第44話
あの時からもう二年が過ぎた、とある公演の日。
ジャンボはチョコとバニラに招待されて劇場を訪れていた。
その隣にはあの彼女もいた。
チョコやバニラと手紙でやり取りする中で、ジャンボは彼女のことも話していたのだ。
その後、帰省した彼らに散々からかわれたが、二人はどこか嬉しそうでもあった。
「ジャンボってやっぱりモテるんだよ」
バニラがそんなことを言った。
ジャンボはついあの食堂で泣き叫んでいたバニラを思い出してしまう。
けれど、そんな影はもう彼にはなかった。
たったの1年で彼らはずいぶん精悍な顔つきになったようだ。
「俺の話もいいけどさ、お前たちの話も聞かせてくれよ」
そんなこんなで、帰省の時や手紙でのやり取りで、三人はお互いの近況をいつも知ることが出来た。
チョコもバニラも、周囲から太鼓判を押されながら武生を選んだと聞いた時、くすぐったいような気持ちになった。
18才でこの道に入るなんていうイレギュラーを散々バカにされたらしいが、身体能力があまりに高く、すぐにバカにしてた奴らは黙ったらしい。
幸運にも、仲がいい同世代の友人も出来た。
ただ、発声、歌唱の方は全くの無知のまま入ってしまったため、かなり苦戦したとか。
……ジャンボはその苦労が分かるだけに、少しだけでも教えてやればよかったと後悔した。
それもあって、やっとジャンボが招かれたのは、彼らの入団から二年後のことだったのだ。
おせっかいな二人はチケットをにやにやしながら二枚送ったのだろうなと、ジャンボはため息をつく。
不思議なことに、チケットには演目名だけが記載されていなかった。
「おたのしみに!」と、チョコの無駄に達筆な走り書きが添えられていた。
悪だくみする二人の顔が眼前に浮かび、ジャンボは苦笑いした。
冬の公演だったので、吐息は白く凍りつき、指先まで凍えていた。
ふと、隣の彼女も同じように手をさすっていたので、ジャンボはその手を取った。
「少しは温かいかもしれませんよ」
「……こういうことは簡単にできるんですね」
ジャンボは笑って誤魔化した。
チョコとバニラの手も温めたんだよなぁ、なんて思い出してることを伝えたら、きっと台無しだ。
そして二人で劇場の中へ入る。入り口に、上演予定が書かれた看板があった。
今日は短めのをいくつかやるらしい。ジャンボはひとつひとつ、小声で読み上げてみる。
「武松打虎」、「三岔口」……二年前の、校舎での光景を思い出して溜息が出る。最後に「盗仙草」【※11】があるのが、あの日との違いだった。
─────────
【※11】 「白蛇伝」の一幕。ヒロインの白素貞が夫を救うために、神仙世界の霊草をめぐって番人の鹿童・鶴童と戦う。
─────────
どれも役者の立ち回りが主となる芝居であった。
ここに来て演目さえ分かれば、チョコとバニラが何をやろうというのか見当がつくかと思ったのだが、当てが外れた。
いい時間になったので、招待席へと座った。あの因縁の豪華な席である。
チョコとバニラの差し金だろう。盛られたフルーツに旗のようなものが掲げられ、やはりチョコの字で「
ジャンボも彼女も同時にやれやれと笑う。
「少し気が早いですね」
「まぁ、私はあなた次第でいつでも」
「本当ですか?明日でも?」
「仕事の都合くらいは考えてもらいたいですね」
そんな会話をしながら二人は開演を待った。
劇場は暖かかったが、なんとなく二人は手を繋いだままだった。
壇上の幕が引かれて、役者が現れる。
ジャンボは目を凝らして舞台上を探した。何人か顔見知りの役者を見たものの、チョコとバニラは一向に現れない。あっという間に最後の「盗仙草」になってしまった。
