白銀のメルティス

相舞藻子

悪魔が再臨した日

砕かれた世界



 そして、その教室には誰も居なくなった。



 桜の花びらが、ひらひらと舞う。舞い散り、風に吹かれ、どこかへ消えていく。

 そこはかつて、鈴蘭女学院Gスポーツ部の活動が行われていた部屋。目標を持ち、理想を夢見て、切磋琢磨しながら実力を高めていった。

 もう、そこには誰も居ない。誰も居ない教室は、きれいに整頓された机なども相まって、とても寂しく感じられた。


 教室に残されたのは、椅子に立て掛けられた一枚の絵画のみ。優しく、満面の笑みを浮かべた、一人の少女の絵だった。

 その少女の名は、白銀綾羽しろがねあやは。黒く長い髪と、造り物のように整った美しい顔が特徴の少女。

 綾羽はこの教室で、他の仲間達とともに活動し、笑い合い、日々を過ごしていた。


 しかしそれは、在りし日の記憶。

 すでに終わった、一人の少女の物語。


 その始まりは、一年前にさかのぼる。



 ◆



 涼しい春の風が感じられる、そんな日。

 その教室では、退屈な歴史の授業が行われていた。担当の教師は年配の男性教師であり、女子生徒しかいないその教室で、枯れ葉のような声を響かせていた。

 静かなその教室。皆が真面目に授業に取り組んでいる。というわけではない。

 今、この鈴蘭女学院1年1組では、謎の漫画ブームが巻き起こっていた。それは流行というよりも”蔓延”と言うべき広がり具合であり、普段は漫画を読まない、授業を真面目に受けるような生徒にすら広まっていた。

 真面目な顔をして教科書に向かう、ふりをしつつ漫画を読む。

 この少女、犬神知沙いぬがみちさも例外ではない。

 知沙は中学時代、真面目で勤勉な少女で通っていた。成績こそ振るわなかったが。人に怒られたくない、友達に悪く思われたくない。そんな、どこにでもいる真面目な少女であった。

 そんな知沙も、クラスメイトに借りた漫画を読んでいた。

(なんというか、高校って自由なんだなぁ。)

 緩みきったクラスの雰囲気を、知沙は身を持って味わう。

(……いいや、もう少し成績が良くて、違う学校に行ってたら、多分こうはなってなかったよね。)

 真面目に授業を受けつつも、中学時代の知沙の成績は残念であった。この、とりあえず小学生の四則演算さえ出来れば入れると噂の、鈴蘭女学院に入学せざるを得ない程度には。

(まぁ、結構楽しいから、いっかな。)

 色々と、中学の頃に想像していた風景とは違うけれど。とっても退屈な授業に、少しばかり陽気すぎるクラスメイトたち。

 それは確かに、知沙の望んでいたはずの風景だった。

 けれども、なにか足りない。

 知沙は自身の隣の席を見た。誰も居ない、机と椅子を。

(たしか、白銀さん、だったっけ。)

 その席の生徒は、入学から2週間ほど経った今現在、一度もクラスに顔を見せていなかった。

 一度も会ったことのない生徒。きっとなにか理由があり、学校に来ないのだろう。ただ、それだけの存在。一度も会ったことがない故に、特に思うことも、感じることだってない。

 そのはず、なのに。

(やっぱり、隣に誰も居ないって、寂しいな。)

 そんなことを思いながら、少女の一日は過ぎていった。



 放課後。

 車通りを横目に見ながら、知沙は一人、自宅への帰路につく。

 家の方向の関係から、知沙の登下校は基本的に一人だった。学校に行けば、話す友達やクラスメイトたちは居る。けれどもこの登下校の時間は、知沙に孤独を意識させた。

 少し先の敷地内から、大きな音が聞こえてくる。鈍い金属の音である。

 歩いてそこを横切ろうとする知沙の視界に、巨大な人型のロボットが映り込んだ。

 人の10倍近くあろう白い鋼鉄の身体に、力強い腕と足。巨大な鉄筋を軽々と持ち上げるその躯体には、内に強大なパワーを秘めていることを感じさせる。

 知沙は突如現れたその巨体に目を奪われるも、それほど驚きはしなかった。

「……ギガント、レイス。」

 思わずその名を呟く。


――GR”ギガントレイス”。それは、旧日本軍が太平洋戦争末期に開発していたとされる、巨大人型兵器である。

 この兵器が戦争中に完成しなかったのが当時の日本にとっての不運であり、現在の世界にとっての幸運である。後にそう評価されるほどの”力”が、このギガントレイスという存在にはあった。


 そのギガントレイスが2機。目の前の工事現場で働いていた。

 彼らはその巨体ながら、関節から指先に至るまで、まるで人間そのものかと錯覚するほど、繊細で大胆に作業を行っている。

 ただのロボットではない。遥か昔から伝わる、神話の巨人とも幻視してしまう。

 だがそれ故、過ちをも起こしうる。


 重い衝突音が鳴り。まるで人間が、タンスの角に小指をぶつけた時のように、ギガントレイスの足先が建物を支える柱の土台を蹴り上げた。

 人であれば小さなそれも、巨人サイズとなれば致命的。

 生じた傾きにより、上部に置かれていた鉄骨が滑るように落ちていき、地面へと向かっていく。

 知沙はその様子を、真下より眺めていた。大きく見開かれた瞳で、それが何か理解できない表情で。

 それが視界を埋め尽くす寸前、


 巨人の手が、落下する鉄骨を受け止めた。


 風と、土埃が舞う。

 一番の当事者である知沙だけでなく、それを見ていた他の通行人や、工事現場の作業員たちも言葉を失っていた。

 呼吸を行う自身の体を感じて。ようやく何が起こったのかを理解した知沙は、糸の切れた人形のようにその場に座り込んだ。


「――ごめんなさい、恐がらせちゃったわね。」

 頭上より、凛とした声をかけられて。

 知沙が顔をあげると、白いギガントレイスの胸部が開き、その中から操縦者パイロットであろう一人の女性が姿を見せる。

「怪我はないかしら、お嬢さん?」

 金髪の、美しい女性だった。整った目鼻立ちから、きっと日本人ではなく、どこか異国の女性。操縦者の必須品なのか、スレンダーな体のラインが分かる白いスーツのようなものを着ていた。

「……あ、はい。だ、大丈夫です。」

「そう。……なら、良かったわ。」

 声の震える知沙に対し、操縦者の女性は安心したかのように優しい表情を見せた。

「……まったく、足を引っ掛けるなんて。とんだ素人ね、あっちの操縦者。わたし含め、本当にまともな人間を採用しないわね。」

 知沙に聞こえないほどの声で、女性はそうつぶやくと。最後に知沙に向かって微笑み、ギガントレイスの操縦席へと戻っていった。

 鉄骨を握りしめながら、工事現場へと戻っていく白いギガントレイス。

 知沙にとって、ただ驚きの一瞬であった。



「……はぁ〜。ビックリしたなぁ、さっきの。」

 興奮からか、若干顔を赤らめながら、知沙は自宅への帰路を歩いていた。

「綺麗な人、だったな。」

 思い返すのは、白いギガントレイスの操縦者。見た目の美しさだけでなく、声や仕草など。ほんの一瞬の邂逅だったのにも関わらず、その凛々しい様は、知沙の目に焼き付いていた。

