綾羽の方法



「綾羽さん、起きてください。」

 心地の良い気持ちだった。外から流れてくる自然の香りに、主張の慎ましい太陽の光。脳のとろけるようなこの心地が、綾羽にはたまらなかった。

「綾羽さん、聞こえていますか?」

 どこからか聞こえてくる、この妖精のような囁きも。自然に包まれている一体感。夢心地を彩るフレーバーのように感じられる。

「……あと一時間。」

「それじゃ遅刻しちゃいます。」

 ほんの僅かなノイズが混じるも。この穏やかな世界を崩すことは出来ず。柔らかなモフモフをギュッと抱きしめ、抗いがたい眠気に引き寄せられていく。

「……知抄さんも来ちゃいましたよ。いい加減起きてください。」

 知沙という名前に、一瞬耳が反応するも。やはり、眠り姫の目覚めを促すほどではなく。穏やかながらも明確に、現実を否定する。

 その、あまりにも図太い精神性に、優しい妖精の堪忍袋が破裂した。


「――お、起きんしゃーい!」


 ウルスラが叫ぶと。ベッドで惰眠をむさぼる綾羽と、覆いかぶさった布団が宙に浮かび。

 その穏やかな寝顔ごと、思いっきり地面へとひっくり返した。


 パチりと、綾羽の目が開かれる。さすがの綾羽も、上下逆さまにひっくり返った状態で寝続けることは出来なかった。

 布団が暴かれ、ひっくり返った綾羽の姿がさらされる。

 その姿に、ウルスラは驚いた様子で目をそらした。

「……綾羽さん、寝るときに下着は履かないんですか?」

 綾羽ほどの度胸はないため、ウルスラには信じがたい光景であった。

 対する綾羽の表情は、依然変わらず。なぜ自分がひっくり返っているのか、わけも分からず混乱していた。

「……エイチツー曰く。」

 それでも、綾羽の脳は懸命に回転を始める。

「わたしの下着は、ベッドの下を掃除すると、よく見つかるらしいわよ。」

「そう、ですか。」

 ウルスラは何も言い返せなかった。


 窓から覗く光が、逆さまな綾羽の顔を照らし。その眩さに、思わず目をそらした。

 くらくらと、調子の悪い頭を抱えながら、綾羽は感慨にふける。

(そういえば、長いこと早起きなんてしてなかったわね。)

 全てが狂い、全てが変わっていくような。そんな不思議な感覚を、感じずにはいられない。


 新しい、朝が来た。





 その教室は、何もかもが”ゆる”かった。グダッとした姿勢で、朝から姿勢の悪い生徒がいれば。机の上で、寝そべりながら本を読む生徒もいる。誰かのスマホから漏れる音楽が、そのままBGMのように教室に流れている。それが、この教室では当たり前の光景であった。