おい、おまえら。もうこれしかないぞ。まさか……。
けたたましく打楽器が打ち鳴らされて、ジャンボの意識は引き戻された。
間もなく、舞台には白い衣装の青年が羽ばたくように躍り出た。
ジャンボは息をのんだ。
バニラがたった1人で舞台の中央に立ち、
きっと壇上にはもう何度も登っていただろう。でもここまで注目される役は初めてなはずだ。
ジャンボはこの場の誰よりも緊張していたかもしれない。
すぐに察した隣の彼女は、ジャンボの手をしっかり握り、そっと聞いた。
「もしかして、お子さん?」
「ええ……バニラと呼んでいた息子です」
彼女も緊張に包まれて、つい彼の演技を真剣に見つめてしまった。
ジャンボは重要なことに気が付いた。脇役とはいえ、この劇の見所は彼ともう一人の武生が扮する
二人とも上手くいってくれと、ただそれだけを祈った。
鶴童は舞台袖へ手招きをした。すると茶色い衣装の役者が勢いよく飛び出した。
鹿童だ。予想していたことだが、いざ目の当たりにすると動揺するものだ。
化粧をしていても、歩き方のクセや背格好、なによりその表情で、ジャンボにはわかってしまう。
「チョコだ……」
彼らが二人で演技をしている。片や野山を駆け回る鹿の如く、片や空に羽を伸ばす鶴の如く、それでいながら息はぴったりだ。
ジャンボは緊張で逃げ出したいくらいの気持ちを抱え、その反面、彼らの一挙一投足を見逃さないよう、まばたきさえも億劫に感じていた。
看仙山別様風光
日映霓霞 鳥弄笙簧
碧池畔瑶草芬芳
紫岩下有霊芝生長
看両峰相接処 白雲来往
襯托那繞琳宮古柏青蒼
──仙山を見れば格別の景色
日は虹色の霞に映えて 鳥の歌声は笙のごとし
碧池のほとりに美しい草が香り
紫岩の下に霊芝が育つ
二つの峰が合わさるところ 白雲が行き交い
寺院を取り巻く年経る柏の青さを際立たせる
二人の合唱は見事だった。ここは、勢いよく動きながらの歌唱だ。
不安があると言っていたが、彼らは堂々と歌った。ジャンボはその演技に釘付けになった。
舞台上の彼らは、あの二人だとは思えないほどに、正確に俊敏に、舞台の上を駆け回る。
チョコもバニラも、あんなにぼやいていたのに、そんなことを微塵も感じさせないような振舞いだった。
セリフ部分も中々決まっており、ジャンボはうなった。そしてもう一度、二人そろっての歌が響く。
俺宝剣閃寒光
守護着清浄壇場
休譲那妖魔擅闖
──我らが宝剣は冷ややかに閃き
清浄なる戒壇を守る
妖魔のごときに好き勝手はさせぬ
二人はびしりと見得を切った。
ジャンボは初めて観客として彼らに叫んだ。
「
一瞬、たった一瞬だけだが、二人が同時に笑顔になったように見えた。
しかし、彼らはもう役者なのだ。すぐに次の立ち回りを始め、他の観客からも拍手を得ている。
ひいき目だろうか。殺陣も小道具の使い方も、一流の役者に見えてしまう。
もう20才を迎えた彼らは背格好も声も演技もなにもかも、京劇の劇団員に他ならず、ジャンボには素晴らしく見えた。
顔なじみなのに申し訳ないが、今出てきた主役の
きっとひいき目だ。分かってる。でも本当に嬉しかった。
そこら中の観客に「あれ、俺の息子なんですよー!」と自慢して回りたいのをグッと抑えて、ジャンボは優しく微笑み、彼らをずっと見ていた。
その横顔を見て隣の彼女がちょっと照れたのはまた別のお話。彼らはなんだかんだ同じ気持ちで舞台を見つめてしまうような、不器用で優しい二人だった。
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