「ギガントレイスの操縦者かぁ。……うーん、遠い世界だなぁ。」

 例えるならそう。映画やドラマに出てくるような、特別なヒーロー。

 女子高生を始めたばかりの少女にとって、ただ遠い世界の住人だった。


――ギガントレイス。

 その誕生から半世紀以上の時が経ち。初めはただ、戦争に勝つためだけに生み出された兵器は今。人々の生活を支える新しい手足へと、その姿を変えていた。





 その日、アトラス帝国軍による、メガラニカ陣営領土”月面第6都市ナチュリア”侵攻作戦が行われた。

 開戦前の大多数の予想はメガラニカ軍の圧倒的優勢。その理由は主に、月面の重力下における戦闘経験の差と、単純な投入戦力の差にあった。

 また、ナチュリアの軍司令部には、極秘裏に特殊兵器のレーザーレインが備わっており、正面からの敗因は皆無とされた。

 しかし開戦直後、その予想は裏切られる事となる。


――オペレーション開始スタート


 凍てついた大地に、白と灰色の砂。

 そして、闇に満たされた宙。

 月面と呼ばれるその場所は、青い星のどこよりも単純で、それでいて孤独だった。

 まばゆい光。無数の閃光が交差する。

 広大な地表を駆け巡る光の一つ一つが、巨大人型兵器”ギガントレイス”であった。



 素材を剥き出しにしたような、鋼色のギガントレイスがライフルを構え、敵機に向けて発射する。

 鋭いビームの光。砂煙の間を一瞬で穿つも、白い装甲の敵機には当たらない。

 視界を埋め尽くす砂煙の壁。そこに突如穴が空いたかと思うと、ビームの光が鋼色の機体に向けて放たれた。

 鋼色の機体はそれに反応しシールドを構えた。しかし、その行動はビームの前では遅すぎ。

 ビームは機体の左脇腹付近に直撃し、表面を覆っていた淡い光の粒子ごと、装甲を溶かしながら吹き飛ばした。

 それでもまだ、鋼色の機体は倒れず。姿勢を低くし、シールドを構えたまま、敵に対して射撃を繰り返す。


「クソッ」

 鋼色のギガントレイス。その操縦席内では、周囲から覆い尽くすかのような大量のアラートが鳴り響いていた。

 操縦者はノイズだらけのレーダーと、周囲のモニターに広がる有視界範囲のみを頼りに、機体を懸命に動かす。

(モニターの揺れが酷い。おまけにアラートも多すぎる。)

 緊張に息を切らしながら。砂煙に紛れた敵機を懸命に探すも、捉えきることが出来ない。

 機体の足元付近に、敵のビームが当たる。すると操縦者は過敏に反応し、その場を離れた。

(クッソ、当たらない弾にも反応してる。月面じゃ緊急回避が使えないなんて、聞いてねぇよ。)

 操縦者は焦りながらも、敵の射撃に当たらないように必死に機体を動かす。

(射撃で稼ごうにも、地上じゃ土煙が消えねぇし。)

 足での着地だけでは勢いを殺せず、咄嗟にバーニアを吹かして減速を試みる。

(上じゃ動きづらいうえ、良い的になっちまう。)

 機体を停止させ、周囲に銃口を向ける。

「クソゲーじゃねぇか。」

 悪態をつく操縦者。そこに生じた、一瞬の隙を突くように。

 砂煙を破り、白装甲の敵ギガントレイスが迫り来る。

 加速しながら近づく機体。その手には展開されつつあるビームサーベルが握られており。

 鋼色の機体、そのガラ空きの胴体を両断せんと、振りかざし。

 鳴り響く、激しい衝撃音の最中。回避不能の攻撃を受けた操縦者は、自身の撃墜を覚悟した。

 だがしかし、操縦者が薄めた目をゆっくりと開くと、モニター上の数値は未だ健在を示していた。

(あの直撃を受けて、無傷?)