 教科書ではなく、漫画の貸し借りをする生徒たち。

「ありがと。1ケンピでいい?」

「うん。良いよ。」

 謎の棒のようなものを、取引に使う少女たち。

 他の場所では、教室内というのにも関わらず、せっせとかき氷作りに勤しむ生徒が居た。

「一杯1ケンピで売ってやるよ。」

「悪い、さっき少しかじっちゃって。0.5ケンピくらいしか無いけど、大丈夫?」

「まぁ、それでいいや。」

 そう言って、半分ほどにかじられた棒を受け取るかき氷の女生徒。

 彼女たちは、独自の通貨を流通させていた。

「それって、本当に面白いんですか? アイドルが声優をしているんでしょう?」

「いやいや、だからこそ面白いんです。だからこそ感動できるんです。」

 ある生徒たちは、アニメに対して語っていた。

「貴女は趣味が悪いですからね。」

「女キャラばかりの、ゆるふわアニメしか見てない人に言われたくないです。」

「はぁ。結局それが一番だと、まだ気づかないんですか。」

 互いに、相容れない”領域”が存在していた。

 オタク趣味の生徒が居れば、お洒落な今どきの生徒たちだって居る。

「ねぇねぇ、黒板消しをドアに挟んでさ、彩音ちゃんが引っかかるかどうかで賭けない?」

「ええっ、それは流石に可愛そうじゃない?」

「そっかぁ。」

 今どきの女子高生らしい脳みそを、持っているとは限らない。

「なら新品のを使おっか。」

 鞄から黒板消しを取り出す生徒。

「すっごい。それも鞄から出てくるなんて。」

 そうやって、ゆるく今を楽しむ生徒たち。

 それが鈴蘭女学院、1年1組の、ありふれた風景であった。




 そこそこの速さで、校舎内の廊下を駆ける一人の生徒に。その後ろを、必死に追いかけるもうひとりの生徒。

 メガネを掛けた、40代ほどの女性教師の隣を通り過ぎる。

「今日も元気で安心ですね。」

 生徒が廊下を走っていることに、その教師は何故か誇らしげだった。

「……おや、でもあの生徒は。」

 女性教師は、先程通り過ぎた一人目の生徒、ヘッドホンを着けた生徒の姿を思い出し。

 すでに誰も居なくなった廊下を振り返った。



 廊下を駆ける、ヘッドホンの少女であったが。後ろを走る少女の遅れに気づき、その足を止める。

 必死に息を切らしながら。なんとか追いつく、もう一人の少女。

「綾羽さん、ちょっと早すぎです。」

 犬神知抄は綾羽に対して抗議した。

「心外ね。これでも、貴女の最初のペースを維持しているのよ? 貴女が勝手に、遅くなっただけ。」

 それが綾羽の主張であった。

 息切れもあり、何も言い返せない知抄。

「……も、元はと言えば、綾羽さんの準備が遅すぎたのが悪いんじゃ。」

「わたしは、自分に合ったペースで生きてるのよ。」

 綾羽の自我は強かった。

「ひ、ひどすぎる。」

 目の前の少女の生き方に、絶望する知沙。

 その様子に、さすがの綾羽もバツの悪そうな顔をする。

「まったく、しょうがないわね。」

 ため息を付きながら。綾羽は知沙の抱える鞄を掠め取る。

「ほら、教室まで持っててあげるから、さっさと案内して頂戴。」

 その綾羽の態度に。

 思わず顔がほころぶ知沙。

「はい!」

 そう、元気よく返事をし。

 性格のまるで違う、二人の少女は。一緒に登校をした。




 教室のドアに挟まれ、落下の時を待つ黒板消し。その運命の時を見逃すまいと、黒板消しに注視する無数の生徒たち。

 その時は、訪れる。


「――到着です。ここが1年1組の教室ですよ。」


 目当ての教師ではなく。聞こえてくるのは、見知った女子生徒の声。

「あっ。」

 その事実に気づき。咄嗟に声をかけようとする、仕掛け人の生徒。

 だが、時既に遅く。


 ゆっくりと扉が開かれ、教室に入ってくる犬神知抄。

 その頭上に落ちて行く、黒板消し。それは確かな軌道で落下し。


――知沙の真後ろから伸ばされた、一本の可憐な”足先”に阻まれ、その動きを止めた。


 その光景に、唖然とする生徒たち。


「あ、おはようございます。」

 そつなく挨拶をする知沙。

「皆さん、どうかしましたか?」

 何故か集まっている視線に、知沙は疑問を抱く。

「さぁ、気のせいじゃないかしら。」

 その声に、振り向く知沙。

 そこには、何事もなかったかのように、変わらぬ綾羽の姿があった。

「そうですね。先生が来る前に、席に着いちゃいましょう。」

 教室に入っていく知沙。

 その後を追うように。綾羽は何食わぬ顔で教室に入った。


 第一印象は、やはりヘッドホン。けれどもそれは、あくまでパッと見の印象であり。

 何よりも目につくのは、その端整な顔立ちだった。意思の強そうな瞳に、自身に満ちたような表情。

 なびく髪の毛からは、何かキラキラしたものが溢れているようにも見えた。


 ”なんか凄いのが来た”。それが、クラス一同の気持ちだった。



「綾羽さんは窓際の席ですよ。わたしの隣です。」

「……そう。」

 知沙に教えられて。自分の席へと足を運ぶ綾羽。少し緊張した様子で、席に座った。

 初めての教室を、その瞳いっぱいに収める。他の生徒達の視線に、ひそひそとした話し声。その全てが、綾羽の脳に刻まれる。

 綾羽にとって、久々の教室という環境。まるで、自分が人間社会の一員になったかのような。そんな不思議な感覚。

(いつぶりかしら、この感じ。)

 中学校には一度も行かず。小学校にも、碌な思い出がない。

――なんですかそれは、外しなさい。

 嫌な記憶が蘇る。

 その表情には出ずとも。綾羽の心には、確かな不安がこびりついていた。



 ガラガラと音を立て、ドアが開き。1年1組の教室内に、若い女性教師が入ってくる。

 ショートボブの髪の毛に、真面目そうながら、優しさが垣間見える顔立ち。彼女こそ、この1年1組の担任教師、菊池彩音きくちあやねであった。

「皆さん、おはようございます。」

「「おはようございま~す!!」」

 生徒たちは、驚くほど元気いっぱいの挨拶をした。それに思わず、圧倒される綾羽。

 菊池先生は、そんな生徒たちの挨拶に笑みがこぼれ。生徒たちの顔を見渡し、彼女の存在に気づいた。

「あら? もしかして白銀さん?」

「……はい。そう、ですけど。」

 口がうまく回らない綾羽。

「よく、来てくれましたね。とても嬉しいです。」

 菊池は、変わらない微笑みを綾羽に向ける。

「担任の菊池です。慣れない環境だとは思いますが。みんないい子達ばかりなので、気軽に頼ってくださいね。」

「……はい。分かりました。」

 大人の人。教師の目を見て話すという行為は、綾羽にとって”恐怖”にすら近かった。

 そんな綾羽の胸中などつゆ知らず。担任の菊池は、そのままホームルームの諸連絡を続けていった。

 その、流れていく教師の話を聞きながら。綾羽は不思議と、胸を抑える。

(……えっ、それだけ? もっと色々、言うんじゃないの?)

 綾羽は、自分の頭に装着されたヘッドホンを思いながら、教師の反応に疑問を抱いた。

 隣の席の知沙は、綾羽の微かな表情の変化に気づく。

「どうしたんですか? 綾羽さん。」

「えっ……」

 突然声をかけられ、若干動揺する綾羽。

「ええ。てっきり、これを外すよう、言われると思って。」

 そう言いながら、綾羽はヘッドホンに手を触れる。

「ああ、そういうことですか。」

 綾羽の胸中を察し、微笑む知沙。

「大丈夫ですよ、綾羽さん。”学校でヘッドホンを着けてはいけない”、なんて校則、この学校にはありませんから。」

 そう、言い放った。

「……へ?」

 目を見開く綾羽。

 対する知沙は、ただ微笑むだけ。

(そうなの? そういう問題なの?)

 不思議に思うも、それに答えが出るわけでもなく。

 何だかふわふわと、”ゆるい”気持ちになる綾羽であった。




「はじめまして! 白銀さん。さっきの黒板消しキャッチ、凄かったね!」

「うん。凄かったです!」

 黒板消し落としの”犯人”である生徒たちが、もう忘れたとばかりに話しかけてくる。

 そんな事情など知る由もなく。テンションの高さに圧倒される綾羽。

 話しかけてくるのは、その二人だけではなく。

「ねぇねぇ、そのヘッドホンカッコいいね。」

「好きな音楽とかあるの?」

 また別の生徒たちが、綾羽の周囲に集まってくる。

 顔が引きつる綾羽。

「そう、ね。そういうわけじゃないんだけど。」

 想定していたよりも、遥かにテンションの高い生徒たち。

(……女子高生って、こんななの?)

 目の前が、くるくると回る。

「なぁ! 好きな食べ物とかって何? ここの学食、結構種類あるからさ。昼飯一緒に食おうぜ。」

 もはや綾羽にとって、”衝撃的”とまで言えるハイテンションな生徒たち。

「そっ、そうね。前向きに検証。じゃなくて、検討をするわ。」

 綾羽は自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。

 助けを求めようと、隣の席に目を向けて。

 誰も居ない知沙の席に、戦慄する綾羽であった。

 


