運命の夜



――待って!



 その時、確かに声が聞こえた。

 朽ちかけた耳、萎縮しきった脳、終わりかけた心が、その現実に震える。


「……聞こえた。確かに聞こえたんだ。」

 少女は自分に言い聞かせるように呟く。そうしないと、きっと自分の体は動かないと知っているから。


 薄暗い部屋。明かりの死んだ部屋で、少女は必死に何かを探していた。

 酷いガラクタの山。鉄と錆の塊と言ってもいい。そんなゴミ山の中から、少女は目的の物を探す。

 薄暗い部屋はホコリまみれで、それ以上にヒビだらけで、ボロボロの崩壊寸前だった。

 少女が何か物をどかす度に、亀裂はどんどん広がっていく。

 それ以上はいけない。そう至る寸前、少女は目的の物を見つけた。

 ホコリだらけ、配線だらけのヘッドギアだった。

 少女にとってそれは、あまり思い出の良い代物では無かった。その役立たず具合に絶望し、放り投げた痕跡が残っている程度には。

 けれども今の少女には、それは何よりも輝く希望に他ならなかった。


 少女はヘッドギアを頭に装着すると、電源に光を灯し、天を仰いだ。


「誰か、誰か聞こえますか!?」

 それは、少女が誰かに対して放つ、久方ぶりの声だった。


「わたしはここに居ます。ここに居るんです。」

 懸命な声だった。神にすがる原初の民。聖書に記される群衆のような、喉を引き裂くような声。


「だから、もし聞こえているのであれば、返事をしてください。」

 天を仰ぐ、一人の少女。

 そこに天などない。崩れそうな天井が、まだそこに居てくれるだけ。


「誰か、誰か。」

 久方ぶりに大きな声を出し、少し苦しくなってしまう。


 そんな彼女に、救いの糸は垂らされる。


――うるさいわよ、貴女。


 相手は、少女の声だった。退屈そうで、冷たそうで、どこか悲しげな、少女の声だった。


 その事実に、少女”ウルスラ”の脳は覚醒した。


「聞こえますか? 聞こえるんですか?」

 返事があったことに興奮が隠せず、ウルスラは喜びの声を上げる。


――聞こえてるわ。だから黙ってちょうだい。

 相手の声はウルスラの喜びなど知らず、冷たいまま。


「よかった。よかったです。」

 胸を抑えるウルスラ。喜びも何もかも、溢れてしまいそうで。必死に鼓動を抑えた。


「人と会話するのは十五年ぶりなので、とても緊張してしまって」


――そう。


 感情の溢れて止まないウルスラと、対してとても静かな相手の声。


「わたしの名はウルスラと言います。以前は、天ノ梅市てんのうめしの地下1000mに位置する研究所で、ライオネル博士の助手をしていました。」

 言葉を練るのは久しぶりだった。けれどもウルスラは、正確にそれを伝え切る。

「しかし、ある時原因不明の事故が発生し、研究所は崩落。わたし以外の存在は姿形も無くなってしまい、それ以降15年以上に渡って地下に閉じ込められているんです。」


――そう。それは大変ね。

 相手の声色は、むしろ恐ろしいほどに変わらなかった。


「はい、そうなんです。ですので、ぜひ貴女には、わたしの救助を依頼したいんです。」

 ウルスラは何も気にすること無く、少女に要望を伝え切った。


――地下、1000mって言ったかしら。仮に貴女の正確な居場所がわかったとして、救助までには時間がかかるんじゃないかしら。

 相手の声は、酷く冷めきった様子で、現実を言い並べていった。

――使えそうな通路とかがあるなら別だけど。そもそも、食料とかはまだ保つの?


「……いいえ、実は。」

 ウルスラは、震える声で現実を伝える。


「通路のようなものは存在しません。以前は地上との行き来を可能にするシステムがあったのですが、研究所の崩落に巻き込まれてしまい。」


 ウルスラの指先が震え。

 それが徐々に、全身へと伝わっていく。


「食料は、一週間ほど前に尽きてしまい、もう備蓄はありません。なので、わたし、今ちょっとおかしくて。今会話しているのも、本当の声なのか、実在する声なのか、それともただの妄想なのか、分かんなくて。」


 小さな、乾ききった笑い声が、ウルスラの口から漏れる。


「もし、よろしければ。名前を教えてくれませんか。」


 小さく、それでも明確に、ウルスラは相手の声に尋ねた。

 相手の声は、それに対して少し悩み、沈黙し、けれども口を開いた。


――綾羽よ。


「綾羽さん、ですか。想像も付かない名前です。わたしでは考えつかないような。」

 ウルスラは歓喜に震えた。自分は壊れていない。今話している相手は、本当に自分の意識の外に存在しているのだと。


――ねぇ、貴女。


「はい、なんでしょう。」


――貴女、地下1000mにいるのよね? それがどうして、わたしの頭に声が、もとい会話ができるのかしら。


「それ、は……」

 ウルスラはふと考え、けれどもすぐに結論に達した。


「それはきっと、わたしの開発したヘッドギアの機能だと思います。以前、どうにか地上とコンタクトが取れないかと思い、思念を増幅させるヘッドギアを開発したんです。今それを付けています。」