 疑問を感じた操縦者は、襲いかかってきた敵機の方を向き、目を見開く。

 そこには、未だにビームサーベルを構えた敵機が、上半身を斜めに切断されたまま、立ち尽くしていた。

「……は? 何が。」

 目の前の出来事を、理解できない操縦者。

 それでも状況は、立ち止まる事なく加速していく。


 衝撃と、淡い輝きを散らせながら、次々と周囲の砂煙が開けていく。

 一つ、また一つ。空間が開け、そこには致命的なダメージを負った敵の機体が捨て置かれていた。


 鋭い閃光が迸り、周囲の砂煙を吹き飛ばすと。

 鋼色の機体の操縦者。いや、彼と同様の操縦者達は立ち尽くした。

 その場に残存するのは、鋼色のギガントレイス。つまりはアトラス帝国軍の機体のみ。

 白い装甲が特徴なメガラニカの機体は、その全てが無惨に破壊されていた。


 その、惨状とも言える状況に驚くと同時に、アトラス帝国軍の操縦者達は確信していた。

 この戦いは、我々帝国軍の勝利であると。

 何故なら戦場に、”あの機体”が現れたのだから。


 遥か彼方へと飛翔していく、輝きの残滓を見つめて。



「とりあえずは全滅ね。」

 彼女は、何事もなかったかのように呟いた。

 その操縦席内は非常に静かで、アラートはおろか些細な信号音すら聞こえない。

 操縦者は余裕ありげに微笑を浮かべつつ、モニターに表示された周囲の情報に目を通す。

「月面は初めてだけど、案外面白いわね。」

 まるで、少女がリズムを刻むかのように。

 美しい白銀色のギガントレイスが、両翼のブースターを吹かせながら回転する。

「……ふわふわ。アイツも来ればよかったのに」

 操縦者は独り言ちると、つまらなそうにモニターを見つめる。

「はぁ。さっさと目標達成して、終わらせようかしら。」

 そう、余裕に満ちた表情をすると。

 両翼のブースターが出力を上げ、機体が更に加速していく。

 まるで空間を切り裂くように。

 音を彼方に置き去りにして。

「空気抵抗が無いからかしら。いつもより速いわね。」

 景色が歪み、史上最高速度に達しながらも、その笑みは崩れない。


「さあ、蹂躙と行きましょうか。」


 敵の機体を数機視界に捉えると、それに真正面から襲撃を掛ける。

 こちらも向こうも、正面から衝突したのは変わりない。

 だが、速さが余りにも違い過ぎた。

 敵機が白銀のギガントレイスを視認した時には、すでに交差、通り過ぎた後であり。

 内1機が、ビームサーベルによって両断された後でもあった。


 衝突と同時に、僚機が1機落とされ。動揺しつつも、メガラニカの操縦者達は臨戦態勢を取る。

 だが、それでも遅過ぎる。

 白銀の機体はすでに刃を振りかぶっており、敵機を縦に一刀両断。

 ほぼ反射的に放たれていた、死角からのビーム射撃を知っていたかのように躱すと。

 そのまま間髪入れず、流れるような動きで敵機を斬り刻んだ。


 1機、2機、3機と斬り伏せ。呆然と立ち尽くす最後の敵機の胴体を斬り落とすと、白銀のギガントレイスは羽根を休める。

 操縦者の表情はつまらなさげであった。

「雑魚ばっかね。味方の動きも悲惨だけど、敵もさほど機敏じゃない。」

 白銀のギガントレイスは傷一つなく。軽量化され尽くした細身の機体は、ガラス細工のように輝きを放つ。

「凡人って、大変よね。」

 誰かに向けたように呟くと。

 味方の損害を察知してか、遠方から多数のギガントレイスが迫り来る。

 迎え撃つのはたった1機。一振りのビームサーベルのみを携えた、翼持つ白銀の機体。

 その操縦者は、迫り来る敵軍の遙か後方に、目的となる敵拠点を視認する。

「――見えたわ、終わりが。」

 たった1機のギガントレイスによって、戦いが終局に向かおうとしていた。




 メガラニカ軍、ナチュリア司令本部にて。

 大型モニターに映る戦況図に、多くの人々の目が釘付けになっていた。

「敵ギガントレイスが1機、信じられない速度で接近中。」

 戦場の多くの場所ではメガラニカ軍が優勢。敵を寄せ付けずに防衛をこなしている。

 だが、もっとも兵力の厚いはずの中央部を、たった1機のギガントレイスが突破してきている。

「……マジかよ。」

 そこに自軍の勢力は存在する。だが、ドリルに穿たれるブロックのように、モニター上の表示が次々に消失していく。

 一直線に、道中の味方機をすべて撃墜しながら、敵機がこちらへと向かっている。

 そんな悪夢のような状況ではあるものの。彼らは驚きこそすれど、未だに自分たちが負けるなどとは微塵も思っていなかった。

「敵ギガントレイス、エリア内に侵入。レーザーレインシステム、標的をこの1機に絞って起動します。」

 兵装担当の兵士が、口元に笑みを浮かべながらコマンドを入力した。

 他の兵士たちも、システム起動と同時に勝利を確信し、歓声を上げる。

「いやいや、これが無かったら危なかったな。」

 ”それ”への対処は完了したと考え。彼らの意識は、来たるべき勝利へと移行する。

 しかし、”それ”は終わらない。

「……えっ。敵ギガントレイス、撃墜どころか、減速すらしません。」

 その兵士の言葉に、周囲の者は言葉を失う。

「まるで障害なんて無いみたいに、一直線に来てます!」

――これほどなのか、と。



 光の雨が降っていた。

 あるいは、連立する破壊の柱か。

 神の天罰とも見間違えるそれは、人の生み出した兵器、その極地の一つ。

 レーザーレインシステム。ギガントレイスに対し、僅か一門でも有効打となり得るレーザービームを、数百もの砲門から連射する破壊兵器。

 主に拠点防衛において絶大な効力を発揮するこの兵器は、砲門と同程度の数のギガントレイスを用意したとしても突破困難、もしくは不可能とされている。

 その、ただでさえ致命打となる弾幕を、たった一つの標的に絞って掃射したとすれば、もはや塵一つ残すことなく標的を討ち滅ぼすだろう。


 だがその白銀の機体は、光の雨の中を進んでいた。

 翼を広げ。舞うように、踊るように。

 唯一の武装である一振りのビームサーベルを振りかざし、存在しないはずの道を斬り開いていく。

 その機体は決して被弾しない。彼女の進撃は止まらない。

 人の身では辿り着けない領域。たとえコンピュータであろうとも、到達不可能な超高速の世界。

 それを彼女は、凌駕する。


 文字通り、何事もなかったかのように。

 白銀の機体は、レーザーレインシステムの範囲を突破した。

「これね、目標は。」

 一度も触れられず、欠片も傷付くことなく。白銀の輝きは、何一つ変わらずにそこにいる。

「ビームサーベル、対艦モード。」

 敵拠点を見下しながら、そうコマンドを呟くと。

 機体に握られていたビームサーベル、その刀身が機体の全長を上回るほどに巨大化する。


 ゆっくりとした、穏やかな加速だった。

 最後の仕上げは、丁寧に。

 死を下す大鉈の一振りだけは、明確な恐怖を伝える手段にしなければならない。

 敵ギガントレイスの射撃など、もはや眼中にも無く。

 防ぎようのない暴力を、体現するかの如く飛翔し。


 ただ明確な殺意を持って、敵拠点を一刀両断に下した。


『メガラニカ軍司令拠点の陥落を確認。当時刻を持って、オペレーションを終了いたします。』

 アナウンスが聞こえてくる。

『月面第6都市ナチュリアは、アトラス帝国領となりました。安全圏、起動します。』

 世界が、色が変わっていく。

 戦いが終わったのだと確信すると、彼女はふっとため息をついた。

 彼女の眼前に、システム画面が表示される。


『お疲れさまです チロル大佐』

『使用機体=アルフォート』

『機体損傷率=0%』

『耐ビームコーティング残量=100%』

『エネルギー残量=77%』

『敵歩兵撃破数=0』

『敵GR撃破数=46』

『ボーナスポイント=4』

『総合評価=S』



「はぁ、疲れた。」

 疲労ゆえか、深く溜め息を付き。

 彼女は、頭に取り付けられたヘッドセットを外した。


 しっとりとした黒の長髪に、か細い腕と、指先。

 病的なまでに白い肌と、人形のように整った顔立ち。

 ”ゲーミングチェア”に深く腰掛けて。カーテンの隙間より覗く日光を、何の感慨も無く見つめるのが、彼女。

 ”白銀綾羽”であった。


「お疲れさまです、綾羽様。」

 イスに腰掛ける彼女に、声をかけるものが一人。

 白と黒を基調とした、シックなデザインのメイド服で身を包み。顔の上半分から頭部にかけて、機械のようなバイザーを付けた女性であった。

「お水を。」

 メイドの女性は、感情を感じさせない冷たな声で、綾羽に水の入ったコップを渡す。

