらの持つ、人とは違う”純粋な声”すら、わたしの耳は捉えてしまう。


――痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


 その叫びは、わたしにしか聞こえない。後になって知ったことだが、その叫びの事を、人は”環境破壊”と言うらしい。

 人は、人以外の全てを殺す。それを殺しとすら考えずに。

 故にわたしは思う。人間は愚かな生き物だと。

 なぜ、どうして。わたしだけ。



 意識が覚醒し。瞳をゆっくりと開くと。そこには、大粒の涙を浮かべた知沙の顔が存在していた。ひどい表情だと、思った。

「……綾羽さん。」

 絞り出すような小さな声。

 そうする内に、綾羽は自身の置かれた現状を認識する。プールの中で溺れ、誰かに助けられたのだと。

 ひどく痛む頭を押さえながら。起き上がろうとする綾羽であったが。

 とっさに知沙に抱きしめられ、その動作と思考が停止する。

「……知沙?」

「泳げないなら泳げないって言ってください! 勝負に負けたくないっていうその気持ちは尊重しますが、あまりにも無茶が過ぎます!」

 ヘッドホン越しではない。久々に聞いた、知沙の本当の声。ひどく感情をむき出しにした、怒りに満ちた声であったが。

 そんな声に、綾羽はたまらなく安心してしまう。

 真っ直ぐで、嘘偽りのない声。

(貴女みたいな人だけなら、きっとこの世界も。)



◆◇



 その日の夜。綾羽の激闘を間近で見届けた霧子は、いつも通りに一日を終わろうとしていた。お風呂上がりの濡れた髪のまま。ベッドに寝転んでスマホを弄っている。

 何気なく画面を見つめていると。メッセージの通知が届く。通知は、作ったばかりの”Gスポーツ部グループメッセージ”から。

 その通知を開くと。

『特訓するわよ!!』

 という、綾羽からのメッセージが送られており。少々脳内で転がして。とりあえず、霧子はスルーすることにした。

 すると、同時期に他のメンバーもメッセージを見ていたのか。

『何をするんですか?』

 と、知沙からのメッセージが届く。それに対する綾羽の反応は早く。

『明日、天ノ梅のレインボーラグーンに行って、泳げるようになるのよ。』

 とりあえずの特訓の内容を伝えてきた。

 霧子がそれに対して色々とツッコミどころを思い浮かべていると。

『なぜ唐突に!? 今日何かあったんデスカ?』

 ノエルからの返信が届き。メールでもテンション高いなー、と。霧子は頬杖しながら思う。

『度し難いほどの屈辱を受けたのよ。この恨み、果たさずにはいられない。』

 どんな表情でメッセージを打っているのか。そう考えながらも。霧子は仕方がないと、自身も返信を送る。

『てゆーか明日学校じゃん。特訓付き合うのは良いけど、土日で良くない?』

 至極真っ当な返信をしたつもりであったが。しかし、そもそも相手の存在が真っ当ではなく。

『貴女正気なの? 無様に負けを晒しておいて、何食わぬ顔で学校に行けってこと?』

(……そうきたかぁ。)