――そう。


「ですけど、どうして綾羽さんの声がこっちに届くのかは不明です。先程聞こえた、”待って”、という言葉が、切っ掛けな気はしますが。」


――そう。そういう、ことね。


 どこか、腑に落ちた様子の声。自分の残酷さに、気づいてしまったようでもあった。


――話を整理するわ。貴女の居る地下研究所は孤立無援状態かつ崩落寸前で、備蓄してあった食料も尽きてる。おまけに貴女の正気も尽きかけてる。

 相手の声は、ひどく淡々としていた。


――だから地上に戻る手助けをしてほしい、というわけね。


「はい、その通りです。」

 ウルスラの声は明るかった。


――地下1000mなら、どう足掻こうと時間がかかるわ。それまで貴女が保つ、保証はない。

 その声は消え入りそうで、潰れてしまいそうだった。


――ごめんなさい。どうやら、下手な希望を与えてしまったようね。

 それは白銀綾羽による、明確な謝罪の言葉だった。



「いいえ、いいえ!」

 けれどもウルスラは、相手の言葉を強く否定する。

「聞いてください。不可能を可能にする、夢のテクノロジーが存在するんです。それがあれば、わたしが地上に戻ることも、貴女の望みを叶えることすらできるんです。」


 貴女の望み、という単語が、癇に障った。


「だから――」


――黙りなさい。


 それは、明確な拒絶の言葉だった。


――もうたくさんよ。これ以上、わたしの中に入ってこないで。


「待ってください、綾羽さん! わたしの話を聞いてください。」


――いいえ。きっと、おかしくなっているのは、貴女もわたしも同じね。

 その一言を最後とし、相手の声は途切れた。


 ウルスラの耳には、何も聞こえなくなった。


 どれだけ叫んでも、謝っても、願っても、向こうから返事が来ることはなく。


 再び深淵に、沈黙が戻った。





 白銀綾羽は、自室のベッドにうずくまっていた。

 真っ暗な部屋で明かりも付けず、古ぼけた時計の針の音だけが、部屋の中にこだまする。そんな、どうしようもない部屋で。

 耳を塞ぎ、深く瞳を閉ざす。否定したいのは現実のすべて。

 綾羽の身体は、震えていた。

 H2-21という大切な存在を失った、初めての喪失感に、虚無感。それだけでは片付けられない、大きな感情の渦が蠢いていた。


 そして、先程まで耳元で響いていた、亡霊の叫び声。


 いや、まだ亡霊ではない。あの声の主は、まだ間違いなく生きている。

 けれども綾羽は、彼女を生かす手段も、希望も与えることができず。それを果たそうとする感情すら、存在しなかった。

 故に綾羽は震える。自分が知った喪失感、自分が与えてしまった絶望感に。

 H2-21は取り戻さなければ。あの地下の少女も、誰かが手を差し伸べなければ。

 けれども、どこまで考えても、不可能という文字が消えることは無い。


 チリン、と。鈴の音が聞こえた。


 綾羽の震えが、止まる。

 綾羽は理解した。ヨハネが来たのだと。自分が面倒を見ているあの野良猫が、この部屋にやって来たのだと。

 けれども綾羽は、動けなかった。動くだけの余裕が、その心と身体には無かった。

「……随分と、面倒な時に来たのね、アナタ。」

 綾羽の声を入室の許可と捉えたのか、部屋へと入ってくる野良猫ヨハネ。

「にゃん。」

 ヨハネは優しく、思いやるよう声で鳴いた。

「そう。……だとして、何のようなの? いつもみたいに、お風呂で洗ってあげる気分じゃないわ。」


「にゃーん。」


「……はぁ? アナタ、正気?」

 ヨハネの提案に、綾羽は思わず起き上がった。




 白銀家のお風呂は、格式を感じさせる木造建設のお風呂だった。

 例えるならば小さな温泉か。閉ざされた空間には熱がこもり、暖かな木の香りと、人に安らぎを与える不思議な空気が満ちていた。


「このお風呂も、手入れがとても大変らしいわ。」


「にゃん?」

「アナタ、お風呂掃除とか、出来る?」

「にゃん!」

「で、しょうね。想像するだけでも憂鬱だわ。」


 幻想のように泡立てられた、黒く長い髪。かぐや姫のそれとも錯覚する綾羽の髪の毛を洗うのは、彼女本人ではなく。その話し相手の野良猫だった。


「にゃん?」

「無いわ。強いて言うなら気持ちが悪い。」


「にゃーん?」

「……うっさい。」


 小さく縮こまりながら、綾羽は声を漏らす。

「――みんな嫌いよ。こんな世界、大っ嫌い。」


「……にゃん?」

「わたしに対して、優しくないのよ。」


 綾羽はうつむき、身体は小刻みに震えている。

「にゃ~ん。」

 ヨハネは何も変わらず、優しい手付きで髪を洗う。

「……そうよね。それくらい、きっとアナタのほうがよく知ってるわよね。」


「にゃん。」

「……どういう、意味?」


「にゃーん。」

 人を知り、世界を知り。かつて宙を知った猫の言葉は、不思議と綾羽の心に染み込んでいく。


「にゃ~ん。」

 ただ、ヨハネは主人の事を思うだけ。

 今日、何があったのかは何も知らない。昨日のことも、よく覚えてはいない。


 ただ綾羽は、黙って髪の毛を洗われる。


「にゃん!」

 それは純粋な告白だった。

 綾羽を思う、愛の言葉。


――だから、泣かないで。


「なっ。」

 突然指摘され、目元を拭う綾羽。

「泣いてなんか。泣いて、なんか。」



 美しく無敵な綾羽でも、自分の涙だけは止めようがなかった。



――ええ、知ってた。この世界が、どうしようもなく残酷だってことは。

――度し難いほどの悪意と、甘ったるい嘘で形作られていることも。

――そしてそんな世界に、わたしの居場所なんて無いってこと。


 それ故、綾羽は耳を塞ぎ、深く目を閉じた。

 自分から手を伸ばすという行為。求めるという行為。人として当たり前の行為を、綾羽はしてこなかった。


「――こんな駄目猫に励まされて、ようやく気付けるなんて。」


 手桶を手に取り、お湯をすくい。自らの身体を洗い流す綾羽。

 まだまだ洗う予定だったヨハネは、思わず停止してしまった。


「もういいわ、下手くそ。」


 冷たく言い放つ綾羽。

 けれどもその表情は、それまで見せたことが無いほど、優しげだった。


「今日もわたしが洗ってあげる。」

 そう言うと綾羽は、ヨハネの手から泡々のスポンジを奪取し、自分の手で握りしめた。


「それと、今日からしばらく、ご飯あげられないわ。」

 その言葉に、戦慄するヨハネ。

「エイチツーがどうしてたのか、わたし知らないもの。」

 それは、綾羽なりの謝罪の言葉だった。


「だから少し、我慢してちょうだい。絶対、取り戻してみせるから。」





「ええ、そうね。」


 綾羽の母親、白銀駿河しろがねするがは電話の相手との会話に夢中になっていた。

 その顔は真剣そのもの。綾羽を抱き締めていた時の優しい表情が母の顔なら、これもベクトルこそ違えど同じ母の顔だった。


「どうして、気づいてあげられなかったのかしら。密猟者の被害は、何ヶ月も前からあったのよ。でもあの子は、私達に何の相談もしなかった。」


 駿河が憂うのは、綾羽の行動。そして、その原因たる自分”たち”の存在。


「昔から相変わらず、信用されてないのね。」


 自分たちの情けなさに、思わずため息が漏れる。

 それほどまでに、白銀家という家族は、問題にまみれていた。


「……それは、きっと無理ね。”セッシー”は代替機を用意するって言ってるわ。あの子は、拒否するでしょうけど。」


 擦れ違ってばかりの親子ではあるが。彼女も彼女なりに、綾羽という娘の事を理解しようとしていた。


「ええ。しばらく仕事を休んで、あの子の世話をしようと思うの。」


 その理解の向こう側で、娘が変化を遂げようとしている事には気付かずに。


「……貴方ほどじゃないわ。じゃあ、またね。」


 話し相手との変わらぬ絆を確かめ、駿河は通話を終えた。

 すぐに、顔を上げられるような心境ではなかった。


 チリンと、鈴の音が鳴る。


 駿河が顔を上げると、そこには風呂上がりのせいか、どこか湿った様子の娘、綾羽が立っていた。

 正面から娘と向かい合うのは、本当に久しぶりだった。いつの間にか大人びて、知らない誰かのようになっていく。

(……綺麗に、なったわね。)

 相変わらず、すれ違うだけの関係だと、駿河は思う。綾羽の耳にはヘッドホン。思えば”あれ”を付け始めたのが、決定的なズレの始まりかも知れない。


「お風呂、あがったのね。」


 気軽に話しかける駿河。

 対する綾羽は、黙って無口に、そこに立ち続けるのみ。

 駿河は知っている。ヘッドホン越しでも、声は聞こえていることを。


「しばらくね、お仕事休めそうなのよ。だからエイチツーの代わりが届くまで、ここで一緒に暮らさないかなって。」

 その声は、綾羽にも届いている。


「どうかしら?」

 けれど、心にまでは届かない。


「……ありがとう、来てくれて。それは本当に嬉しかった。」

 優しく落ち着いた綾羽の声。

「だったら。」

 駿河の期待も膨らんだ。


「でも、しばらく一人にして欲しいの。」

 対する娘の答えは、拒絶だった。


「でも、それじゃあ。」

「わかってるわ。このままじゃダメだってことは。」

 綾羽はそっと目を閉じ、胸に手を置いた。

 自分は大丈夫。変わろうとしている。それを相手に認識させるために。


「だからしばらく、一人で考えさせて欲しいの。」


「綾羽ちゃん……」

 駿河は儚げに笑う娘の表情に、言葉を詰まらせる。


「大丈夫。わたしは、大丈夫だから。」





 過ぎ去ってく母親の車を、綾羽は笑顔で送った。

 気持ちは嬉しい。それは本心である。どんな残酷な嘘つきの言葉であろうと、綾羽は嬉しいと思っていた。


 しかしその優しさは、今のわたしには必要ない。

 わたしは必ずエイチツーを取り戻す。

 行方は分からないし、取り戻す手立ても無い。どう考えたって不可能。


――不可能を可能にする、夢のテクノロジーがあるんです!