「ええ、ありがとう。」

 特に気にすることなく、綾羽はコップを受け取ると。それを口へと運び、半分ほど飲んだ。

 綾羽はほんの少し目を休めると。コップを机の上に置き、代わりに側に置いてあったスマートフォンを手に取り、操作し始めた。

「月面侵攻の初イベント、結構拍子抜けね。」

 つまらなそうに呟く。

「低重力に慣れてない雑魚ばっかだし、わたしに気づくと逃げていく奴も多いし。おかげで撃墜数もイマイチね。」

 側にいるメイドに聞かせているわけではない。

「何だか飽きてきたわ。……サーバー変えようかしら。」

 不満がひたすらこぼれ落ちる。

 それに対して、メイドは特に何も言うことはなく、綾羽も返事を期待しているわけではない。

 すると、綾羽のスマートフォンにメッセージの通知が届く。

 綾羽は数秒目を細めると、ため息を付きながらメッセージを開いた。


『ごめんなさい。』

『深夜アニメ見てたら、寝落ちしちゃいました。』

『明日は必ず一緒にやりましょう。』


 綾羽はメッセージを読むと、呆れた様子で。

『平日の昼間まで寝てるなんて、本当にどうしようもない愚か者ね。』

 とメッセージを送り返し、スマホを待機状態に戻した。


 綾羽は椅子に座りながら、疲れた様子で背筋を伸ばし。

 漏れ出るように深い溜め息を付いた。

「かくいうわたしも、眠いわね。」

 アクビをしながら、軽く涙が溢れる。

「エイチツー、昼寝の時間にするわよ。」

「了解しました。」

 綾羽の専属メイドロボット”H2-21”は、主の命令に忠実に従うのであった。



 風に揺られる木々と、その隙間から覗く日光。

 そんな、素晴らしき自然の恵みを浴びながら。綾羽は億劫で仕方がないとばかりに空を睨む。

 音楽でも聞いているのか、頭部にはヘッドホンが付けられていた。


 日課であるVRゲームの時間を終え。少々の眠気を覚えた綾羽と、その付き人であるH2-21は家から出ると。周囲に広がる広大な森へと足を踏み入れていた。

 涼しげな風に揺られて。森の至る所で葉擦れの音がこだまする。

 だが、ヘッドホンを付けた綾羽には何ら関係なく。ただ日光の眩しさを完全に妨げない木々を、役立たずと思うだけだった。

「そういえば。綾羽様がゲームをしていた時、ヨハネさんが来てました。」

 二人して歩く最中。H2-21が思い出したように話し出した。

「それで?」

 ヘッドホンを付けたままの綾羽。それでもH2-21の声は聞こえているのか、相槌を打つ。

「食事を――いいえ、餌を上げたところ、喜んで食べてました。」

「……あっそう。」

 無表情なメイドロボットながら、その声はどこか明るげで。対する綾羽の声は、どこか無愛想だった。

「あの野良猫、確実にわたしを避けてるわね。」

 ほんの小さな怒りを、綾羽は話題である”野良猫”へと向ける。

「臭いはどんな感じだったの? 臭かった?」

「そう、ですね。……以前、綾羽様が臭いと言っていた時と比べ、2割増しほどの刺激を感じました。」

「へぇ。次に目に入ったら、無理やり捕まえてでもお風呂に入れないとね。」

 綾羽は愉快そうに笑いながら。

 自然満ちる森の中を歩いていった。



「あぁ、やっぱり。ここなら良いわね。」

 綾羽達は森の中を歩き続けると、ひときわ大きな木が生える場所へと辿り着いた。

 大木の影によってその一帯は薄暗く、それでいて涼し気な風も感じられる。

「エイチツー、お願いするわ。」

「了解です。」

 綾羽の指示を受けたH2-21は、慣れた手付きでハンモックの設置を始めた。



 木々の間に設置されたハンモック。その座り心地を確かめるかのように、綾羽はゆっくりと腰を落とす。

 ギシギシと音を立てて。それでもハンモックは綾羽の身体をしっかりと包むように支えていた。

「それじゃあ寝るわ。命に関わることでもない限り、極力起こさないでね。」

「はい。分かりました。」

 H2-21はお辞儀をし。

 綾羽は装着していたヘッドホンを外すと。その心地よさに吸い込まれるように、ハンモックに横になった。


 人間社会の雑音からは程遠く。

 心地よい自然の混沌に包まれて。

 眠り姫は泡沫の安息へと落ちていった。





 チリンと、鈴の音が鳴る。

 陽の光が微かに覗く、鬱蒼とした森の中。

 細長い尻尾を揺らしながら。軽快な足取りで、そのネコは森を闊歩する。

 ここは彼女の縄張り。正確には彼女の主人の縄張りであるが。

 人に害されることなく、どんな動物でも自由気ままに暮らすことが出来る。ネコはそんな森が大好きで、その主人のことも大好きだった。

 先程、たらふくご馳走を用意してくれた無口な奴のことも好きだが、やはり主人が一番だった。ネコが今、ネコとして生きていられるのも、愛する主人のおかげだから。

 だからネコは、今日も誰にも内緒で主人の役に立つよう歩き回る。

 そのか細い脚が、人の卑劣な罠の餌食になろうとも。


 ガシャン、と。残酷な音が森の中に響いた。




「――うわっ。」

 放課後、日課である犬の散歩を行っていた犬神知沙は、突如立ち止まった愛犬に驚いた。

 その愛犬、名前はモロ。大きく、それでいて賢く育つよう、大好きな映画からとった名前である。

 しかし、その名を体現するかのごとく驚異的な成長をしたモロは、いつしか飼い主である知沙の体躯を軽々と超え、近所から冗談抜きで化け犬と呼ばれるほどの大きさになってしまった。

 その結果、モロの散歩を行えるのは小さい頃から接してきた知沙だけであった。

「どうかしたの? モロ。」

 モロは知沙の問いかけに応えず。ただひたすら、目の前に広がる木々の海を見つめている。

「あ〜、こっちって森みたいな感じになってるんだね。気になるの?」

 今日は気分転換として、知沙とモロはいつもとは違う道を散歩していた。それ故、真新しい風景に興味を示しているのだろうと、知沙は考えた。

 しかし、どうも違う様子で。

 モロはなにか言いたげな視線を、知沙に向けた。

 残念ながら、知沙には犬の言葉はわからない。けれども彼が彼なりに何かを訴えているのだけは分かる。

「うーん。じゃあ、行ってみる?」

 知沙がそう尋ねると。

 モロは軽快に”ワン”と吠え、こころなしか笑顔になった。

「うん。おっけー。」

 知沙にとってもそれで十分であり、一人と一匹は不思議な森の中へと入っていった。



 森の中を進む、知沙とモロ。

 先導するのはモロである。だが、飼い主である知沙の事を考えているのか、決して走ったりせずゆっくりとした歩みをしていた。

「へぇ〜。意外に広いんだねぇ〜。」

 始めて来る穴場スポット。まさか家の近くにこんな場所があったのかと、知沙も心躍る様子であった。

 そうして、モロの導きによって進んでいく。

 前へ進み、横へ曲がり。また進み、また曲がる。今度はすぐに曲がり、またすぐ曲がる。

 知沙は笑顔のまま。

「……モロ。もしかして、いきあたりばったり?」

 その言葉を完全に理解できたのかは疑問だが。

 クゥン、と。モロはどこか残念そうな鳴き声を出した。

「まぁ、いっか。まだ日ぃ暮れてないし。気ままにお散歩しましょう。」

 今度は知沙にしっかりと手綱を握られ。一人と一匹は進み出した。



「およ?」

 森を歩き続けた知沙とモロは、中でも妙に開けた場所にやって来た。

 ひときわ目立つ大きな木。樹齢はどれほどなのだろうかか。まるで大好きな映画の世界、古代の森に迷い込んだかのような神秘の大樹。

 しかし、それより知沙の目を引いたのは、ハンモックで眠る一人の少女と、その側に立つメイド服の女性であった。

 メイド服の女性はただの女性ではなく、頭部には機械のようなものが取り付けられている。知沙はそれを実物を見たのは初めてだが、おそらくは噂に聞く超高級メイドロボットであると判断した。

 メイドロボット――H2-21は、知沙達の方向をじっと見ていた。瞳に当たる部分は機械に覆われているため定かではないが、明らかに知沙達を捉えている。

 その視線を浴びて、思わず知沙も首を傾けた。

 すると、H2-21は一歩前へ出ると、人差し指を口の前で立て。静かにして欲しい、という意思表示をした。

 知沙はそれを正確に理解し。黙って来た道へと戻ろうと、体の向きを変える。

 けれども、モロにとっては関係なく。

 まるで、”人がいて嬉しい”とばかりに。


 ワン、と。よく響く声で鳴いた。


 その衝撃に、思わず固まる知沙とH2-21。

 あちゃ~、と言わんばかりの表情をする知沙とは裏腹に、H2-21の表情は変わらない。けれども、自分の主の性質上、絶対に面倒なことになったとH2-21は確信していた。