 未だ短い付き合いではあるが、霧子は知っていた。アイツは止まらないと。

『とにかく、明日の朝迎えに行くから。水着を用意して待っていなさい。』

『学校への連絡は、”今日サボる”って言えば良いらしいわ。紗那が言ってた。』

『部長命令だから、これは絶対よ!!』

 怒涛の3連投に圧倒され。霧子は反論を送る気力を無くした。

「アイツ正気? でも嘘はつかないだろうし。」

 釈然としない気持ちに包まれながら。霧子はそのまま夜を過ごし。


 次の日。

「マジかぁ。」

 家の前に停まっている、黒の高級車と。その中から満面の笑みを浮かべている部員どもの姿を見て。霧子は観念するのであった。



 学校もある、いつも通りの平日だと言うのに。鈴蘭女学院Gスポーツのメンツは、全員揃ってプールへと向かっていた。

 運転手である綾羽は勿論のこと。助手席の知沙や、後部座席に座るノエルも楽しみで仕方がないという様子。そんな中で、霧子は頭を抱えていた。

「いやアンタ、なにしれっと運転してんの? わたしと同じ高一だよね。」

 少なくとも、霧子の中の常識で考えて、綾羽が車を運転しているのは明らかな異常であった。

「”特例運転免許”と言うものがあるそうですよ? 何でも、優れた適正があれば10歳から取得できるとか。」

 事情を知っている知沙は何ら不思議に思っていない。ノエルに至っては、お気楽故に何の疑問も抱かない。

 けれども、霧子は納得しない。 

「そんな馬鹿げた話、聞いたこと無いんだけど。」

「本当よ? そういう特例がないと、少年探偵とかが車を運転できないじゃない。」

「少年探偵なんて、実在しないと思うんだけど。」

「最近は少なくなってるらしいけど。わたしの祖父も、昔は少年探偵だったらしいわ。」

「えっ、アンタの家族って、他もブッ飛んでるわけ?」

「……他”も”?」

 色々と身のある話をしながら。Gスポーツ部の御一行は、天ノ梅のリゾートプール、レインボーラグーンへとやって来た。


「おおぉー! おっきいデース!!」

 まるで小さな子供のように、車から降りたノエルが目を輝かせる。

 その視線の先に、レインボーラグーンは存在した。遠方からでも視認できるほど大きなウォータースライダーに、とにかく大きなプール。平日だからか、利用客もそれほど多くはない。

「何でも良いけど、特訓ならもっと別の場所のほうが良かったんじゃない? ここってほら、完全に遊ぶためのプールだし。」

 完全に遊ぶつもりな知沙やノエルと違い。霧子は未だ冷静であった。

「……ほら。ただ特訓に付き合わせるのは、何だか悪いじゃない? ここだったら、遊びという口実にもなるし。」

「いや、今日が”平日”じゃなければ、わたしも何の文句はないんだけど。」

 単純に遊ぶために学校を休むなど。霧子には初めての経験であった。

「まぁ、とにかく楽しみましょう。せっかく来たんだし。」

 綾羽は一切の反論を認めず。一行は楽しいプールへと足を踏み入れていった。


 更衣室にて、水着へと着替える少女たち。

「それにしても、プールって夏以外もやってるんデスネ。」

 ノエルが素朴な疑問を口にする。

「確かに。よくよく考えたらおかしいような。」

「うん。フツーにわたし、綾羽が計画ミスったと思って、話題に出せなかったんだよね。」

 知沙と霧子も、明らかに屋外プールなこの施設が営業していることに疑問を抱く。

 発起人である綾羽だけは、その問いの答えを知っていた。

「この施設、実はハイテクなの。最先端のテクノロジーで見えないバリアみたいのが張られてて、プールのある敷地内はほぼ真夏と変わらない環境なのよ。」

「なにそれ、すご。」

「驚きです。」

 初めて聞いた情報に、みなのテンションが上がる。

 けれどもノエルは、先程からずっと背を向けて、何故か微動だにしない綾羽に首をかしげる。

「あの、綾羽サン? どうして、”すっぽんぽん”のまま着替えないのですか?」

 すると綾羽は、ゆっくりと振り返り。

「……水着、忘れちゃった。」

 静かにつぶやいた。

 その告白に、他3人に衝撃が走る。

「えっ、いま? いま気づく? そんな素っ裸な状態になってから?」

「綾羽さん、着替えるときに身体とか隠さないんですね。」

「ど、どうしマス? みんな着替え終わっちゃって、最悪のタイミングですが。」

 誰も動けなかった。

「……法律と、施設が許してくれるのなら、わたしはこのままでも構わないのだけれど。」

「じゃあ、駄目じゃん。」

 どうしようもない状況に、意気消沈する少女たち。

 そんな最中、

「ふっふっふっふ。」

 どこからともなく、不敵な笑い声が聞こえてくる。

 声のする方に目を向けると。そこには、猫耳に水着というコスプレ度の高い少女、ヨハネが立っていた。憎たらしいほど、自信満々な表情で。

「真打ち登場だニャン!」

「ヨハネさん? 一体どうして。」

「誰なの? このコスプレ女。アンタらの知り合い?」

 霧子の目から見て、それは紛れもない不審者であった。

「えっと、ですね。例の計画に関係してる、仲間の一人? みたいな感じです。」

「ふぅん。なるほど。」

(絶対変な奴じゃん。)