 綾羽がハイテンションな生徒たちに囲まれていた頃。

 知沙は他の生徒に用があり、その生徒のもとへ足を運んでいた。

「すみません、霧子きりこさん。」

「いいよ、気にしなくて。このクラスで真面目に課題やってるのって、知沙か松ちゃんくらいだし。」

 課題を忘れた知沙は、頼れるクラスメイトである”狭間霧子はざまきりこ”に、課題を写させてもらっていた。

「でも珍しいね、課題やってないなんて。”出来はともかく”として、いつも真面目に提出してるのに。」

 真面目な子。霧子は目の前の少女をそう評していた。

「土日とも、かなり忙しかったので。」

 何をしていたのかは言えずとも、理由を説明する知沙。

「ふぅん。」

 霧子もそれ以上は気にしなかった。

「それにしても彼女、すごい人気ね。」

 綾羽と、その周囲に集まる生徒たちを見て、霧子がつぶやく。

 それにつられて、知沙もその様子をちらりと見る。

「綾羽さん、すっごく可愛いから。」

 色々な意味を込めて、そう評価する知沙。

「それもそうだけど。さっきの黒板消しのやつも、マジ凄かったし。」

 先程の足先キャッチの衝撃は、霧子の中にも響いていた。

 それに対し、ポカンとした表情をする知沙。

「黒板消しのやつって、なんのことですか?」

「あっ、そうか。知沙だけ知らないんだ。」

 自身の頭上と、真後ろで生じた出来事のため。知沙だけが唯一、黒板消しキャッチの衝撃を知らなかった。

「な、何なんですか? 教えてくだい。」

 含み笑いをする霧子に、問い詰める知沙。

「なーいしょ。ほら、さっさと課題写さないと、五十嵐先生は厳しいよ。」

「うぅ。分かってます。」

 結局、黒板消しのやつが何なのか分からないまま。知沙は課題の写しに没頭した。




 チャイムが鳴り。綾羽にとって、高校初の授業が始まる。

 授業を担当するのは、担任とは異なる女性教師であり、どこか厳しめな印象を受けた。

 例のごとく、綾羽の存在に目が止まる。

「貴女ね、ヘッドホンの生徒は。」

 綾羽に対して、声をかける女性教師。

「数学を担当する五十嵐いがらしよ。あまりとやかくは言わないけど、授業は真面目に受けてもらうわよ。」

「……はい、先生。」

 若干、高圧的な態度の五十嵐に対し、声が小さくなる綾羽。

「よろしい。じゃあみんな、教科書の41ページを開きなさい。」

 それ以上、綾羽に対して言うことはなく。五十嵐は授業に入っていく。

(やっぱり、ヘッドホンを外せとは言わないのね。)

 初めは厳しい先生だと思ったが。綾羽の想定より、口数は少なく、口調は優しかった。

 そんな中、ある事実を思い出す綾羽。

「先週の続きを終わらせるわよ。」

「――先生。」

 綾羽の声が、五十嵐の言葉を遮る。

「教科書を全部無くしたので、隣に見せてもらっていいですか?」

「それは構わないけど。無くしたってどういうことよ。貴女、今まで休んでたわよね?」

 至極真っ当な質問をする五十嵐。

「ええ、よく覚えてはいませんが。学校に行くつもりがなかったので、捨ててしまったかもしれません。」

 綾羽は正直に真実を口にする。

「そ、そう。まぁ、帰りまでに担任に報告するように。」

「分かりました。」

 そうして、授業は再開された。

「いいかしら、知沙。」

「はい。どうぞ、綾羽さん。」

 机を近づけて、知沙に教科書を見せてもらう。

「よければノートもどうぞ。先週の続きらしいので。」

「そうさせてもらうわ。」

 優しい表情のまま、知抄のノートを受け取る綾羽。ペラペラとページをめくり、その微笑みの”理由”が変わる。

「ねぇ知抄? 貴女の字って、まるでバラバラのひじきみたいね。」

 可愛い子供に指摘するように、優しく囁く綾羽。

「……精進します。」

 知沙は恥ずかしさで顔が真っ赤になっていた。



「じゃあこの問題だけど。……白銀さん、いけそう?」

 五十嵐の視線が、綾羽を指す。

「……いきます。」

 黒板をじっと見て。綾羽はそう決断した。

 黒板の前へと立つ綾羽。書かれた問題を見ると、迷いなく数式を書いていき、答えへと導いていく。

 その様子に、感心した様子の五十嵐であったが。綾羽の書く数式が異常な長さになりつつある様を見て、その表情が変わる。

「出来たわ! 答えは0ね。」

「なわけ無いでしょ。」

 なぜ、そんな自信に満ちた表情が出来るのか。五十嵐には謎だった。

「そんな、……嘘でしょう?」

 綾羽は自分の答えが間違っているとは、微塵も思っていなかった。

「貴女、ある意味天才かもね。」

 黒板に書かれた、長文の謎数式を見て。五十嵐はそう呟いた。


「何だか白銀さんって、1クール目で敵だったキャラが、主人公と同じクラスにやって来た、みたいな感じしませんか?」

「分かります。これから主人公に対してデレを見せてきて、サブヒロインとして絶大な人気を得るパターンですね。」

 一部のクラスメイトは、勝手に盛り上がっていた。


「……数学って、難しいのね。」

 席に戻った綾羽は、隣に聞こえる程度の声でつぶやいた。

「そうですね。高校生になって、一気にレベルが上がった気がします。」

 知沙も、綾羽と同じ意見だった。

「知沙は、この問題分かるの?」

 純粋な気持ちで問いかける綾羽。

「そう、ですね。たぶん、おそらく、大丈夫、じゃないかなと。」

「……そう。」

 綾羽はそれ以上追求はしなかった。




 授業が終わり、休み時間。

 一人の女子生徒が、遅めの登校をしてくる。一見、お嬢様のように見える髪型や雰囲気ながら。その目つきは鋭く、不機嫌そうにも見えた。

「あ。来たわね、不良少女。」

「おはようございます、紗那しゃなさん。」

 クラス内でも真面目グループに位置する狭間霧子と、松ちゃんこと松平暁美まつだいらあけみが女子生徒に声をかける。

「ん。おはよ。」

 紗那さんこと、三笠紗那みかさしゃなは、小さく挨拶を返した。

「てっきり、また屋上でサボってるのかと思ったよ。」

「……サボってたよ。でも校長に見つかったから、仕方なく降りてきた。」

 遅刻の原因を説明する紗那。

「怒られたの?」

「いいや。なんかパン貰った。」

「なぜに?」

 奇行の目立つ校長先生は、霧子にとって理解の及ばない存在だった。

「校長先生、ちょっと変わっていますからね。」

「変わっているというか、なんか不良に対して甘いのよ。」

「いや、アタシ別に不良じゃねぇよ。」

 このクラス唯一の不良である紗那は、自身の印象を訂正した。


「つか何? なんか見慣れない奴居るじゃん。」

 白銀綾羽の姿を見て、紗那がつぶやく。

「ずっと休んでいた方ですね。白銀綾羽さん。すっごく可愛いと、クラスでも話題になっています。」

「ふぅん。」

 なんとなく、綾羽の姿を見つめる紗那。

「あと、知沙と仲が良いらしいよ?」

「あっそ。まぁ、アタシには関係ねぇな。」

 興味を無くし、紗那は目をそらした。


「次の授業は体育ですよ?」

「知ってる。校長も、体育だけは受けとけってさ。」

「……あの人、ほんと謎だよね。」

 次の授業の話をする彼女たち。

 ”体育”の授業。

 それが、とてつもない嵐を呼ぶことを、彼女たちは知る由もなかった。





 グラウンドに立つ綾羽。周囲には、各々身体を動かすクラスメイト達の姿があり。その中で綾羽は、不思議そうな顔で周囲を見つめていた。

(……人が、いっぱいいる。)

 綾羽のクラスだけでも、生徒数は20人に登り。遠くに見える校舎には、その何倍もの生徒が生活をしている。

(そう。これが、学校なのよね。)

 どこか、落ち込んだ様子の綾羽。

(なぜ普通の人間は、こんな環境に耐えられるのかしら。)

 そう思いながら。綾羽は自身を”閉じ込める”ヘッドホンを、そっと押さえた。


「――白銀さん。」

 声をかけられ、振り返る綾羽。

 そこには、未だ話したことのないクラスメイト、霧子が立っていた。

「あんた、体育の時も、それ着けたままなのね。落とすとあれだし、一応外しといたら?」

 ヘッドホンを外さないかと、提案する霧子であったが。

 対する綾羽は、何も言わずに霧子の顔を見つめていた。

(……えっ、スルーされた?)