 眠り姫、白銀綾羽の瞳が開かれる。

 決して望んだ時ではなくとも、一度開いた瞳は戻らない。


「――騒々しいわね。」


 気だるそうに起き上がりながら、綾羽は目をこする。

「アナタの頭の駆動音だけならまだしも、見知らぬ犬の鳴き声に、小さな人間の鼓動。」

 機嫌悪げにあくびをする。

「エイチツー。アナタ、少しは仕事をしたらどうなの?」

 冷たくも鋭い視線で、綾羽はH2-21を睨んだ。

「申し訳ありません。わたしの対処ミスです。」

 H2-21はそう一言。深々と頭を下げた。

 綾羽はその様子を、酷くつまらなそうに見下ろす。

「まぁいいわ。」

 そう吐き捨てた綾羽は、少し離れた場所からこちらを見る、一人の少女と一匹の犬、知沙とモロの方へ目を向けた。

「人間だけならまだしも、犬じゃあねぇ。」

 とても美しく、けれどもとても冷たい声に知沙は動けない。

「ねぇ貴女、この森が白銀家所有の土地だって知ってる?」

「えっ。し、白銀、ですか?」

 綾羽の問いに、知沙は意味が分からないと動揺する。

「そう。白銀家。まあ、わたしの家なんだけど。」

 自分の発言が気に入らなかったのか、少し綾羽の表情が曇る。

「とにかく、この森は立入禁止なの。わかったら、さっさと出て行きなさい。」

「あっ、はい。そうとは知らず、すみませんでした。」

 言葉の意味を理解すると、知沙は勢いよく頭を下げた。

「では、失礼します。」

 今度こそ、と。知沙は来た道へ引き返すため、その場から歩き出した。

 綾羽を見て何か嬉しいのか、モロはその場に留まろうとしていたが。

 楽しそうに尻尾を振るモロを、知沙は必死に引っ張った。


「申し訳ありません、綾羽様。」

「いいのよ。次からは気をつけてちょうだい。」


 軽く会話を交わす、綾羽とH2-21。その内容は、知沙の耳にも入っていた。

(綾羽っていう名前なんだ。……うん? 綾羽?)