「運命、なのかしら。」

 一人つぶやく綾羽。

 それに応える声は存在しない。

 それ故に、他人に垂らした蜘蛛の糸にすら、すがるしかない。


「ウルスラ、聞こえるかしら! 助けてあげるわ。」

 一度振りほどいた相手だからか、恥とも思う。

「だから教えて! 夢のテクノロジーって何なの!?」

 けれども天にすがるように、綾羽は心の底から叫んだ。



 しばらく、沈黙が続き。

 もう動くことのない、そう思われた時計であったが。


――綾羽さん。一つ、調べて欲しいことがあります。


 またゆっくりと、動き出した。





「あったわ! 16年前の事件。」


 スマホで懸命に調べ物をしていた綾羽は、ようやく発見した検索結果に、大きく声を上げた。


――詳しく、教えて下さい。


 ウルスラの頼みもあり、綾羽はその”事件”のことを読み上げ始めた。


【天ノ梅事件】

 16年前、天ノ梅市で起きたギガントレイスの暴走事件。

 正体不明の漆黒のギガントレイスが天ノ梅の市街地に突如出現し、暴走を開始。駆けつけた自衛隊のGR部隊や、ICPOの特殊部隊と交戦した。

 最終的にICPOの特殊部隊を指揮していた白銀正継しろがねまさつぐ氏の活躍により、暴走するギガントレイスは停止、破壊された。その際に、操縦者は死亡したとされている。

 戦闘は激化し、街に甚大な被害を与えたものの、奇跡的に犠牲者は少なく。この事件による死亡者は暴走したギガントレイスの操縦者以外、確認されていない。

 また、暴走したギガントレイスの開発者と目される科学者ライオネル・ヴァーニー氏の身柄を確保済みであり、余罪を追求――


「――って、貴女が助手をしていたっていう博士、捕まってるじゃない。」


――今は、どこで何をしていますか?


「この事件以降の情報が、不思議と無いわね。わたしじゃ調べ切れないかも。」


――そう、ですか。


「八方塞がりね。もし貴女の言う例のテクノロジーが実在していたとして、搭載していたギガントレイスはぶっ壊され、開発者も行方不明。」

 まるで死刑宣告をしているようだと、綾羽は思った。


「残念だけど。地下1000mにいる貴女を早急に救う手立ては……」


 当時の写真を、綾羽は見ていた。

 崩壊する街並みに、壊れた自衛隊のギガントレイス。悲惨な事件だと、ただそう思った。

(わたしが生まれる少し前の事件かしら。)

 古い写真を眺めて、眺めて。

 恐らくは唯一であろう、暴走するギガントレイスを捉えた写真に目が止まる。

(これが、例のギガントレイス。)

 真っ黒な機体に、シルエットでしか判断できないが、二本の角のようなパーツ。


(……ん?)

 綾羽には、どこか見覚えがあった。


 ふと、事件の一文が呼び起こされる。

 特殊部隊を指揮していた白銀正継氏の活躍により――


 綾羽の記憶が、呼び起こされる。

 それはいつか、実家の地下室で見た風景。

 内緒の地下室、秘密の地下室。父と祖父しか出入り出来ない地下室。

 一度だけ、そこに忍び込んだわたし。



 そこで、”彼女”と目があった。



「ねえ、ウルスラ。確証はないんだけど、このギガントレイス、まだ残ってるかも知れないわ。」


――その根拠は?


「実家の地下室でね、なんか似たような子を見た気がするのよ。」


――ッ、そんな! いい加減な理由で!

 思わず、感情が漏れ出すウルスラ。


 しかし綾羽は、落ち着いて瞳を閉じた。

「……可能性は、無くはないわ。」


 それは不本意ながら、紛れもない事実なのだから。


「だって、この記事に乗ってる、事件を解決した│GR操縦者ギアパイロット、”白銀正継”って、わたしの父親だから。」





「……はぁ、はぁ。さ、流石に疲れたわね。」


 息を切らした様子で、胸を抑え。綾羽は付近の電柱にもたれ掛かっていた。

 その視線の先にあるのは、田舎にポツンと建った一軒家にして、綾羽の実家”白銀邸”であった。

 丘の上に立つ白銀邸は、立地的には孤立していた。広大な面積を誇る豪邸ではあるものの、比較対象となる隣人は存在せず。

 それ故に綾羽は、以前まで”何とか我慢して”、この家で暮らしていた。


――徒歩で30分とは、実家が近くで助かりましたね。


「ええ。ほんの40キロ程度とはいえ、走って行くのは大変だったけど。」


――えっ、40キロって。


「気にしないでちょうだい。車で来ても良かったけど、仮にギガントレイスを動かすなら、痕跡なんて残せないもの。」


――いいえ、そういう問題ではなく。


「とりあえず、忍び込むわ。」



 有無を言わさず、綾羽は動き出した。




 闇に紛れ、影に紛れ。

 音一つ建てずに、綾羽は白銀邸の敷地内を進んでいく。


――綾羽さんが、正継氏の娘さんならば、正直に話した方が良いのでは? 彼のことはわたしも知っています。話の通じない方では無い筈ですが。


「もし、例のテクノロジーが実用に足る代物なら、わたしは奪われた物を取り返すために使うわ。」


――それは……


「ええ、確実に犯罪行為。うちの家と犯罪行為って、相性最悪なのよね。」


――確かに、ですね。

 ウルスラは何も言えなかった。



 白銀邸のセキュリティは強固で、トラップだらけである。

(たまにお祖母様が引っ掛かってたから、間違い無いわ。)

 しかし綾羽は、それを問題と捉えていなかった。

 ウルスラと会話するためにも、今の綾羽はヘッドホンを装着していない。所持すらしていない。

 それ故に、全てを把握していた。


 壁に手を当て、建物全体の音を認識する。

 案の定、音の出どころは少なかった。

 父親と母親は、おそらく仕事で帰ってこない。弟は学生寮で暮らしているため、家には寄り付かない。

(お祖母様は恐らく就寝中。なら、お祖父様は?)

 音の出どころを探りながら、ゆっくりと家の中を進む綾羽。

 慎重な足取りのまま辿り着いたのは、リビングルーム。

 ゆっくりと顔を出した綾羽は、目を見開いて驚いた。


 そこでは一人の老人が、ソファにゆったりと座ったまま、頭部にヘッドギアを装着していた。

 綾羽が所持しているそれと、同種のヘッドギアである。

(流石はお祖父様、Vコンじゃない!)