 綾羽の反応に、驚く霧子。

 けれども綾羽は、ゆっくりとその口を開いた。

「貴女、さっき知沙と話してた子よね。」

「そ、そうだけど。」

 予想外の返しに、動揺する霧子。

「あぁ。そう言えば、名前言ってなかったわね。わたしは狭間霧子。霧子でいいよ。」

「ならわたしも、綾羽でいいわ。白銀って呼ばれるの、そんなに好きじゃないの。」

「ふぅん、そっか。」

 互いに、軽い自己紹介を済ませる。

「そういえば綾羽ってさ、知沙と仲が良いんだね。もしかして同じ中学とか?」

「いいえ、出会って3日ほどの関係よ。」

 正直に話す綾羽。

「へぇ、その割には仲良しだよね。」

「……そう、なの?」

「えっ、そうじゃないの?」

 二人の関係に、気になってしまう霧子。

 綾羽は少し、悩んだ。

「……難しい判断だわ。わたしと彼女の関係。彼女がわたしをどう思っているのか。客観的に見たら、仲良しに見えるのか。」

 綾羽にとってそれは、とても難しい問題だった。

「ねぇ、わたしと知沙って、仲良しに見える?」

「えっ? あー、うん。どうだろう。」

 口を濁す霧子。

(なに、この子。めっちゃ面白い。)

 彼女の中で、綾羽に対する印象が大きく変わった。



(……何でしょう、この悪寒は。)

 綾羽と霧子から遠く離れた地点。サッカーゴールの前に立つ知沙は、明確な震えを感じていた。

(綾羽さんと違うチームというだけで、震えが止まらない。)

 これから行われるのは、クラスを半分に分けて行う”サッカー”であり。綾羽と知沙は、互いに敵同士となっていた。

(なぜキーパーに選ばれてしまったのか。)

 知沙は、断れない自身の性格を強く恨んだ。

(はたして、綾羽さんのボールを受けて、五体満足でいられるんでしょうか。下手したら命すら危ないような。)

 不安に次ぐ不安。知沙の心の中は、綾羽に対する恐怖が渦巻いていた。

 そんな知沙に対し、声をかける者が一人。

「犬神、あんたちょっと大丈夫?」

「あっ、紗那さん。」

 クラス唯一の不良である紗那に、話しかけられる知沙。

「まぁ、あまり緊張すんなよ。こっちのチームにはわたしも居るし、多分キーパーの仕事は無いよ。」

 クールに、彼女なりの励ましを送る。

 しかし、知沙の中の恐怖は消えず。

「そうですか? そうなんですかね。」

「ええ、負けないよ。」

 自身に満ちた様子の紗那。

「本当ですか!? 信じても良いんですか?」

「えっ、いや、まぁ。」

 必死な形相の知沙に、若干引いてしまう紗那。

「てか、なんでそんなに泣きそうなわけ?」

「まだ死にたくないんです。」

「って、サッカーごときで死ぬわけ無いじゃん。」

 何が彼女をそこまで追い詰めるのか。紗那には分からなかった。

「そ、そうですよね。所詮はサッカーですしね。」

 そう自分に言い聞かせながら、知沙は己の中の恐怖を飲み込んだ。

(いくら綾羽さんでも、サッカーの基本知識くらいは知ってるはずだし。)

 しかし、残念かな。

 未だ、出会って3日程度。知沙は綾羽のことを、まだ到底、理解出来てはいなかった。



 試合がスタートし。女子高生たちの、ゆるふわサッカーゲームが開始された。

 不真面目極まりない1年1組の生徒たちであったが、身体を動かすことは嫌いではないようで。みな全力で走り出し、一応のルールに則った形で、ゆるくも本気のサッカーに興じている。

 しかし、そんな中で唯一人、綾羽のみが、未だにその場から動いていなかった。他の生徒達の動きを見つめ、ボールの動きを見つめて。なにか考えた様子の綾羽。

(……サッカーって、何だったかしら。)

 綾羽は、彼女なりに必死に、目の前のスポーツについて熟考していた。

(ボールの数は一つ。あれをどれだけ保有していたかを競うゲーム? いいえ、違うわね。先生が持っているストップウォッチは一つ。両方のチームの保有時間を記録しているようには見えない。)

 その考えの瞳は、もっとも遠い場所にいる知沙の姿を捉える。

(一番奥のエリアにいる敵、知沙を倒したら勝ちってこと? そうだわ! たしか手を使ったりするのは駄目って聞いた気がするし、直接の打撃ではなくて。)

 クラスメイト達が必死に奪い合う、サッカーボールに目が止まる。

(あのボール! あれを使って、知沙を倒せばいいのね。後ろのネットは、さしずめセーフティと言ったところね。)

 綾羽は、サッカーというスポーツを、完全に把握した気になっていた。それによって生じた高揚感に、不敵な笑みが溢れる。

(Vコンでも、サッカーのゲームはやったこと無いものね。興奮するわ。)

 初めて経験するサッカーというゲーム。

 その興奮に、綾羽は静かに闘志を燃やしていた。


(……綾羽さん。なぜそんな目で、わたしを見ているのでしょうか。)

 知沙は再び戦慄していた。



「綾羽、ボール行くよ!」

 霧子から放たれたパスが、綾羽のもとに到達する。到達、”してしまう”。

 ボールを受け取り、その場でキープする綾羽。

「あら、存外硬い。」

 踏み心地に対して、そう呟く。

(これ、思いっきり蹴ったら、あの子怪我しちゃうんじゃ。)

 綾羽の脳内に、非力な子犬のイメージが湧き上がる。

 そうやって、若干物思いに耽る綾羽に対して。


「いただくわ!」

 敵チームの一人が接近し、綾羽の保持するボールに足を掛ける。

 しかし、そのボールは何故か微動だにせず。

 奪おうとした女子生徒は、その勢いのまま地面に転んでしまう。

「おいおい、何してんだよ〜」

 その様子を見ていた生徒が、おかしそうに声を掛ける。

「えっ、ええ。」

 転んだ生徒は、自分の足から生じた感覚に、信じられないという表情。

(……そんなに、体重かけてなさそうだった、よね?)