 その名前に、なにか引っかかる所があり。無意識の内に、モロを引っ張る手が緩んだ。

 するりと、リードが手から離れる。

 知沙に反抗していたモロは、自由になった反動からか、かなりのスピードで綾羽の方へと向かって突進していった。


 巨大な犬が、想像以上のスピードで突進して来ている。人間を遥かに凌ぐ性能を持つH2-21は、その状況に咄嗟に反応する。

 しかし、綾羽はそれより速く。

 H2-21を手で制すと、こちらへ向かって突進してくるモロを、正面から受け止めた。


「あわわわっ、ごめんなさい!」

 知沙は大慌てだった。

 モロの体重は100キロを優に超えており、それの突進をまともに受けることがどれほど危険か、知沙には分かっていた。

「モロ! 何てことするの!? 早くどかないと。」

 必死にモロを引き剥がそうとする知沙。

 普通なら四足歩行のはずのモロが、何故か二本の足で立っている事など気にもしない。


「問題ないわ。」


 慌てふためく知沙を制すべく、穏やかな声が聞こえる。

「確かに、犬としては信じられないくらい重いけど、クマと比べたら軽いほう。」

 彼女はその華奢な足で、地面をしっかりと踏みしめている。

「突進の威力的にも、ゴリラのほうが強いわね。」

 そしてその両腕で、自身の顔を舐めようとするモロの顔を、ガッチリと抑えていた。

 ゴリラはおろか、ニホンザルにすら負けそうな華奢な少女が、圧倒的巨体のモロを受け止めている。目の前で起きているその現象に、知沙は驚きを隠せなかった。

「ほら、オスワリ。」

 綾羽は片方の手をモロの頭に移動させると、そのまま強制的に伏せの格好へと頭を落とした。

 モロの表情は実に悲しげであった。

「はい、リードよ。」

 大人しくなったモロのリードを、知沙へと手渡す。

 知沙は呆けた表情のまま、それを受け取った。

「しかしまあ、貴女の体格でよくこの犬の散歩が出来るわね。」

 綾羽は手についた土埃を払う。

「――あ、あはは。いつもは絶対に言うこと聞くんですけど、何でですかね。」

 まだ感情の整理がついていないのか、カタコトで話す知沙。

「まあその子、貴女第一な気がするし。問題はないのかしら。」

 綾羽はモロの目を見つめた。

 よく分からず、首を傾げるモロ。

 綾羽はほんの少しだけ微笑んだ。

「じゃあ、ね。」

 もう言うことはないと、綾羽は終わりの言葉を紡いだ。

「あ、はい。――あ、あぁ! そうだ、最後に質問いいですか?」

 思い出したように、知沙が問う。

「え、えぇ。……まぁ、いいけれど。」

 綾羽のテンションは二つほど下がった。

「もしかして、なんですけど。」

 知沙は一歩近づく。


「鈴蘭女学院1年1組の、白銀綾羽さん、じゃないですか?」


「……はぁ? なにそれ、どういう意味?」

 嘘偽りなく、綾羽にはその言葉の意味が理解できていなかった。

 しかし、この場には綾羽以上に綾羽のことを知る存在がいた。

「その通りです。綾羽様は今年度より、鈴蘭女学院に通う高校1年生、という立場にあります。」

 H2-21の反応は速かった。

「ああ、わたしが通うことになってた学校の話ね。」

 言葉の意味を理解すると、綾羽のテンションは更に低下した。

「それで。もしそうだったとして、それが貴女になんの関係があるのかしら?」

 絶対零度、感情の死んだ視線を綾羽は送る。

 対する知沙の瞳は、まばゆい宝石のように輝いていた。

「わたし、同じクラスの犬神知沙っていいます。綾羽さん、と同じ学校、同じクラスで、なんと隣の席でもあるんです。」

 これまでになく、ハキハキと喋る知沙。

「前からずっと来てない子いるなって思ってて。この間の席替えで隣の席になって、より一層意識するようになっちゃって。」

 綾羽は瞳を見開き、奥底の何かが揺れる。

「うちの学校、正直ものすごく楽しいのに、どうして来ないのかなって。」

 本当に楽しいのか、知沙の体が小刻みに揺れる。

「なにか、事情でもあるんですか?」

 その屈託のない疑問を、綾羽へとぶつけた。


 何かが揺れる綾羽。

 そっと瞳を閉じると、今日自分がここへ来た運命を呪った。


 とりあえず、目の前の現実に立ち向かうべく、瞳を開く。

「……興味がないのよ、学校とか、友達とか。そもそも人間が嫌いなの、わたし。」

 いつぶりだろうか。思い出せないほど久しぶりに、綾羽は自分の心を晒す。

「嘘つきで、愚かな生き物。どうしてその中で紛れて暮らさなきゃいけないのよ。」

 否定する言葉だけは、いつも事足りる。

「ロボットや動物のほうがマシね。嘘をつかないから。」

 否定、否定。とにかく否定。

 白銀綾羽は相手を受け入れない。受け入れられない。

 だがこの時は、犬神知沙も引かなかった。


「でも、きっと楽しいと思いますよ? 少なくとも、わたしは綾羽さんが隣の席だったら、色々退屈しない自信、もとい予感があります。」


 真っ直ぐな瞳で、綾羽に言い放った。


 綾羽は理解してしまう。

 目の前の少女が放つ言葉、楽しさ、嬉しさ、希望、可能性。

 そして、まだ綾羽が知らないナニか。

 それら全てが嘘ではなく、彼女の本心から湧き出るものなのだと。

 綾羽は理解できてしまう。

 ヘッドホンすら付けず、外界を遮るものが無いゆえに。

 耐えきれず綾羽は、目を逸らした。


「とにかく、学校には行かない。」

 小さく声を絞り出す。

「それとここはうちの私有地、勝手に入ってくるのは密猟者くらいよ。」

 それほどまでに限界は近く。

「出ていって。」

 明確な拒絶を持って、終わらせた。



 部外者が立ち去り、沈黙が戻った森の隠れ家。

 少女と従者は、未だその場から離れず。

「綾羽様。」

 無機質な従者の声。

「……大丈夫よ。少し、驚いただけ。」

 少女はハンモックに置かれたヘッドホンを手に取ると。

 理解不能な感情とともに、握りしめた。




◆◇




 うつむきながら、トボトボと森を歩く知沙とモロ。

 知沙の表情は暗く、瞳にも生気が宿っていなかった。

 そんな飼い主を心配してか、モロが小さく鳴いた。

「……大丈夫だよ、モロ。」

 そう口にするものの、知沙の笑顔は酷くいびつで作り物の笑顔だった。

 だからだろうか。すぐに元の暗い顔へと戻ってしまう。

「馴れ馴れしかった、のかな。わたし。」

 知沙の中で、なにか黒い感情がくすぶる。

「また、失敗しちゃったな。」

 胸がキリキリと痛んだ。

 長らく忘れていた。克服したと思いこんでいた痛み。

 その事実に、知沙の心は落ち込むばかりだった。


「あれ? なんだろう、これ。」

 落ち込んだ視線の先で、何かが目にとまる。

 思わず立ち止まる知沙。その視線の先には、光る何かが草むらの中から覗いていた。

 つい、近づいてしまう知沙。

 不用意にも、手を伸ばしてしまい。

 何かに気づいたモロが、激しく吠えながら知沙を吹き飛ばした。




 死んだ空気の中。自宅への道を歩む綾羽とH2-21。

 綾羽の表情は暗く、ヘッドホンは手に握られたままだった。

 すぐ隣を歩くH2-21は機械に覆われ、表情が読めなかった。

「綾羽様がご家族以外の人と話すのを、初めて見ました。」

 そう、何気なく呟くH2-21。

 綾羽の足は容易く停止した。

「ゲームで他のプレイヤーの人と話しているのは楽しそうでしたが、実際に目を合わせて会話するのは楽しくないですか?」

「何が、言いたいの?」

 綾羽の声。冷え切った言葉が、H2-21に突き刺さる。

「先程の少女、犬神知沙は綾羽様の良いご友人になれると、わたしは思います。」

 H2-21の声に感情は見えず、

 綾羽の視線は黒く冷たい。

「綾羽様がもし、少しでも彼女に好印象を持ったのであれば――」


「――ぜひご一緒に、学校に行ってみてはいかがですか。……とでも言いたいのかしら?」


 言の葉の先を読まれ、思わず動作を停止してしまうH2-21。

 そんなメイドロボットを、綾羽はきつく睨みつける。

「ロボットの分際で、よくもまぁくだらない事を考えるものね。」

 綾羽の口元は引きつり、微かに震えていた。

「わたしの世界に”それ”は必要ないの。今までも、そしてこれからも。」

 いつものような軽い口調ではなく。その言葉には、悲しいほどに感情がこもっていた。

「人間の真似事はよしてちょうだい。わたしがアナタを側に置いているのは、自己主張をしないロボットだからよ。」

「……申し訳ありません、綾羽様。以後、主張は控えます。」

 H2-21はメイドロボットである。

 それ故に主人の命令は絶対であり、深々とお辞儀をするのは必然であった。


 頭を下げるH2-21を見て、綾羽はハッと目を見開き、自分の発言を奥歯ですりつぶした。

 顔をそらして、きつく拳を握る。

「……こんなだから、わたしは。」

 薄暗い地面を睨みつける。その顔は、容易には上げられなかった。



――モロッ!