 祖父が自分と同じゲーム機を所持していることに、妙な興奮を覚える綾羽であった。

(何をプレイしているのかは正直気になるけど、これは好都合ね。)

 綾羽は内心ほくそ笑む。

 これなら多少無茶をしても、祖父にはバレないからである。


 唯一危惧していたのは、その立地である。

(お願いだから、気づかないでちょうだい。)

 綾羽はゆっくりとした足取りでリビングに忍び込むと、地面に敷かれていたカーペットを、慎重な手付きで引き剥がした。

 するとそこには、厳重としか言いようのない分厚い金属製の扉が存在した。

(やっぱりここが、地下への秘密の入り口。)

 綾羽は祖父に警戒しながら、その分厚い金属の扉を難なく開き、中へと入っていった。

 VRゲームに夢中な祖父は、気づきようもなかった。




 バチン、と。通電する大きな音が鳴り。

 その広大な地下室、数々のコレクションに対して、明かりが灯された。

 そこに存在したのは、白銀家の過去とも言うべき遺物たち。

 流石の綾羽も、そのコレクションの数には息を呑んだ。

「驚いた、わね。」

 思わず声に漏れてしまう。

 まず目に入るのは、巨大な金属の塊、つまりはギガントレイスの残骸である。

 探している例の機体ではない。だとしても、明らかに数十機は存在する巨人たちの亡骸に、綾羽の目は奪われる。

(ギガントレイス。いいえ、そう呼ばれる以前の骨董品すら置いてある。)

 ゲームでの知識があるため、綾羽にはそれらの機体の活躍した年代等が理解出来た。

(今まで倒したロボットを記念に残してる、とか?)

 そんな突拍子も無い想像を、綾羽はしてしまう。

(なにはともあれ、これがお父様たちの秘密ってわけね。)

 自分の家族がしている、おそらくは違法なコレクションの数々。

 その存在が、これから犯罪行為に走ろうとしている綾羽の心を、少なからず軽くしていた。


 目的のギガントレイスを探すため、コレクションを見て回る綾羽。

 その足取りは、不思議と軽かった。


 ふと、綾羽の目が止まる。

 そこには、一台の自動車が置かれていた。恐らくは綾羽が生まれるずっと前に製造された、レトロな自動車であった。

 そんな自動車に、綾羽は不思議と惹きつけられる。

(この高級車、良いわね。)

 思わず手が触れそうになり、証拠を残さないようにと思いとどまる。

(こんな趣味のいい車持ってたのね。)

 名残惜しく思いつつも、綾羽は先を急いだ。



 ギガントレイスは、何機も保管されていた。その中には、まだ動きそうな機体も何機か存在したが、目的のものではないため綾羽はスルーした。

(これも違う。第2世代以前の代物ね。)

 見当違いのコレクションが多すぎて、綾羽にも疲労の色が見えていた。


 そして、それを見つけてしまう。

 煩雑に散らばったコンピュータや、配線、電子回路等の残骸がそこにはあった。

 鉄くずや、ロボットの破片。そこで、何かが暴れたような痕跡。

(いいえ。これは、”もがいて”いた?)

 それを、あまり直視しないように、綾羽は先を急ぐ。

(――きもちわるい。)




 そうして、初めから導かれていたように、綾羽はそこへ辿り着いた。

 綾羽の目の前に鎮座するのは、布を被されたギガントレイス。

 その布を、綾羽は思いっ切り引き剥がした。


 黒い、錆び付いた巨神が、そこに居た。

 角を模した頭部のアンテナの片方が欠け、細部に錆などの劣化は見られるものの。その機体は、ほぼ”無傷”。

 もしこの機体が、例の天ノ梅事件を引き起こした機体だとすれば、一体どれだけの嘘が明るみに出るのだろうか。


「……久しぶりね。」

 けれども綾羽の口からは、そんな言葉が溢れ出るのみ。


――綾羽さん。進捗はどうですか?


 それまでの沈黙を破り、ウルスラが綾羽に問い掛ける。


「見つけたわ、例のギガントレイス。」


 綾羽は、もはや確信を得たとばかりに、ウルスラに応えた。


「まぁ、とりあえず他に無さそうだから、動くか試してみるわ。」

 そう言って、綾羽が機体に触れると。

 勝手に機体が通電し、機体の胸部、操縦席が開かれる。

「あら? 気が利くじゃない、貴女。」

 その不思議な出来事に、綾羽は動じるどころか、むしろ当然とばかりに微笑む。


 意気揚々と、機体に乗り込み。

 適当に周囲をいじくってみる綾羽。

「頼むから、動いてちょうだいな。」


 鋭い電気が、綾羽の身体に迸る。

「痛っ。」


『DNA認証完了。”ブラックカロン”、起動します。』


 優しい女性の声が、機体内部に響き渡る。

 痛みのせいか、綾羽の片目より涙がこぼれ落ちる。


『QHシステム、正常に稼働。新規操縦者様、お名前を登録してください。』


「……綾羽。」


『綾羽様、ですね。本日はよろしくお願いします。』


「ええ。よろしく。」


 次々と進んでいく物事に、綾羽も呆気にとられる。


(ゲームじゃない、本物のギガントレイスに乗るのは初めてだけど、こういう感じなのね。)


 機体内部の静寂は、ゲームの中の世界とは少し違っていた。

 メルトリアクターの駆動音は予想以上に力強く、妙に頭に響く。

 ほのかな振動は感じるものの、不思議と不快ではない。


「……ねぇ貴女、名前は?」


『機体名は”ブラックカロン”です。』


「それはさっき聞いたわ。」

 綾羽の瞳は、声の相手を正確に捉えている。


「今、わたしと会話してる、貴女の名前よ。もしかして、無いの?」


『わたしは、機体の制御とQHシステムの運用を行う人工知能です。固有名称はありません。』


「そう、ねぇ。」


 綾羽は少し、悩むも。

 まるで以前より考えていたように、その名を口にする。


「じゃあ、”ピノ”っていうのはどう? かわいくないかしら。」


『……綾羽様が、そうおっしゃるのであれば。異論はありません。』


「おっけー。じゃあ、貴女はこれからピノってことで。」


 綾羽の表情から、遊びが消え。

 瞳は前を見据える。


「ピノ、”テレポート装置”を起動しなさい。目的地はライオネル博士の地下研究所。行けるわね?」


『了解しました。QHシステム起動。長距離テレポートに必要な演算を開始します。』


 ブラックカロンが、鼓動を始める。

 これより始まるのは、未知なるシステムによる、奇跡の発現。

 その現実に、綾羽も緊張を隠せない。


『演算、完了。』


 息を呑む。


『目的地到達の可能性=”0%”。』

『さあ、いかがいたしましょう?』


「――なんですって?」




◆◇




 白銀邸地下。数多くのコレクションの中にて。

 錆びつきながらも、16年の時を経て蘇った黒き巨神”ブラックカロン”。かつて、天ノ梅の街を破壊し、自衛隊やICPOに甚大な被害を与えた”悪魔”が。


 頭を抱えていた。


 その、操縦席内にて。

 白銀綾羽はブラックカロンと全く同じような仕草で頭を抱えていた。


「……つまり、地下研究所にテレポートするには、その同一座標、いわゆる”真上”に向かう必要があるってことね。」


『その通りです、綾羽様。』


「ねぇ貴女、地下研究所の正確な場所、住所って知っているの?」


『申し訳ありません、綾羽様。以前の稼働の際に、何らかのトラブルがあったようで。データベースに破損が見られます。』


「ちょっと貴女、正気なの? それでよくも、まぁ平然とテレポートしようと思ったわね。」

 この機体のポンコツAIに対し、綾羽は呆れていた。


「まぁいいわ。……ウルスラ! 聞こえる? 頭部アンテナだか空間センサーだかが壊れてるとかで、そこの研究所の真上に行かなきゃいけないのよ。」

 面倒くさそうに、彼方の声に向かって語りかける綾羽。

「そこの正確な住所とか、あと地下何メートルにあるのかって、貴女知ってる?」


――はい、勿論知っています。

 ウルスラは問題無いといった様子で語りかけてくる。


「ならいいんだけど。」

 面倒くさそうに頬杖をつく綾羽。


(……てゆうかそこ、いま何があるのよ。)