 とりあえず、霧子は警戒心を下げた。

「それで、ここに何のようかしら。」

 素っ裸のままでも、綾羽は堂々としていた。

「ひょっとして、いま貴女の着ている水着、貰っていいの?」

「ニャン!? 剥ぎ取りは勘弁だニャン。」

 ヨハネは身の危険を感じ取る。

「綾羽が水着を忘れて行ったって。ウルスラから届けるように頼まれたんだニャン。」

 そう言って、ヨハネは持っていた水着を綾羽に手渡す。

「あっ、そう言えばこの人、ずっと後ろから付いて来てましたヨ?」

 ノエルが思い出す。

「屋根の上をぴょんぴょん飛んで、車の後ろを。」

「えっ、なにそれヤバ。」

 衝撃の事実に、霧子は驚く。

「でかしたわ、ヨハネ。貴女もたまには役に立つのね。」

「いやん、褒められると照れるニャン。」

「……果たして、それは褒められてるんでしょうか。」

 そんなこんなで、綾羽の水着問題は解決した。



「さぁ、泳ぐわよ!」

 可愛らしいデザインの水着に身を包み。綾羽のテンションは爆上がりである。

 人も少なく、それでいて多数のプールを存分に楽しめることもあり。綾羽だけでなく、他のメンバーも同様にはしゃいでいた。約一匹、部外者も混ざっているが。

 だがしかし。冷徹な霧子の手が、綾羽の肩を掴む。

「いや、アンタはまずこっち。」

 そう言って霧子が指差すのは、子供用の小さなプール。深さも膝程度までしか無い。

「……流石にあれじゃ、訓練にならないんじゃ。」

「アンタはまず、水に慣れるとこから始めないと。そこらのガキンチョより泳げないんだから。」

 そこらのガキンチョ。子供用プールで泳ぐ、子どもたちの姿が綾羽の目に止まる。

「はぁ。」

 あれ以下というのは、流石にショックである。

「それじゃ、わたしは綾羽が水に浮かべるようになるまで面倒見るから。それまで、別行動で良い?」

「そうですね。わたし達が子供用プールを独占していたら、ちょっとあれですし。」

「遊ぶデース!」

「遊ぶニャーン!」

 そういう事で意見が決まり。特訓を行う2人以外は、ハイテンションのまま他の大きなプールへと向かっていった。

「まったく、子供ね。」

「アンタほどじゃないけどね。」

 2人は一緒に、子供用プールへ向かった。


 ゆっくりと、綾羽は子供用プールの中へと足を踏み入れる。

 すると、霧子は少々慌てた様子で。プールに入ろうとする綾羽の、その頭部に装着されたヘッドホンを取り外した。

「ちょっと。」

「ちょっとじゃない。当然でしょう?」

 ヘッドホンを奪われた綾羽は、不機嫌そうに霧子を睨む。けれども霧子も譲らず、綾羽のヘッドホンを自身の首へとかけた。

「ほら、さっさと入って。練習するんでしょ。」

 そう霧子に促され。ヘッドホンを奪われた綾羽は、渋々とプールに浸かる。綾羽の身長は並程度。けれども痩せ型で、胸も慎ましやか。子供用プールでも違和感は無いと、不意に霧子は思ってしまった。

 霧子が見つめる中。綾羽は子供用プールでとりあえず浮かぼうとしてみる。けれども、その動きはどこかぎこちなく。無駄な力が入ってしまっているのか、体が水に沈んでしまう。それでも綾羽は特訓だからと諦めず、バシャバシャともがき続ける。

「ちょっとアンタ。陸上だとあんなに動けるのに、何で水中だとそうなるわけ? お風呂とかちゃんと入れてる?」

「……難しいのよ。」

 正直、答えにはなっていないが。やはり綾羽は、どこか余裕の無い表情で水と格闘している。

 綾羽の致命的な泳ぎの下手さ。それを見つめながら考える霧子であったが。どれだけ思考しても原因が見えてこない。そんな中。ふと霧子は、自らの首にかけた綾羽のヘッドホンの存在に気づき。なんとなく、出来心で装着してみる。すると、周囲のあらゆる音が、一瞬にして消失した。

「なにこれ。ノイキャンきっつ。」

 驚きつつ、ヘッドホンを外す。

「アンタ、いつもこんなの着けて生活してんの?」

 信じられないといった表情で、霧子は綾羽に問いかける。

 けれども綾羽は、それに対して何ら返答すること無く。必死に水と暴れている。いつもの澄まし顔とは打って変わり。まるで余裕の無さそうな表情で。

「……もしかして。これが無いと、生活できないの?」

 再び問いかけるも。やはり綾羽は反応しない。まるで、周囲の雑音にかき消され、声が届いていないかのように。

 人は恐怖を感じると、身体がとっさに膠着してしまうという。果たしてそんな状況で、人はまともに泳げるのか。彼女は今、一体どんな気持ちで、水を克服しようとしているのだろうか。

「やっぱアンタ、普通じゃない。」

 そのつぶやきも、聞こえていないのかも知れない。周囲の雑音の一部と認識され、彼女の心にまで届いていないのかも知れない。そう思いつつも、霧子の足は自然と水の中へと入っていき。

 そっと、後ろから抱きしめるように。綾羽の耳元へと口を近づけた。

「落ち着いて、綾羽。」

 囁くように声をかける。

「……霧子、あなた。」

 綾羽はひどく驚いた様子で。けれども霧子は言葉を続ける。

「いいから、わたしの声だけに集中して。それ以外は全部、無視して。」

 まるで子供をあやすように。ただひたすら優しい声のまま、その手を握ってあげて。

 霧子と綾羽は向かい合う。あれほど不安に満ちていた綾羽の瞳は、今は霧子の顔しか写していない。いつもの凛とした表情でも、先程までの不安げな表情でもない。ただの、年相応の少女がそこには居た。