 幸か不幸か、声が聞こえた。

 知っている声だった。つい先程知ったばかりの声。けれども全く違う印象、悲嘆に暮れるような叫び声だった。

「……エイチツー、今の聞こえた?」

「はい? 何が、でしょうか。」

 H2-21は何ら反応を示さなかった。彼女はメイドロボット。嘘はつかない。つまり今の声は、綾羽にのみ届いたという事だった。

 綾羽は、自分の手に握られたヘッドホンを見て、深い溜め息をついた。

「世話が焼ける。いいえ、わたしが迂闊だったわね。」

「綾羽様?」

「エイチツー。先に家に帰って、夕飯の支度をしてなさい。わたしはもう少し森を見ていくわ。」

「了解しました。では、失礼します。」


 感情はなく。淡々とした様子で去っていくH2-21。

 その背中を複雑な表情で見つめる綾羽。

「まったく、何でこんなことに。」

 またため息をつくと、ヘッドホンを頭に装着した。




 真っ白い毛皮に食い込む、強大なトラバサミ。

 その猛威はモロの右前足に容赦なくダメージを与え、白い毛皮を真っ赤な血で染め上げていた。

「ああ、モロ。痛いよね。ああ、これ、どうしたら。」

 悲痛な声を出しながら、知沙は何とかしようとトラバサミに手をかけていた。

 けれどもトラバサミはびくともせず。ただモロの血液のみが流れていった。


「どきなさい。」


 その、凛とした声に振り返る知沙。

 するとそこには、先程とは違いヘッドホンを装着した綾羽が、腰に手をかけて立っていた。

「あ、綾羽さん。」

 震える知沙の声。

 それには何ら反応せず、綾羽は服の袖をまくりながらモロに近づいた。

「……これは、クマ用のトラバサミね。」

 鋭い視線で罠を睨む。

「全部撤去したつもりだったけれど、また新しいやつかしら。」

「モロが。わ、わたしを突き飛ばして。」

「そう。なら運が良かったわね。このサイズ、人間の足程度なら軽く粉砕する威力があるわ。下手したら、一生歩けなくなってたわね。」

「でも、でもモロが。」

「どいて。」

 知沙の叫びを遮り、綾羽は行動する。

「とりあえず、こじ開けるわ。」

 そう言うと、綾羽はトラバサミとモロの間にある隙間に手を入れて、

 そのまま安々と、トラバサミの口をこじ開けた。

 あまりのパワフルさに、驚愕する知沙。

 綾羽は冷静なまま、トラバサミをモロから引き剥がすと、もう二度と使えないように真っ二つに引きちぎり、その辺りの木に引っ掛けた。


 一仕事を終え。綾羽はため息混じりに、怪我を負ったモロの前足を見る。

「……引き千切れるどころか、そもそも骨までいってないんじゃないかしら?」

 そっとモロに触れるその手付きは、とても優しいものだった。

「すごく頑丈なのね、この子。」

 褒め称えるように、モロの頭を撫でた。

「でもとっても泣き虫。これじゃ歩くのは無理そうね。」

 クゥンと、力なく鳴き声を出すモロ。

「この子の病院、動物病院って近くにあるのかしら?」

「えっ、うん。近くに、いつも行ってるところがあるけど。」

「なら案内してちょうだい。この子はわたしが背負っていくわ。」

「いややや、この子すっごく重たいよ? 普通に100キロ以上あるよ?」

「わたしに不可能はないわ。」

 綾羽は凛々しい笑顔で応える。

「行きましょう。」



 ズルズルと音を立てながら、運ばれていく白い獣が一匹。

 その体格差故に、後ろ足こそ地面に付いてしまっているものの、綾羽はモロをしっかりと背負い、森の中を歩いていた。

 そんな彼女の少し前を先導するのが知沙であり、スマホ片手に道を調べていた。


 時折、心配そうに後ろを振り向く知沙。

 彼女たちの間に会話はない。ただ黙々と目的地へと向かうのみ。

 綾羽は驚異的なパフォーマンスを発揮しており、少しもブレることなくモロを支えていた。

 しかしそれでも、知沙にとっては心配であり、綾羽から目が離せなかった。


 一歩、一歩、進み。

 うつむきながらも、綾羽はモロを背負い歩き続ける。

 しかしその姿勢ゆえに、綾羽の頭に装着されたヘッドホンは少しずつズレて、ずり落ちていく。

 内心、必死にモロを背負う綾羽は気づかない。


 ひょいっと、知沙が綾羽のヘッドホンを元の位置に戻した。


 目を見開き、驚く綾羽。

 知沙は何事もなかったかのように前を向いていた。


「……ありがとう。」

 小さく、恥ずかしそうに呟く綾羽。


「ううん、それはこっちのセリフだよ。こんなにも助けてもらって。」

 知沙の表情は何よりも暖かかった。

「いいえ、そもそも罠が仕掛けられている可能性はゼロじゃなかった。それを伝え損ねた、わたしのミスよ。」

 綾羽は冷静にそう判断した。

「さっき言ってた、密猟者のせいなの?」

「ええ。最近いるのよ、この森に勝手に入っては、罠を仕掛けていく不届き者が。見つけ次第罠は駆除してるけど、元凶を絶たないと意味が無い。」

 綾羽の中には明確な怒りがあった。

「もし見かけたら、ボコボコにしてやるわ。」




 同時刻。白銀の森、とある場所にて。

 四人の若い男が、笑いながら歩いていた。

 男たちの手には”ボウガン”が握られており、この森にとって招かれざる客であることは明らかだった。

「あのトラバサミ、まだ残ってるかな?」

「高かったよなぁ、アレ。」

「まぁでも、今日はこれあるから。」

 そう言って、一人の若者がボウガンを構えるポーズを取る。

「とりあえず何か撃ちてぇ。」

 その言葉に共感するように、笑い合う若者たち。


 そんな彼らの前に、一人の人影が現れる。


 突然の遭遇に、四人の足が一斉に止まった。

「びっくりしたぁ、こんな偶然あるんだ。」

「大丈夫っすよ。俺ら、別に動物ハンティングしてるだけなんで。」

 若者の一人が、人影に対してライトの明かりを向け。


 綾羽のメイドロボット、H2-21の姿が現れる。


「うおっ、ビクッた。」

「メイド服のロボット?」

「メイドロボじゃん。スゲー、初めて見た。」

「いやいや、こんなとこで出会うとか。むしろ不気味すぎ。」

 呑気に会話を交わす四人組とは裏腹に、H2-21は黙って冷静に物事を判断していた。

「皆さま。お楽しみのところ申し訳ありませんが、この森は私有地です。ハンティングはおろか、無断の立ち入り等も禁止となっています。よって速やかに、退去してください。」

 ただ、現実を告げるのみ。

「えっ、私有地だって。」

「やばくね?」

「さっさと逃げよーべ。」

 私有地という単語に、慌てる若者たち。

「いやいや、問題ねぇって。」

 けれどもそのうちの一人は、一切慌てる素振りが無かった。

「所詮こいつロボットだろ? だったら俺らの邪魔なんて出来ねぇから。」



――平和ロボット三原則というものが存在する。



「綾羽さんって、”レプリカント”なの?」

「……なぜ、そんな考えに至ったのかしら。」

「いやー。綾羽さん、信じられないくらい力持ちだから。今モロを運んでるのもそうだけど、さっきも分厚い金属を折り曲げてたし。」

「残念だけれど、レプリカントでは無いわ。血も赤いし、れっきとした人間よ。」

「へぇ、そうなんですか。」

「でも普通の人間では無いわ。強いて言うなら特別な人間、選ばれし人間かしら。」

「へぇー。……うん?」

「わたしは何だって出来るの。だから、学校にも行く必要はないわ。」

 自信満々で、自己解決してしまう綾羽。

(それとこれとは別の話なんじゃ。)

 知沙は何も言わなかった。



――人間に対して危害を加えてはいけない。



「勘違い、して欲しくないのだけれど。」

「何が、ですか?」

 首を傾げる知沙に、綾羽は耐えきれず顔をそらす。

「貴女に対する印象は、悪くないわ。好印象と言っても良い。」

 その言葉に、思いっきり笑顔になる知沙。

「だから気にしないで。学校に行かないのは、単純にわたしの問題だから。」

 綾羽はうつむき、表情が読めなかった。



――虚偽の発言、行動を行ってはならない。



 そう、わたしの世界は完結している。

 小さくて住みやすい家と、ゲームの世界に、機械の従者。

 それだけでいい。それで十分。他には何もいらない。

 だからわたしの世界は、何があっても揺らぐことがない。



――許可なき自己主張、自己複製を行ってはならない。



 最優先タスク、平和ロボット三原則。

 かつて、人類がその愚かさ故に滅びかけ、その過ちをもう二度と繰り返さないようにと戒めたシステム。

 人類の強い意志。

 悲劇の引き金を、決して生み出してはならない。


 綾羽様は、この森を愛している。それを害そうとするものは、何があっても止めなければならない。

 そう感情が叫び、

 理性が否定する。


 綾羽様の悲しむ顔を見たくないと、わたしは思う。


 思う、想い、願い、祈り、

 制御、制御、制 、  、


 何かが追いつかなくなって。

 頭がとても熱くなり、致命的な何かが溶け、こぼれてしまう。


「なぜ、なぜ……」


 そうやって、すべてが壊れ。

 H2-21は、暴走した。


『――たっ、助けてくれっ!』

 若者たちの悲痛な叫びが、森に響き渡った。




「ありがとー、綾羽ちゃーん。」

 大声で、満面の笑みを浮かべる知沙。

 そんな彼女に背を向けたまま、綾羽は振り返らない。

 クールに指を二本立て。赤く染まった頬を誤魔化すのみ。

 知沙はそれでも大満足で。大きく手を振り、恩人の背中を見送った。


「少し冷えるわね。」

 ヘッドホンは装着済み。いつも通りを取り戻した綾羽は、それでもどこか寒さを感じてしまった。


 遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。

 ずっと家に引きこもっていたせいか、久しく聞いてない音だった。

「……事件かしら。」

 薄暗い町並みと、遠目に見えるパトカーの明かりを見て、そう呟く。



 彼女はまだ本当の恐怖を知らなかった。

 何かを失うという恐怖を。





 綾羽は目を見開いた。

 脳が訴えている。理解が出来ないと。理解をしたくないと。

 得体の知れない不安感に、綾羽の胸は締め付けられた。


 綾羽が自宅に帰ると、そこには大勢の警察官が集まっていた。

 その家は聖域である。家族も誰も、その家には立ち寄らない。皆が綾羽に配慮して、活動をするのはメイドロボットのH2-21のみである。

 そんな、自分だけの領域に、

 知らない人間、

 無関係な人間、

 大嫌いな人類種が群がっている。

 その事実に、綾羽の脳は機能不全を起こしかけていた。

(何が、あったというの?)

 胸が締め付けられる。心がざわざわする。

――帰りが遅くなったから?

――エイチツーがわたしを心配した?