 そう、なんとなく考えるのであった。





 天ノ梅市、市街地中心部。

 かつて、街に甚大な被害を与えた、”天ノ梅事件”の発生地。そこからほど近い場所にある、巨大な建造物の内部にて。

――G-Forceジーフォース、天ノ梅司令本部。

 そこは、日本全土におけるギガントレイス絡みの事件を担当する特殊部隊、”G-Force”。その全てを統括する場所であった。

 日本の各地に点在する支部と連携し、国家最高峰の技量を誇るGR操縦者ギアパイロットを有する、文字通り日本防衛の要とも言える司令所。


 その機能は現在、完全に停止していた。


「いやぁ、疲れた疲れた。」

 その司令所に、一人の若い男がやってくる。キッチリとセットされた髪型が特徴的な、ハンサムな優男であった。


光葉みつばくん、お疲れ様。まだ残ってたのね。」

 光葉と呼ばれた優男に話しかけたのは、彼と同い年ほどの年若い女性であった。髪は長く、メガネを掛けており、真面目な印象の女性である。

 二人は似通ったデザインの服装をしており、同業の者であることは明らかであった。


「全くだよ、こんな時間まで残業するなんて。愚かの極みと言っていい。」

 光葉は皮肉げに話すと、彼の持ち場であろう椅子へと腰掛ける。


鶴ヶ谷つるがやさんみたいに、さっさと帰っても良かったんじゃない? 技術部だって居るし、星梨せいなさんだって残ってるんでしょう?」


「まーね。……けどまぁ、一応元天才少年として、ここのメインシステム構築に協力した実績があるんでね。」

 得意げに話す光葉。

「ある意味、僕以上にここの仕組みに詳しい奴なんて居ないのさ。」


「ああ、そういえば光葉くん、そんな設定だったわね。」

「設定って。……相変わらず、古川こがわさんは口が悪い。」


 古川と呼ばれた眼鏡の女性は、光葉のあしらい方を熟知していた。


「ユリアさんも、何とか言ってくださいよ。」

 そう話す、光葉の視線の先。


「昔のことは忘れて欲しいと、前に言っていなかったか?」

 銀髪の長髪が特徴的な美女が、穏やかそうな声でそう話す。

 年齢も階級も、恐らく他の二人より上なのだろう。どこか余裕に満ちた佇まいであった。


「あれれ? 昔の僕、そんなに生意気でした?」

「ああ。今と変わらない程度には、生意気だったよ。」


 コーヒーを口へ運ぶユリア。

 彼女と光葉は年齢こそ違えど、それなりに軽口の交わせる間柄であった。


「それで、原因は分かったのか? 天才少年くん。」


「ええ、一応。でなきゃ解放されませんよ。」

 わざとらしく手を動かす光葉。


「……MRレーダーの故障、ってとこですかね。」


「MRレーダーの故障? それだけ? たったそれだけで、このG-Force本部全体のシステムが落ちたってこと?」

 驚いた様子の古川。


「まぁ、そのMRレーダーっていうのが曲者でね。仕組み上、コアユニットにメルトリウムが組み込まれてるんだけど、それがものの見事に”爆発”しててね。」

 爆発、という言葉を光葉は強調した。

「汚染だよ、汚染。大汚染。大量のメルト粒子が溢れ出て、それがコンピュータ全体の動きを阻害してた。」

「まぁ星梨さん曰く、人体に有害なレベルじゃないって話だけど。完全除去しなきゃ、システムは復旧不可能。代わりのメルトリウムは、もう準備できてるらしいけどね。」


「専門知識が無いゆえ、分からないんだが。メルトリウムの爆発など、これまで生きてきて聞いたことがないな。」

「僕も初めてですよ。」

 ユリアの疑問に光葉が答える。


「まぁ、MRレーダーはいわゆる計測器。”何なんだ、このとてつもない数値は”。という感じで、ぶっ壊れたのかもしれませんね。」

「とてつもない数値、か。一体何を計測したら、そんな反応になるんだ?」


「さぁ、あいにく。検討も付きませんね。」





「まぁ、何でも良いわ。」

 スマホを通して、地下研究所の頭上に何があるのか調べていた綾羽は、結局の所そういう結論になった。


「とりあえずは地上に出ないとだけど。」

 綾羽は、恐らくは鋼鉄であろう天井を眺める。


「テレポートの試し打ち、してみましょうか。」


『と、言いますと?』


「上にちょっとテレポートするのよ。そうすれば、楽に地上に出られるでしょう?」

 そう、気楽に提案する綾羽だが。


――待ってください綾羽さん。テレポートは、最後の最後まで取っておいてください。

 ウルスラの強い意志により、ストップがかかる。


「どうして? そんなにエネルギーをつかうの?」


――いいえ、そうでは無く。ブラックカロンに搭載されたテレポート装置は、小型化のために多少機能が低下してまして。

 申し訳無さそうに話すウルスラ。

――100%完璧な状態で、対象物を転移させられるわけではないんです。


「それってつまり、どうなるの?」


――精密機械は誤作動を起こし、人間に対しては猛烈な違和感、吐き気を催す程度には、雑に転移されます。


「……とんだ欠陥製品じゃない。」


――あ、あくまで地上との行き来が出来ればそれでいいんです。ポンポン気軽に飛び回れるような、そんな便利な装置では無いんです。


「それは、困ったわね。」

 再び頭を抱える綾羽。


『先程から綾羽様は、いったい誰と話をしているのですか? 携帯電話、でしょうか』


「ああ、違うわ。ちょっと説明が難しいんだけど。地下研究所に閉じ込められてるウルスラっていうのと、頭の中で会話ができるのよ。」

 ピノの疑問に答える綾羽。


「そういえばピノ。この機体、武装は何か積んでるの?」


『両腕に一つずつ搭載されています。右腕にはヒートレイ、左腕には試作型のビームソードがあります。』


「ヒートレイに、ビームソードですって? 過去と未来のテクノロジーとは、本当に滅茶苦茶な機体ね。」

 ブラックカロンという機体の特殊性を、改めて実感する綾羽であった。


「まぁ、何でも良いわ。とりあえず地上に出る程度なら、どうにかなりそうね。」

 綾羽の心が、決まる。


「行くわよ。」

 その、少女の小さな声に呼応するように。


 錆び付いた黒き巨神が、重い腰を上げる。

 16年のブランクがあろうと、その鉄壁の装甲と、鋼の筋肉は衰えず。

 角の折れた悪魔は、その輝く瞳で天井を睨んだ。




 白銀邸、リビングルームにて。

 ヘッドセットを頭部に付け、VRに夢中になる老人が一人。

 気の張り詰める体験をしているのか、その老体には力が入り、汗がにじんでいた。


「……さ、流石にやるな。」

 ソファに腰掛けた恰好ながら。その空間はまるで、ギガントレイスの操縦席内のような緊張に包まれていた。


――しかし現実は、その空間を容易くブチ破る。


 地面から、突き上げるような重い衝撃を感じ。邸宅全体が激しく揺れる。


「なっ、なに?」

 その衝撃に、ヘッドセットが外れてしまい。現実へと強制的に帰される。

 老人は年齢を感じさせない機敏な動きで、庭へと繋がるガラス扉、そのカーテンを開いた。


 固まる老人。

 庭が、燃えていた。いいや、燃えると言うよりも、融解と言ったほうが正しいのかも知れない。

 内側から盛り上がったような巨大な穴が空き、そこから強烈な熱線が漏れ出ていた。


 やがて、熱線が止み。

 何かが蠢くような地響きが、やって来る。


 穴から現れたのは、巨大な腕。

 そしてゆっくりと、堂々と恐ろしくも、その巨大は這い出てきた。


 高熱で溶け落ちた地面など、まるで物ともせず。

 地獄から蘇った”悪魔”のように、黒く威圧的な巨体を晒す。



――ブラックカロンが、地上へと姿を現した。


 