(やっぱり、綺麗な顔。この距離から見るとヤバいわね。)

 霧子はそんな綾羽の顔に思わず見とれてしまう。

 すると綾羽は、どこか恥ずかしそうに顔をそらした。まるで、霧子が何を考えているのか分かっているかのように。

「……えっと。もしかして、心の声も聞こえるとか?」

 そう指摘した霧子に対し。

「……ええ。」

 綾羽は小さく、肯定した。ずっと内緒だった、誰にも言わなかった自らの異常性を。

「アンタも、改造人間か何かなの?」

 その問いに、綾羽は首を振る。

「一応、普通の人間のはず、なんだけど。」

 綾羽は自信なさげに答えた。なんの確証も無いかのように。きっと、それを理解していれば。その原因を、知ってさえいれば。白銀綾羽という人間は、今頃こんなザマになってはいなかったであろう。


 世界は嘘に満ち満ちている。

 善人という名の悪魔。

 ”親と名乗る”大嘘つき。

 わたしは一体、”どこ”から生まれたの?

 誰の言葉を信じればいいの?

 声に出せない疑問に苛まれながら。今日この日まで、恐怖と不安を圧し殺して生きてきた。


「――そっか。じゃあ、大変だったね。」

 プカプカと水面に浮かぶ綾羽の頭を、そっと優しく撫でる。

 戸惑いを見せる綾羽であったが。霧子は有無を言わさず、綾羽の頭を撫で続けた。

「アンタって、きっとすっごく、”特別な存在”なんだよね。人の心を読んだり、目にも止まらないスピードで動いたり。サッカーボールで、人やゴールを吹き飛ばしたり。」

 それは、出会いから僅かの間に霧子が知り得た、特別な存在としての綾羽の一面。並外れた才能や、身体能力によるものである。

「でも内面は、わたし達と何も変わらない。制御できない力、他人とは違う”自分”に怯えてる、普通の女の子。」

 首にかけていたヘッドホンをプールサイドに置いて。

 霧子は綾羽の手をギュッと握った。

「ほら、仰向けになって。一緒に練習しよ。」

「えっ、一緒に?」

「いいから。さっさとやろう。」

 そう言って押し切られて。


 2人は隣同士、手を握ったまま水面に仰向けになった。

 子供用プールで、女子高生2人が並んで浮かんでいる。その客観的な事実に、綾羽は赤面する。

「ねぇ。ちょっと、恥ずかしい。」

「我慢して。わたしもだから。」

 同様に頬を赤くしながら。霧子はとことん綾羽の特訓に付き合うつもりだった。

 水に揺られて。風に揺られ。耳を澄ませば、隣の心音すら聞こえてくる。そんな二人の少女は、ただひたすら同じ空を見つめている。

「……ねぇ、あの雲、イカに見えない?」

「どちらかと言うと、ナメクジじゃないかしら。」

 霧子の考えを、綾羽が否定する。

「じゃあ、あれは?」

「亀。」

「あっちは?」

「チューリップ」

 即答していく綾羽。

「じゃあ、その隣の大きいのは?」

「頭の大きな子供ね。」

「へ? なにそれ。」

 綾羽の回答に、霧子は思わず笑ってしまう。

 くだらない。心底くだらない。それなのに、隣につられて綾羽も不思議と笑顔になる。

「愚かな遊びね。」

「そだね。」

 2人の少女は、いつの間にか繋いでいた手を放しており。

「でもほら、浮かべてるでしょ?」

 先程までの、ぎこちなくこわばっていた様子と打って変わり。綾羽はとても自然体で、何も恐れること無く水に身体を委ねていた。

「ええ。こんなにも、簡単なことだったのね。」

「明日は勝てそう?」

「愚問ね。水に浮かべるってことは、すなわち泳げるってことなのよ?」

 何の疑いもなく。綾羽は言い切った。

「じゃあ、みんなのとこ行こっか。」

「ええ。そうしましょう。」

 もう何も怖くない。そう言わんばかりの顔で、綾羽は水から起き上がる。

 2人の少女が子供用プールから去っていく。

 もう不要である、綾羽のヘッドホンを置いたまま。





 知沙「綾羽さん、流れるプールを逆走しちゃ駄目です!」

ノエル「どんな特訓すれば、そんなに泳げるようになるんデスカ!?」

ヨハネ「流石は綾羽だニャン!」

 霧子「はぁ。やっぱアイツ、単なるバカね。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る