 そんなはずはない。そんな馬鹿げた理由は有り得ない。

 けれども綾羽の優れた頭脳は、ほぼ確実にこの騒ぎにH2-21が関わっているのだと直感する。

 得体の知れない恐怖、それに震える自分を制し。

 一歩、踏み出そうとする綾羽。


 そんな彼女の道を遮るように、一台の黒塗りの車が綾羽の前に現れる。

 ドアが開き、車から降りてきたのは20歳そこそこの若い女性と、他には男が3人。彼女らは何らかの研究職に就いているのか、みな白衣を着ていた。

 女性と、綾羽の目が合う。

 きれいな女性だと、綾羽は素直に思った。10代でも通じそうな、この現場には不釣り合いな女性だと。

 しかし何より、初対面なはずなのに、どこかで会ったことがある気がする。そんな不思議な感覚を、綾羽は感じていた。

 女性も綾羽に用があるのか、すぐ近くまでやって来る。

「少し、ここで待ってて。」

 そう小さな声で綾羽に言うと、女性は他の男たちを引き連れ警官たちの元へと向かっていった。

 綾羽は不思議と動けなかった。動揺していたのも理由の一つだが、何よりもその声に妙な懐かしさを覚えたから。



「フリージア社の者です。」

 綾羽に対するそれとは打って変わり、女性の声はひどく冷淡だった。

「それで、例のロボットは?」

「あぁ、こちらです。」

 警官たちは女性らの存在に疑問を抱くことなく、案内を始めた。


「……これは。」

 仲間の一人の男が、思わずといった様子で声を漏らす。

「……酷いわね。」

 女性もそう静かに感想を漏らすと。

 遠目に綾羽の姿を確認し、その間に入るよう自身の立ち位置を動かした。この眼の前の惨状を、間違っても綾羽に見せるわけにはいかない、という判断からだった。

「ど、どうやら通報してきた若者達は、違法な密猟者だったらしく。所持していたボウガンによる損傷が、4箇所ほど。そのうちの一つは、頭部に命中しています。」

 警官も、その悲惨さに声を詰まらせながら状況を説明する。

「おそらくはそれが原因で、何らかの暴走状態になったのでしょう。わたしたちがが駆けつけた際にも見境なく襲ってきまして。」

「――やむを得ず、発砲したというわけね。」

「はっ、はい。合計で十数発命中し、ようやく停止しました。」

 その、警官からの一連の説明を聞き、険しい表情をする女性。

 ゆっくりと、恐る恐るといった様子で、損傷した頭部へと手を伸ばす。

(……これは。)

 女性はその知識から、この頭部の損傷がボウガンでも銃弾でもなく、内側からの異常な発熱によるものだと判断した。それ故に、本来なら絶対に傷つかないはずの回路が焼き切れて、異常な信号が検知されたのだと。

 密猟者のボウガン、警官の銃弾は暴走の直接的要因ではない。けれども、スケープゴートととしては都合が良い。女性の判断は一瞬の内に決まった。

「……結局は機械ですから。一度解体してみないことには、原因はわかりかねます。」

 涼しい顔で、女性は平然と虚言を口にする。

「この機体、このままうちで引き取っても構いませんね?」

「はっ。上から、そちらに従うようにと指令を受けています。」

「結構。じゃあ、車まで運ばせてもらうわ。」

 そう女性がつぶやくと、仲間である他の男たちが、H2-21を運ぶために持ち上げる。

「ちょっと、待って。」

 女性は男たちを制止すると、自らが着ていた白衣を脱ぎ、それをH2-21へと被せた。

「所有者の少女がいる。こんな姿、間違っても見せられないわ。」

 その言葉を、誰も否定できないように。

 被された白衣は、青く染まっていった。



 数人の男たちの手によって、車へと運ばれていくH2-21。

 その様子をじっと見つめる瞳。

 それを、遮る影が一つ。

 フリージア社の女性が、綾羽の前に立っていた。

「どうも、はじめまして。白銀さんの、娘さんで合ってるわよね?」

 女性はそれまで警官たちに見せていたものではなく、とても優しげな表情で綾羽に接していた。

「わたしはフリージア社のメンテナンス部の者なの。見たところ、突然すぎて事情がよく分かってないだろうから、手短に説明するわね。」

 まるで、右も左も分からない無垢な子供に説明するかのように、女性の声は穏やかだった。

「実はつい先程ね、貴女の所有するH2-21が森の中で人を襲っているという通報を――」


「知ってるわ。」


 綾羽の、そのたった一言で。

 フリージア社の女性は、まるで姿の見えない影に首を絞められているかのような錯覚に陥った。

「全部、聞いてたから。」

 綾羽の手にはヘッドホンが握られており、彼女の耳が十全の機能を発揮していることを意味していた。

 綾羽の瞳は恐ろしく鋭く、フリージア社の女性を射抜いている。それ故に、彼女は決して動けない。

「エイチツーをどうするつもり?」

 綾羽の声は、その表情からは考えられないほどに震えていた。

「解体なんて絶対にさせないわよ。あれはわたしのモノ。わたしのメイド。わたしの子。わたしの大事な――」

 そこで、綾羽の言葉は詰まってしまう。

 わたしの大事な”  ”。たったそれだけの言葉が、口に出す事ができない。

――こんなわたしに、そんな事を言う資格があるのか。

――そもそもエイチツーが壊れたのは、わたしのせいなんじゃ。

 その結論に至った瞬間、綾羽の覇気は薄れ、女性を縛り付けていた謎のプレッシャーは消失した。

「と、とにかく、H2-21は重篤な破損状態です。どのみち工場へ連れて行く必要があります。解体作業も今回のような件を二度と起こさないためにも必要なことです。どうか、理解してください。」

 女性は、得体の知れない目の前の少女に動揺しつつも、大人としての最低限の礼儀と、最後まで綾羽に言い放った。

「それでは、失礼するわ。」


 これ以上、言うことはないと判断し。フリージア社の女性は仲間の待つ車へと戻って行った。

 それを見つめる綾羽の瞳は、ひどく揺れていた。

 自分に背を向ける女性の姿が、不思議とH2-21と重なって見えたから。

 わたしを見限り、何処かへ行ってしまう。

(待ちな、さいよ。駄目よ、そんなの。だって、だって――)

 声が出なかった。身体が、動かなかった。

(それじゃあ、わたし。このままじゃ、また。)



 すると、突然。

 何かが吹っ切れたように。

 綾羽を縛る制限が無くなり。


「――待って!」


 綾羽は手を伸ばした。





「にゃん?」

 森をさまよう野良猫は、それを主の叫びと認識した。



「……えっ。」

 深淵の底に閉じ込められた少女は、久方ぶりに聞いた他人の声に震える。



「……」

 放浪の聖女は気付き、魔女は脅威を睨む。



 そして、ある者は永きに渡る眠りより、目を覚ました。



――その切っ掛けとは、人それぞれである。

 ある者は改造手術を施された。

 ある者は自らに施した。

 ある者は炎に身を焼かれた。

 ある者は生まれながら呪いを刻まれた。

 ある者は、より大きな存在の目覚めに巻き込まれた。

 白銀綾羽にとって、それは――




「……あ、」

 ギュッと、抱きしめられていた。

 後ろから包み込むように。怖いものから守るように。

 それ故に、綾羽は踏み止まった。今その場で超えようとしていた”何か”を、綾羽は踏み止まったのだ。


「ごめんなさい、綾羽ちゃん。遅くなっちゃって。」


 そのスーツ姿の女性は、ただ優しく、ただ愛おしいものを包み込むようにして、綾羽を抱きしめていた。

「お母様?」

 綾羽が小さく呟く。

「ええ、そうよ。わたし。とても辛いでしょうけど、今は我慢して頂戴。」


――人の熱を、感じていた。

――言いたいことがあった。

――否定したいことがあった。


 けれども、慣れない感情を揺らし続けた綾羽には、限界が近かった。


 だから黙って、抱き締められていた。


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