「……あの悪魔が、地下室から這い出てくるとは。」

 老人は冷静に、目の前の現実と対峙していた。


 ゆっくりと、手に持っていたヘッドセットを口元に近づける。


「聞こえているか、正継。」





 G-Force、天ノ梅司令本部。


――システム、再起動します。


 司令本部全域に、システムの復帰を知らせるアナウンスが鳴り渡る。


「なにはともあれ、無事に終わって良かったですね。」

 古川が安心の声を漏らす。


「そうだな。光葉、明日は休みでも構わんぞ。」

「それは嬉しいですね。」


 安心し切った様子の、司令所メンバーたち。

 しかし、それは容易く崩れ落ちる。


――響き渡る警告音。


 司令所内の空気が、一瞬にして切り替わる。


「柱山にて、未確認のMR信号を検知! 天ノ梅方面に向けて、時速約120キロで移動しています。」

「……もう少し、残業していきますよ。」


 彼らだけでなく、他の司令所内の職員たちも、仕事モードへと切り替わる。


「妙だな。陸路か?」

 時速120キロという数字に、引っ掛かるユリア。


 しかし、判断は迷わない。

「エレナを起こせ。”八咫烏”で緊急発進だ。」


『起きてるぜ! すぐに出る。』

 ユリアの指示に対し、通信機越しに快活な女性の声が聞こえる。



 慌ただしく、動き始める司令所。

 そこに、一人の男がやって来る。

 サングラス越しに光る鋭い眼光。左目に刻まれた縦長の大きな傷が、歴戦の猛者であることを物語る。

 壮年ながらも、未だ衰えぬ力強さを有するその男の名は、白銀正継。G-Forceを取り仕切る不動の司令官にして、白銀綾羽の父親である。


「おや、司令。起きてたんですか?」

「ああ。柱山に、未確認の反応があったらしいな。」


 光葉の軽口に対して、正継は特に咎めることはなく。冷静に状況を見据えていた。


「ええ。エレナを緊急発進させました。彼女なら、まぁ問題はないでしょう。」

「……そうだといいが。」


 問題は無いと考えるユリアであったが、正継はそうではなく。

 鋭い視線を、モニターへ向けていた。




 鋼鉄の足が、地面を踏み砕き。道路を駆けていく。

 足もとをすれ違う車など、気に掛ける様子もなく。大地を揺らし、恐怖すら与える。

 ブラックカロンは、天ノ梅へ向けて疾走していた。


「……揺れがきつい。」

 操縦席の中で、綾羽は揺れる頭を片手で支えながらボヤいた。

 ブラックカロンの操縦席は、操縦席とは名ばかりでボタンやレバーといった制御手段は存在しない。あるのは全方位を映し出すモニターと、操縦者を固定・保護するためのシートだけである。


「飛行機能だけじゃなく、シートベルトまで壊れてるって。一体どういう理屈なのよ。」


『申し訳ありません、綾羽様。』


「見た目じゃ分からなかったけど、各部の関節もガタついてるわね。少し気になるわ。」

 脚を組みながら、綾羽は乗り心地に対する不満が止まらない。


「……まぁそもそも、ネットの記事の話じゃ、この機体は破壊された事になってたし。無事に動くだけ、マシと考えるしか無いわね。」

 そうして、綾羽は自己解決してしまう。


「そういえば、なんだけど。16年前に、”結局”何が起こったのか。貴女は知らないの?」

 思い出したように、綾羽がピノに問い掛ける。

「ウルスラは事故のショックで、ほとんど覚えていないらしいのよね。」


『申し訳ありません。データに破損が生じているため、不明です。』


「開発者の、……ナンチャネル博士が捕まった、っていうのは確定でしょうけど。」

 気力と、やる気の薄れつつある綾羽。

「そもそも、なぜその日、ブラックカロンは地上に出て、暴走を起こしたのか。なぜウルスラだけが、地下に取り残されたのか。」

 それでも、気になってしまう。

「そして、最後の登場人物。死んだとされる、この機体の”操縦者”は、どうなったのか。」

 綾羽の瞳が、問い掛ける。

「それも、知らないの?」


『――はい。申し訳ありません。』


「……そう。」

 綾羽はつまらなそうに、前へと視線を移すと。

 揺れる頭に、手を添える。


「きもちわるい。」





 突如、その足を止め。

 地面を抉りながら、ブラックカロンが停止する。


「……何か、来るわね。」

 綾羽は”それ”を察知し、空を見つめた。



 闇を切り裂き。雲を消し飛ばしながら飛翔する。

 音をも超えて。全ての風景を置き去りにし、それはやって来る。


 漆黒の翼に、ブースターだらけの太い脚部。

 ”八咫烏”と呼ばれるギガントレイスが、ブラックカロンの前に現れた。


『止まれ! そこの所属不明機。』


 その八咫烏という機体は、自分が最新鋭だと言わんばかりの輝きを放っていた。

 同じ漆黒の機体でも、サビだらけのブラックカロンとは大違いである。


『……随分と、まぁ。ボロボロな機体だなぁ。』

 スピーカー越しながら、操縦者の心の声が漏れる。


『けどまあ! 老人の徘徊だろうと、申請は必要だぜ?』


 ブラックカロンへ向けて、八咫烏が右の手のひらを向ける。


『G-Forceだ! 操縦者パイロットはリアクターを停止し、操縦席から出な!』


 手のひらは、まるで銃口のようになっており、淡い粒子の光が覗いていた。



 対する、ブラックカロン。


『この要求を呑みますと、目的達成は不可能となりますが。』

『――いかがいたしましょう?』


「……貴女、やっぱり馬鹿にしてるわね。」

 綾羽はこの機体の制御AIに対し、すでに軽い苛立ちを覚えていた。


「蹴散らすわ。答えは”NO”よ。」


 綾羽は脚を組んだまま。

 絶望的な性能差を有する、”敵”を見た。





「……反応がねぇな。」


 八咫烏の操縦席内。

 オレンジ髪が特徴的な女性操縦者――般若エレナは、依然として停止する様子のない相手に、そう独り言ちる。

 猛獣のように、鋭く研ぎ澄まさせた空気を纏うエレナ。

 けれども、彼女はれっきとしたG-ForceのGR操縦者であり、冷静に任務を遂行する脳は持ち合わせていた。



 かざした右手の輝きが収束し。

 超高速の粒子ビームが、放たれる。



 それは発射と同時に着弾。ブラックカロンの真横を通り過ぎ、後方の地面を破砕した。

 思わずといった様子で、後ずさるブラックカロン。


「今のは外してやったんだぜ? ビビったんなら、さっさと操縦席から出な!」

 スピーカー越しに、相手に警告をするエレナ。


 けれども、相手の機体はそれに応じず。



 あろうことか、八咫烏相手に右の拳を突き出し、手の甲に備わった銃口から、まばゆい光線を発射した。



「なっ。」

 咄嗟に反応し、回転しながら光線を避けるエレナ。


 警戒度を引き上げ、目の前の相手を敵と認識したのか。エレナは先程より距離を取る。


 敵を睨むエレナ。しかしその表情には、明確な戸惑いが含まれていた。


(一応は直撃コースだったはずだ。……なのに何で、アラートが鳴らなかった?)