 それにも関わらず、その生徒はまるで、”鉄の塊”を動かそうとしたような、妙な錯覚を覚えた。



 そんな一連の動きなど知る由もなく。とりあえずボールを保持していた綾羽は、敵の本陣である”知沙”を見つめていた。

「とりあえず、ここから蹴りましょうか。」

 ぐだぐだ考えていても仕方がない。そう結論づけ、綾羽はようやく”攻撃行動”に入る。

 軽く足先で、ボールを撫で。

 とりあえずの力加減で、ボールを蹴った。


 その瞬間、人が車にはねられたような、重い衝撃音が鳴り。

 とても、女子高生の放つ威力とは思えないシュートが、殺人的な軌道でゴールに迫る。


「あっ。」

 知沙は本能的に、自身の死を察した。理性ではなく、もっと原始的な身体の機能が。目の前から迫る”一撃”を、死という概念として幻視する。

 その殺人シュートは、知抄めがけて一直線に突き進み。


――咄嗟に間に入った紗那の足に、阻まれる。


「ぐぅううッ!!」

 自分は一体、何を止めようとしているのか。

 刹那、迷いながらも。紗那は全力を尽くして、ボールを抑え込む。


 それが功を奏し。綾羽の放ったシュートは、ほんの僅かに軌道をずらし、ゴールポストに直撃した。


「ひぇ。」

 揺れ動くゴールに、軽く悲鳴を上げる知沙。


 そのすぐ近くでは、ボールの軌道を変えた紗那が、驚愕の表情を見せていた。

「……なんつー威力だよ。」

 その衝撃に、未だ紗那の足は震えていた。


 一連のセーブ劇に、足を止めるクラスメイト達。

 この瞬間、彼女たちの中に共通意識が生まれていた。

 ”あいつにボールを渡したら、ヤバい”、と。



「犬神、バス!」

 クラスメイトの声に、我に返る知沙。

 声を上げたチームメイトに向けて、ボールを投げる。

 それを受け取り、考える間もなく走り出すチームメイト。その表情は、まさに真剣そのものだった。

(くっそ、一番運動のできる三笠がやられた。なんとかカバーしねぇと。)

 たとえ劣勢だろうとも、諦めるという考えは微塵もなかった。


 そんな、敵チームの心情など知る由もなく。

 綾羽は先程のように棒立ちで、只今のシュートの反省会を行っていた。

(軌道は思った通りだった。でも案外”普通”に防がれちゃったから、もっと思いっきり蹴っても大丈夫そうね。)

 綾羽の中で、ギアが一つ上がる。

(ふぅん。ああやって走って、近づいて攻撃するのもありなのね。)

 クラスメイトの動きを見て、サッカーを学んでいく綾羽。

「面白い。」

 綾羽は新しいゲームに、興奮を隠せなかった。



「やっべー、白銀が動いてきた!」

 ついに動き出した破壊神に、警戒をあらわにする敵チーム。

「ヘイ! パス!」

 ボールを動かし、綾羽の手に渡らないようプレイする彼女たちであったが。


――目にも留まらぬ速さで、ボールを奪い去る綾羽。


 その動きに、動揺する生徒たち。

「そんなまさか、瞬間移動!?」

 ”そんな訳あるか!”、そう心の中でツッコみつつも。

 綾羽の人間離れしたスピードに、生徒たちの目は釘付けになる。

「くっそ、これで1点は確定か。」

 ボールを奪われたことに、純粋に悔しがる生徒であった。



 華麗にドリブルを決め、敵チームのブロックを次々にかわしていく。綾羽の表情は、純粋な喜びに満ちていた。

(あぁ、なんて楽しいのかしら。)

 その動きは、時を追うごとに洗練されていく。

(これがサッカー! これが学校!)

 その瞳は、敵である知沙に向けられていた。

(貴女には、感謝しなければいけないわね。わたしをここまで、連れ出してくれた。)

 純粋な感謝と、慈しみに。綾羽の心は、優しい気持ちに溢れる。


「――だからこそ、手加減はしないわ!」

 駆ける綾羽。その瞳は真剣そのもので。


『パーフェクト・ブレイカー』


 他の生徒達には、綾羽の頭上に技名が浮かんで見えた。


 綾羽の一撃は、その名を体現するかの如く。

 凄まじい衝撃波と共に、ボールを弾き飛ばした。


「……いいえ綾羽さん、これはちょっと。」

 もはや、それ以上何も言えることはなく。知沙は命を差し出した。


 だが、諦めていない人間が一人。


「このままじゃ、終われねぇ!」


 知沙を、ゴールを守るため、紗那が立ちふさがる。

 その目は、未だ闘志を燃やしていた。


『デス・キック』


 綾羽同様、頭上に技名を浮かばせながら。

 強烈なシュートに対し、反逆の一撃を食らわせる。


 どれだけ実力差があろうとも。紗那は、負けるものかと食い下がる。

(……つまらない学校だと思ってた。)

 軋む足を、根性で抗い続ける。

(姉貴みたいになりたくない。決めたれたレールを進みたくない。……あと、家から近い。その程度の考えだった。)

 悪魔の一撃を、抑えきれなくなってくる。


「でも、逃げちゃ駄目なんだ。」

 もう少しだけ、戦えるようにと願う。


「逃げっぱなしじゃ、終われねぇ!」

 自分の中の全てを絞り出し。意味の分からない威力のシュートに抵抗する。


 だが、やはり。”神の一撃”を止めることは出来ず。

「うぉッ」

 ボールに弾かれる紗那。


 けれども、小さな人間の抵抗も、全くの無駄ではなく。ボールはまたも軌道をずらし、ゴールポストへと直撃した。

 ゴールを再び防いた。その事実に歓喜するチームメイト達。

 綾羽だけが、異常に気づいていた。


「……えっ」

 知沙は、自分に向かって倒れてくるサッカーゴールを、ただ見つめることしか出来なかった。

 先程以上の威力を浴びたゴールは、もはや揺れる程度では済まされず。衝撃で一度浮かび、再び戻ってきていた。


『マジ蹴り』


 ゲーム用のお遊びとは違い、渾身の力を込める綾羽。それはボールに致命的なダメージを与えつつも、それが破裂するよりも速く、音の壁を超えて。

 知沙にぶつかる寸前であったゴールを、力任せに吹き飛ばした。


 ひしゃけながら、10m程度吹き飛ばされるゴール。

「助か、った?」

 大怪我寸前であった知沙は、命を確認するように、ほっと息を吐いた。

「……だけど。」

 知沙は別のことが気になり、心配そうな目で綾羽の方を見る。

 舞い散る土埃のせいで、その表情はよく見えなかった。



(……やりすぎた、わね。)

 綾羽は冷めきった瞳で、状況を静かに見つめていた。ひしゃけたゴールに、荒れたグラウンド。普通を知らない綾羽でも、それが”異常”であるとは分かりきっていた。

(何をのぼせていたのかしら、わたし。ちょっと楽しくなった程度で、調子に乗っちゃって。)

 他のクラスメイトたちの表情は、綾羽には直視できなかった。知沙ですら怯えていたのだ。ならば他人同然の彼女たちが、どういう目で自分を見ているのかは、容易く想像できる。


――わたしの居場所はここじゃない。わたしみたいな生き物が、こんな普通の世界で生きられるはずはない。


 ”普通”という名の恐怖を思い出し、その場を立ち去ろうとする綾羽。

 だが、


「すっごーい!」

 聞き覚えのある声。


 それは、一つではなく。

「お前本当に高校生かよ!」

「いいえ、むしろ人間やめてますね。」

「つーか、さっきなんか技名見えたんだが。」

「ええ。まさかこの目で、超次元サッカーを見られるとは。」

「すっごいですね、白銀さん!」


 綾羽を取り囲む、クラスメイトたちの声。それは綾羽の想像や、知沙の懸念すら飛び越えて。綾羽という”異常”を、受け入れるものだった。

(……何なのよ、これ。)

 困惑する綾羽。彼女には、自分を取り囲む光景が理解できなかった。

 ヘッドホンを着けているはずなのに。綾羽の心に入り込んでいくる、理解し難い感情の渦。それが、彼女自身をも塗り替えてく。

 それが何なのか。綾羽には、どうしてもわからない。

(誰か、教えてよ。)


 今の綾羽には、まだ。

 その気持を理解することは、叶わなかった。




◆◇




 鉄の板を、何十にも重ね合わせて。その穴は塞がれようとしていた。

 場所は白銀邸。ブラックカロンが、地上に這い出る際に生じた巨大な穴は。その事情故に、”たった一人の老人”の手によって修復された。

 彼の名は”白銀正太郎しろがねしょうたろう”。綾羽の祖父にして、GR操縦者の祖とも呼ばれる人物である。

 穴の修復跡を見つめる彼のもとに、一人の男が訪れる。

「なんだ、もう大丈夫そうじゃないか。」

 その人物は、白銀正継。正太郎の息子にして、G-Forceの司令を務める男である。

 その到来を知っていたのか。正太郎は特に動くことはなく、彼方を見つめたままであった。

「大丈夫なものか。セレナにはバレたぞ。」

「ついにか。」

「いや、だいぶ前から知っていたらしい。恐ろしい話だ。」

「ふっ。流石に、お袋の目は騙せなかったか。」


 正継は仕方がないと笑いつつ、正太郎の隣に立った。


「どうだ、TTOの方は。」

 正太郎が問いかける。

「いいや、あれからログインすらしていない。」

「まぁ、そうか。」

 穴の修復跡を見つめながら、二人は話す。

「確かに、操作感は驚くほどリアルではあるが。まさか親父が、あれほど熱中しているとはな。」

「まぁ、倒したい奴がいるからな。」

「前に言っていたプレイヤーか。そんなに強いのか? この間の模擬戦でも、大して衰えているようには思えなかったが。」

 そんな正継の疑問を受けながら。正太郎は、深く目を閉じ、考える。

「……あれは、一つの答えかも知れん。」

「答えだと?」

「”人類の到達点”。」

「ほう。それはまた、大きく出たな。」

「お前も、戦ってみれば分かる。」

 正太郎は、その時のことを思い出し、拳を強く握りしめる。

「あれは、奇跡のような”強さ”を持つ。少なくとも、俺一人では太刀打ちすら出来ん。」

 ゲームの中とはいえ、それは彼の人生における、唯一の敗北の記憶だった。

「だからお前も誘ったんだぞ。」

「悪いな、親父。かたきを討ってやりたいのは山々なんだが。しばらくは、実機での訓練に集中したい。」

「なるほど。それもそうか。」


 その原因である、目の前の”穴”の修復跡を見つめる。


「逃げられたそうだな。」

「ああ。爆風に紛れたかと思ったら、あらゆるレーダーから反応が消えた。」

 あの夜のことを思い出す。

「あの、2本目の”魔剣”に搭載されていた、完全ステルス機能じゃないのか?」

「その可能性はある。ライオネルなら、10年早く、あの技術を生み出していてもおかしくはない。」

 見知った仲のように、正継はライオネルという男の名を使う。

「だが、そもそもの問題だ。」

 正継には、他にも懸念があった。

「なぜここがバレた? 俺と親父、それとお袋だけだろう、地下室の存在を知るのは。」

 それは、彼らにとっても最も重要な秘密であった。

「息子たちが生まれてからは、それこそ、数えるほどしか開けていないはずだ。」

「ああ。だから俺も困惑している。」

 正太郎は、鮮明に当時のことを思い出す。

「地下室の秘密を知るだけではなく。あまつさえ他のコレクションには目を向けず、存在しないはずの機体を奪っていった。」

「セキュリティシステムは?」

「無論、機能していた。その上で完璧に突破され、痕跡すら残していない。」

 その事実に、震える正太郎。

「ゲームに夢中になっていたとはいえ、俺を殺すことすら出来たはずだ。」

「個人か、それとも組織か。少なくとも、俺達には知る由もない、革新的な技術を持つ敵だというのは、間違いないな。」

 正継は、敵の正体を考える。

「そうでもなければ、今回の件は”辻褄の合わない事”が多すぎる。」

 正継の中には、解決しない問題が無数に渦巻いていた。

「そう、悩むな。俺たちは科学者じゃない。ただのロボット操縦屋だ。出来る事はただ一つ、”勝つこと”のみ。」

 そう言いながら、正太郎はシワだらけの自分の拳を見る。

「そうして、”今”を守ってきた。」

「あぁ。それもそうだな。」

 彼ら親子は、共に同じ景色を見てきた。

「時が経つのは、驚くほどに早い。」

 年老いた老兵は、刹那の過去を思い出す。

「――レギュラルとの戦争が終わり、5年。プリシラの反乱からは20年が経った。」

 それは彼らが駆け抜けた、熾烈な闘争の歴史。

「また、あの規模の戦いが起きると?」

「否定は出来ん。」

 正太郎は空を見上げる。

「いつだって敵は、理解の外側からやって来た。」

 姿は見えずとも。その敵の存在は、確かに感じていた。




「それで、他には何だ?」

 また、彼方を見つめながら。正太郎が問いかける。

「何だとはなんだ。」

「お前が、ただ仕事の話をするために、わざわざ会いに来るわけが無いだろう。」

「まったく、お見通しか。」

 正継は、正直に話し出す。

「”綾羽”のことだ。」

「……ああ、言っていたな。」

 その名前に、正太郎の耳は敏感に反応する。

「どうする? またここで暮らすのか? 俺は無論構わんぞ。”可愛い”孫娘だ。」

 遠い日の記憶。まだ小さかった少女のことを、正太郎は昨日のことのように思い出す。