 あり得ないはずの現象に、エレナは驚きを隠せない。


 近年開発されたギガントレイスには、強力なビーム兵器に対応するための最新技術が、標準装備として搭載されていた。

 それが、耐ビームコーティングと、緊急回避システムである。

 耐ビームコーティングは文字通り、ビーム兵器に耐性を持った特殊コーティングを機体に施す技術である。

 そして、緊急回避システム。これは、高性能コンピュータによるビーム警告機能であり、敵の放つビーム兵器が自機への直撃コースである場合、警告音アラートを鳴らす仕組みとなっていた。


 今回エレナは、敵の動きと銃口の光から判断し、咄嗟に敵の攻撃を避けた。だがその際、アラートは鳴らなかった。


 確実に作動する。もはや当たり前と言ってもいいようなシステムが、機能していない。

 その事実が、エレナを困惑させた。


 けれども、敵は未だにとどまることを知らず。

 右手をエレナへ向け、次々と光線を発射。


 いや、連射をしてきた。



 それをエレナは、完璧に躱し切る。



 緊急回避システムは、やはり機能せず。

 己の感覚のみを頼りに、全てを避けきるその動き。

 日本トップクラスの実力者である、G-Force本部所属のGR操縦者。その神業といっても良い所業であった。



「――いや待て。流石におかしいだろ。」

 その違和感に気づかない、エレナでは無かった。


 空中で停止し。おもむろに、八咫烏は光線の直撃を受ける。

 耐ビームコーティングがあるとはいえ。強力なビーム兵器の直撃を受けることには、撃墜に直結するほどの高いリスクがあった。


 無防備な八咫烏に、敵機の光線が連続して直撃し。


 けれども、八咫烏は”無傷”だった。



「そういうことかよ。ったく、緊急回避が機能しねぇわけだぜ。」

 種が分かれば、もうその錯覚に怯える必要はなく。

 エレナは敵の光線を避けるという選択肢を除外した。


放射熱線ヒートレイってやつか? そのレベルの”骨董品”を積んでる機体じゃ、そもそも敵にもならねぇよ。」


 一般的にビーム兵器と呼ばれるのは、”メルト粒子”を用いた加速粒子砲ビームキャノンのみである。

 現状、ギガントレイスに有効打を与えられるのはビーム兵器のみであり、それに対抗するためにわざわざ緊急回避システムという物が作られた。


 緊急回避システムは、敵機の放つ”メルト粒子”に反応する。

 実弾や放射熱線ヒートレイといった時代遅れの兵器は、そもそも”有効戦力”としてカウントされていなかった。


「……こりゃ、アタシの下手な射撃じゃ殺しちまうな。」

 敵の機体が、恐らくは耐ビームコーティングすら施されていない旧式であると判断し。

 エレナは八咫烏のビームキャノン使用をためらった。


(まぁ、今までの射撃から察するに、向こうは恐らく素人。少なくとも、戦闘訓練を受けた奴の弾道じゃなかった。)

 エレナは、現状明らかになった情報を元にして。いかに相手を”怪我させずに”、なおかつ無力化できるかを思考する。



「――ちょっと手荒だが、文句は言うなよ。」

 ともあれ、エレナの得意分野は”一つ”しかなかった。


 ゆっくりと、八咫烏が動き始める。

 そのまま真っ直ぐに、ブラックカロンへと向けて飛翔する。

 それほど速度は出さずとも、その距離は瞬く間に縮まり。

 残り50mという距離に入った所で。


 八咫烏は全てのブースターに点火し。

――超加速した。


 最新鋭機にして、高速飛行特化の八咫烏だからこそ可能な、ノータイムの音速突破。


 その、人外じみた加速の中。

 エレナは機体を瞬時に捻り、”蹴り”の姿勢へと移行する。

 この機体と、この操縦者だからこそ可能な、”音速蹴り”である。


 その蹴りによって発生する威力は、単純な物理攻撃といえども生半可なものではなく。機体にダメージこそ入らずとも、中の”操縦者”には衝撃が伝わる。

 訓練された熟練の操縦者ならまだしも、素人が耐え切れる衝撃では無い。


 迫り来る八咫烏に対し、最後の足掻きとばかりに光線を連射するブラックカロン。

 けれども、八咫烏は止まらず。


「――そんなん、効かねぇんだよ!」


 意識を刈り取る渾身の蹴りを、ブラックカロンに叩き込んだ。




――だが、その蹴りは空を裂き。

 八咫烏は、何故か”真っ二つ”になりながら、そのまま凄まじい勢いで地面に墜落した。




(……いったい、なにが。)

 墜落時の衝撃で、意識を失いかけながらも。

 エレナは必死に耐えていた。


 そして彼女は、悪魔を幻視する。


 左手にビームソードを展開した、ブラックカロンの姿を。



 その操縦席内では。

 開戦前と変わらず、脚を組んだままの綾羽が、余裕に満ちた表情で座っていた。


「貴女の敗因は、3つ。」

 それは、誰に伝えるでもなく。ただ綾羽は自らの勝利に浸るのみ。


「1つ。ヘタクソな射撃や、怯えたような挙動から、わたしをただの素人だと思い込んだこと。」


 ゆっくりと、歩いていく。


「2つ。装甲を過信して、ヒートレイを避けようともせず、まんまと目眩ましに引っ掛かったこと。」


 地面に横たわる八咫烏には、その足音が振動として伝わってくる。


「そして3つ。わたしを最後まで、”敵”と認識しなかったこと。それが何よりも愚かだわ。」


 光の剣を携えた、恐ろしき黒い悪魔。

 エレナにとってその風貌は、明確な”死”として見えていた。


「悔い改めて、”来世”で活かしなさい。」


 その一言を終わり。

 左手のビームソードが、無慈悲にも振り下ろされた。





「――エレナ機。し、信号途絶。」


 G-Force司令所内は、水を打ったような静けさに包まれていた。


「……嘘、でしょ。撃墜された、ってこと? エレナさんが?」

 古川は、自分が発した情報を、信じられなかった。


 動揺しているのは彼女だけでなく。光葉やユリアを含む他の職員たちも、思わず言葉を失っていた。

 般若エレナは、僅か数名しか存在しない、G-Force本部付きのGR操縦者である。日本における最上位戦力の一角に数えられ、その実力は他の職員たちにも知れ渡っていた。

 それ故に、エレナ撃墜を知らせる報告は、彼らの動きを止めるには十分であった。


 そんな中。その男は強く拳を握り、前を見ていた。


「――わたしが出る。御神楽みかぐらを、D装備で用意してくれ。」


 G-Force司令、白銀正継。その男が動き出す。


「っ、了解。」

 放心していた古川であったが、切り換えて司令の声に応える。


 それにより、再び司令所が機能し始める。

 戦いはまだ、終わっていなかった。




『正体不明の信号、天ノ梅市街地に尚も接近中。当司令部に向かっていると思われます。』

 古川のアナウンスが、建物内全域に響き渡る。

 慌ただしく、施設内の廊下を移動する職員たち。正体不明の敵が向かってきているため、当然といえば当然の反応であった。


 そんな中を、白銀正継は堂々とした足取りで急いでいた。

 目指すは、ギガントレイスを保管しているGR格納庫である。


『司令。本部防衛機構、発動してよろしいですか?』

 骨伝導スピーカーの機能も持つサングラスから、ユリアの声が聞こえてくる。


「……いや、敵はたった1機だ。街へのリスクが大き過ぎる。」

 立ち止まること無く、正継は進んでいく。


「わたし1人のほうが、上手くやれる。」

 それは自惚れなどではなく、ただ明確な”事実”であった。



(……何故、今になって動き出す。)

 正継は、未だ姿の見えない敵の事を思う。


(それも、16年前と同じ、この場所へ向かって。)


 その脳裏に思い浮かぶのは、16年前の事件の思い出。決して忘れることの出来ない、正継にとって史上最悪な”悲劇”の記憶。

 燃え上がる街並みと、そこに君臨する一機の悪魔。

 一人立ち尽くす、事件後の更地。

 そして刑務所で出会った、変わり果てた、かつての”親友”の姿。


(――”ライオネル”。一体、何が起ころうとしている?)