「いいや、それは無理だな。母親すら拒絶している。」

「ならどうする? ”綾ちゃん”は一人で暮らしていけるのか?」

「クレジットカードの履歴を見るに、飯はしっかりと食べているらしい。むしろ、食べ過ぎとも言っていた。」

「……そうか。」

 色々と思うことはあるが、ひとまずは安心であった。

「それで本題なんだが。駿河が様子を見に行った時、綾羽の部屋に”Vコン”が置いてあったらしい。」


「なんだと!? それは本当か?」


 異常な食いつきを見せる正太郎。

「間違いないそうだ。」

「……これは、最後の希望だな。」

 大げさな反応を見せる正太郎であったが、正継も否定はせず。


「ああ。あの子と話す、絶大なチャンス。”共通の話題”だ。」


 その響きに、いい歳をした大人たちは震え上がる。

「あの年頃の娘は、どういうゲームをしている?」

「駿河曰く、”恋愛シミュレーションゲーム”か、”可愛い動物と触れ合うゲーム”のどちらからしい。」

「うむ。恋愛シミュレーションゲームは、流石に手が出せんな。」

「ああ。」

 彼らにも、難しい事はあった。


「というわけで俺は、『みんな大好きアニマルフレンズ』というゲームを買った。」

 そう言って、懐からゲースソフトを取り出す正継。そのパッケージには、可愛い動物たちの絵が描かれていた。


「他にも、『ワクワク体験ペットショップ』、『わんこと遊ぼうDX』というゲームも買った。」

 次々と、懐からゲームを取り出す。

「……正継、おまえ。」

「親父も、どうだ。」


 提示された選択肢は、『ワクワク体験ペットショップ』と『わんこと遊ぼうDX』の2つ。

 正太郎にはそれが、人生の重要な分岐点のようにも思えた。




「じゃあ、またな。」

 そう言って、正継は白銀邸を後にする。

「ああ、健闘を祈る。」

 色々な意味を込めて、正太郎は息子を見送った。

「当然だ。」

 正継もそれを承知で、振り返らずに手を振ってくる。

 それを見つめる正太郎の手には、『ワクワク体験ペットショップ』のパッケージが、力強く握られていた。





 夕焼け空が、世界を赤く染め上げる。それは、見ようによっては不気味に思えるが。人々は不思議なことに、夕焼け空に対して悪く思うことは少なく。むしろ情緒的で、落ち着く、心が洗われるなど、肯定的なイメージを持っている。

 それは、下校途中の女子高生にとっても、同じことであった。 

「今日は大活躍でしたね、綾羽さん。」

「そうかしら。」

 学校が終わり。綾羽と知沙は、二人っきりの帰路を歩いていた。

「サッカーは流石に驚きましたが、みんな大興奮で良かったですね。」

「……そうね。それは確かに。」

 綾羽は思い出す。やりすぎてしまった、そういう”やり方”しか知らない、愚かな自分を。けれどもクラスメイトは、そんな彼女を受け入れてくれた。むしろ、待ち焦がれた最後のピースが、ピッタリとハマったように。

「わたし、自分を”おかしな人間”、”異常な存在”だと思ってたの。まぁ、実際にそうなんだけど。」

「アハハ。それはわたしも同感です。」

 知沙も素直に言い放った。

「そんなわたしでも、あのクラスの中でなら、やっていけるかもって。ほんの少しだけ、そう思ったわ。」

「……綾羽さん。」

 初めてであった時の印象を思い出し。知沙はその変化に、心を動かされずにはいられなかった。

「だってあのクラス、変なやつ多くない?」

 要約すると、それが全てであった。

「そ、そうですね。」

 否定できない知沙。

「保健室送りになった紗那さんも、お昼休みにはピンピンしてましたし。」

「ああ。彼女も存外タフよね。”次はぜってぇ負けねぇ”って、何故かライバル認定されたわ。」

「綾羽さんの異常な威力のシュートに、”3回”も吹っ飛ばされていたのに。どうして恐怖心を刻まれないんでしょうか。」

 当事者である知沙には、まさに驚きであった。

「さぁ? ボコボコにされて負けるのが、好きなのかもしれないわね。」

「いえ。流石にうちの学校にも、そのレベルの変態はいないんじゃないでしょうか。」

「いいえ。”ここ”はそのレベルの学校だわ。」

 綾羽にもそう評される。それが、鈴蘭女学院クオリティであった。


 クゥ、と。綾羽のお腹から小さな音がなる。

「……おなか空いたわね。」

 何食わぬ顔で、そう呟く綾羽。顔は若干赤くなっていた。

「お昼、足りませんでしたか?」

「いいえ、一緒に食べてたうるさいのが、”もっと食えよ”って押し付けてきたから、いつもよりも食べたはずよ。」

 そう言いながら、お腹を抑える綾羽。

「……学校って、結構体力使うのね。」

 長らく忘れていた感覚を、綾羽は思い出していた。

「あっ、そうだ。近くにアイスクリーム屋さんがあるんですけど。一緒に寄っていきませんか?」

 笑顔で提案する知沙。

「いいわね。行きましょうか。」

 綾羽は特に迷うこと無く返答した。

 それに対して、知沙は見るからにご機嫌だった。

「やったぁ! わたし、下校の時はいつも一人だったので、誰かと一緒に行くのが夢だったんです。」

「そう。夢が叶って良かったわね。」

 小さな少女の小さな夢に、微笑ましい気持ちになる綾羽であった。


 そんな中、チリン、と。鈴の音が聞こえる。


 綾羽は振り返ること無く、その相手の到来を察知した。

「ヨハネ。貴女もアイス、食べたいの?」

 けれども猫の少女は、首を縦には振らず。

「いいや、会って欲しい人が居るニャン。」

 新たな出会いを、招き入れてきた。




「ここなの?」

「そうだニャン。」

 綾羽、知沙、ヨハネの3人は、作業真っ只中の建設現場にやって来た。

「……あれ? ここって。」

 知沙は、この建設現場に見覚えがあった。

 隣に立つ綾羽の顔は、これ以上なく不機嫌である。

「わたし、工事現場とかって、大っ嫌いなのよね。」

 そこにいる人たちが、憎いというわけではない。ただ綾羽にとって、工事現場という場所には、嫌な思い出しか存在しなかった。

「こっちだニャン。」

 ヨハネの案内に導かれて。綾羽たちは建設現場の中を進んでいく。

 すると、綾羽たちの目の前に、白い工業用ギガントレイスの姿が見えてくる。その機体は膝をついた状態で停止しており、操縦席は開けっぴろげ。操縦者であろう金髪の女性は、風に打たれながら彼方を見つめていた。

 綾羽達が近づくも。金髪の女性はそれに気づかず、おもむろに白いパイロットスーツを脱ぎだす。

「あっづい。」

 どこからかタオルを取り出すと。脇や首元など、身体の随所に付着した汗を拭い取る。

「エアコンも付いてないとか、とんだポンコツだわ。」

 上半身下着姿のまま、自身の搭乗機への不満が止まらない。

 綾羽たちは、それを黙って見つめていた。

「……なに? このエロい女は。」

 綾羽にとって、目の前の金髪の女性の姿は、刺激が強すぎるようだった。

「えっと、たしかに汗をかいているみたいですけど。そんなに、え、エロいですか?」

「……忘れなさい。」

 綾羽はすべてを否定した。

 そんな話をしていると。金髪の女性は、綾羽たちの存在に気付き。軽い足取りで、白い機体から降りてくる。

「来たのね。」

「連れてきたニャン。」

 彼女が目標の人物なのだろう。ヨハネが返答する。

「ふぅん。」

 金髪の女性は、見定めるかのような視線で、綾羽と知沙の姿を見る。

「って、どっちなわけ?」

「……わたしよ。この子はただの付き添い。」

 綾羽が声を上げる。

「ど、どうも。」

 恐る恐る、知沙が話しかける。

「えっと、覚えているか分かりませんが、この間はどうも、助けてもらってありがとうございます。」

 そう言って、深く頭を下げる知沙。

「ああ、”鉄骨”の。気にしないで頂戴。あれは単なるこっちのミスだから。」

 金髪の女性は、その時のことを思い出し。知沙に優しく答える。

「一応、自己紹介しておきましょうか。わたしの名前は”ルイズ”。そこにいるヨハネの友人よ、”一応”ね。」

 ルイズは、一応という単語を強調した。

「わたしは白銀綾羽。綾羽でいいわ。」

「わたしは、犬神知沙といいます。」

「綾羽と知沙ね。了解、覚えたわ。」

 年上のお姉さんらしく、ルイズは振る舞う。

「それで、綾羽? 貴女が、ヨハネの言っていた子。で、いいのよね?」

「多分、そうね。」

 ルイズは少し戸惑った様子で綾羽を見ている。

「ふぅん。こいつの主人だっていうから、どんな汚らしい奴が来るのかと思ったけど。」

 綾羽の顔をじっと見る。宝石のような瞳に、濡れたような唇。その容姿はあまりにも、”綺麗なお人形”のようであり。

 ルイズはただ見つめるだけで、なんだか恥ずかしい気持ちになってしまった。

「ま、まぁまぁね。」

 顔を赤くしながら、そう評した。

「失礼な女ね。」

 綾羽は言葉通り受け取ってしまう。

「まぁいいわ。ヨハネ、こいつ本当に使えるの?」

 綾羽は、目の前の金髪女の”性能”を疑問視していた。

「ギガントレイスの操縦”だけ”なら、頼りになるニャン。あと、戦力になる”機体”も持ってるニャン。」

「機体ですって? まさか、この白いやつのこと言っての?」

 工業用ギガントレイスを指し、疑問を投げかける綾羽。

「って、なわけ無いじゃない。こんなポンコツとは違うわ。」

 ルイズはすぐさま否定した。

「あっそ。まぁ、ヨハネが頼りになるっていうくらいなら、仲間に加えても構わないわよ。」

 寛容な心を持つ綾羽は、そうルイズに対して告げた。

「は、はぁ? ちょっと待ちなさいよ。」

 突っかかるルイズ。

「仲間にしてもいいですって? どうしてそんなに上から目線なのよ。そっち側から頼んできたんじゃない。」

「こっちにも、選ぶ権利があるというだけよ。足手まといの役立たずなら、正直邪魔なだけだから。」

 綾羽は決して態度を変えない。

 それに対し、ルイズの顔は引きつる。

「……訂正。やっぱ貴女、この不潔女の飼い主をやってるだけあるわ。生意気にもほどがある。」

 素で、ルイズはヨハネのことを不潔女と称した。

「いいわよ? そこまで実力を重視するというのなら、なにか勝負でもしましょう。」

「勝負ですって? 例えばどんな?」

 話の流れが変わってくる。

「えっと、そうね。……あっ、生身での模擬戦とかはどうかしら。ギガントレイスの操縦は、操縦者パイロットそのもののセンスが問われるから。」

 ルイズは自信ありげに勝負を突きつける。

「もしもわたしに、”一撃でも”クリーンヒットを当てられれば、貴女の勝ちってことにしてあげる。当然、おとなしく仲間になるわ。」

「いいわ、その条件で。」

 綾羽にとっても、それは”好都合”な話だった。

「なら、場所を変えましょうか。」

 ルイズの言葉に従い、彼女たちは移動を開始した。




 土管の置かれた空き地で、綾羽とルイズが対峙する。二人の表情は互いに余裕に満ちており、どちらとも、自分が負けるなどと微塵も考えていないようだった。

 そんな二人の様子を、知沙とヨハネは見守っていた。

 余裕なルイズが口を開く。

「そうだわ、良い忘れてたけど。わたしこれでも、昔は”レギュラル”の雇われ傭兵をやっていたの。日本侵攻部隊の、隊長も努めていたわ。」

 自信満々に話すルイズ。

 けれども綾羽は、その言葉の意味を、ほとんど理解出来ていなかった。

「ふふっ。流石に貴女みたいなお子様相手じゃ、実力差があり過ぎるから。ハンデをあげましょう。」

「ハンデ、ですって? どんな?」

「そうねぇ。例えばそう、わたしはこの場から一歩も動かず、貴女に反撃もしない。というのはどうかしら?」

「あら。そんなに譲歩していいのかしら。」

 綾羽はとても愉快そうに笑っていた。

「ふふっ、今に分かるわ。」

 ルイズは目の前の少女を、単なる世間知らずのお嬢様だと思っていた。故に、自分の身にどれだけの”危機”が迫っているのか、知る由もなく。



 二人は対峙する。


「制限時間は5分。わたしは一歩も動かないから、どこからでもかかってきなさい。」

「ええ、了解したわ。」

 ニッコリと、綾羽は笑みを浮かべる。


 その二人の間に、ヨハネが立ち。

 知沙は安全圏で見守っていた。


「よーい。」

 ヨハネが手を上げ。



「どんニャン!」

 開戦する。



「――そう言えば、わたしも言い忘れた事があったわ。」

 綾羽がつぶやく。

「実は今日ね、体育の授業でサッカーをやって、4回も点を決めたのよ。」


「……それが、何なのよ。」

 ルイズには意味が分からなかった。


「ちょっと疲れてるのよ。だから、一撃で終わらせるわ。」

 そう言って綾羽は、右の拳を強く握る。

 それは知沙の恐れる、”異常”の予兆であった。


 目にも留まらぬ速さで、ルイズの懐に飛び込む綾羽。

 どうなるのかが予想できてしまい、知沙は目を塞いだ。



――今でもわたしは、後悔しています。

――目ではなく、”耳”を塞ぐべきだったと。



 バキッ!!



 その音は、知沙の心に、深くトラウマとして刻まれる。


――記念すべき新しい仲間の、”腕が折れた”瞬間でした。





ウルスラ「何がどうして、こんなことになったんですか?」

  知沙「綾羽さんは、加減を知らないので。」


 ルイズ「うぅ。わたし保険とか入ってないのよぉ。」

   ↑包帯を巻かれている。


  綾羽「やっぱりアイスは、チョコに限るわね。」

 ヨハネ「美味いニャン!」


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