 行き場のない不安が、ひたすら湧き上がっていた。




 GR格納庫へと、辿り着き。

 中へ入った正継は、その異常に目を丸くした。


「……何があった。」

 近くに居た職員へ問い掛ける。


「いえ、それが。」

 申し訳無さそうに話す職員。

神座じんざ身依子みえこが、無断で発進したようで。」



 その視線の先。

 本来、”御神楽”と呼ばれるギガントレイスが鎮座するはずの場所には、何も存在しなかった。



「それは、不味いな。隣りの”八咫烏”は、すぐに動かせるのか?」


 正継は、隣りの格納庫に鎮座する、二機目の八咫烏を見る。


「いえ、そっちの機体は。……本部システムの応急処置のためと、三笠みかさ主任が、”動力”を抜いてしまい。」

「つまり現状、動かせる機体が無いというわけか。」


「申し訳ありません。ラボの方に行けば、何機かあるでしょうけど。すぐに動かせるかどうかは。」

 職員にとっても、完全にお手上げ状態であった。


 動くことの出来ない、この現状に。


 正継は、強く拳を握るしかなかった。





 深夜の、天ノ梅市街地。

 人の寝静まる時間帯であろうと、この都会の街は眠らない。未だ途切れることのない、車通りや歩く人々。

 彼らの声や騒音は、街の音として周囲を埋め尽くしていた。

 そんな中、近づいてくる、巨大な振動に。


 誰かが気づき、叫ぶと。街は一瞬にして、パニックに包まれた。



 市街地を疾走するブラックカロン。彼女にとって、逃げ惑う人々などただの騒音に過ぎず。まるで気にする素振り無く、街の道路を踏み抜いていった。

 そして、目的の場所へ近づいたのか。

 ブラックカロンは、その足を止めた。


 操縦席内にて。綾羽はスマホを凝視し、周囲の風景と見比べていた。


「……この辺りで、間違いないわよね。」

 下手にテレポートを行うと、最悪地面に生き埋めになってしまう。それ故に、綾羽は慎重に座標を探っていた。


『この付近の地下空間を、探知してみましょうか?』

 ピノが提案する。


「ええ、お願いする――」

 スマホを見つめながら、ピノへ返事をする綾羽。



 だが”何か”を咄嗟に、察知した。



「――やっぱ却下! 今すぐ地下に転移してッ!」

 今日一番の大声を、綾羽は口にする。


『綾羽様? 一体どういう……』


「うっさい! 貴女、地下何メートルなのか知ってんでしょ!? さっさと転移ッ!」

 ピノの言葉など、お構いなしに突っぱねて。


 綾羽は、彼方を睨んだ。



 その視線の、遙かな先。

 とあるビルの屋上に、その機体は居た。


 闇に溶け込む、漆黒の八咫烏とは違い。白を基調とした装甲に、比較的細身のボディ。

 それこそが、G-Forceの主力GRである”御神楽”であり。


 戦略兵器の一つに数えられる”電磁加速砲レールガン”を、発射体制のまま構えていた。


 その操縦席内。

 長髪の若い女性操縦者、神座じんざ身依子みえこは、怒りに満ちた表情で標的ターゲットを睨んでいた。


「――よくも、エレナをッ!!」

 引き金を、躊躇なく引き。



 電磁加速した砲弾が、激しい衝撃と共に放たれる。


 砲弾は、恐ろしいほど完璧な軌道を描き。


 停止するブラックカロンへ向けて、一直線に突き進み。



 着弾。それと同時に、凄まじい衝撃と、破壊を生み出した。



◆ 



 直下1000m。ライオネル博士の地下研究所内。

 かろうじて崩壊を免れた、自らの自室にて。不思議なヘッドギアを被るウルスラは、地上の友人の安否を案じていた。


「……綾羽さん。大丈夫、でしょうか。」


 手を合わせて、祈りを込める。

 互いに認識してから、未だ10時間にも満たない関係ながら。綾羽という少女の存在は、ウルスラの中でとても大きなものへと膨れ上がっていた。

 顔も知らず、生い立ちも知らず。唯一知るのは、その澄み渡るような声のみ。

 どうか、無事にたどり着いてほしい。そう願うウルスラであったが。


 激しい衝撃と、全てを壊すような揺れが、その祈りを掻き消した。


「な、なにが。」


 激しい揺れに、その怯えを隠せず。ウルスラはその場から動くことが出来なかった。

 それが、命取りであり。

 限界を迎えた天井の崩壊から、逃れる時間を奪った。


 全てが、圧し潰されていき。

 不思議なヘッドギアの、その無惨な残骸のみが、悲しくも残った。




「……あ〜、いたたた。」


 ブラックカロンの操縦席内。

 ”転移”の影響か、それともシートベルトをしていなかったからか。綾羽はものの見事にひっくり返っていた。

 ぶつけた身体の痛みに悶ながら。綾羽は何とか体勢を整える。


「成功、したのかしら。」


 周囲の様子を調べようと、モニターへと目を向ける。けれども周囲はただ薄暗いだけで、瓦礫の山以外には何も存在しなかった。


「って、ボロボロじゃないッ。」


 仮に、この場所が地下研究所であったとしても。最早それどころではないほどに、悲惨な状況になっていた。


「……ウルスラが無事なら良いんだけど。」


 その一点のみが、綾羽にとっての不安であり。

 ウルスラの安否を確かめるべく、操縦席の扉を開けた。


『――待ってください、綾羽様! 今外に出るのは、』


 咄嗟に、警告をするピノであったが。

 そのタイミングは、僅かに遅く。


 綾羽の頭上。亀裂の入った天井が、前触れ無く崩れ落ちた。


「ッ、やば――」


 その不安ゆえに、綾羽の反応は遅れ。

 天井の瓦礫は無惨にも――


――綾羽の頭上で、停止した。


 その瞬間、現象を、綾羽は目を逸らすこと無く見つめて。


「なにはともあれ、ですね。」


 聞き覚えのある”声”を、その耳で初めて聞き、振り返る。

 そして綾羽は、その少女と出会った。


 ”不思議な力”を制御するため、右手をかざし。

 無造作に伸び切った髪の毛は、地面に引きずられている。


「お会いできて、とても光栄です。綾羽さん。」


――その表情は、想像していたよりも、ずっと明るくて、優しげで。


 ”ウルスラ”。そう呼ぼうとした綾羽の口を、そっとつぐんでしまった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る