第41話
車をおりて稽古場に近づくにつれて、やはりジャンボの記憶は波のように押し寄せて、かなり鮮明になっていった。
あの声やあの音の正体を自分は知っている。
ジャンボは自問自答した。怖いか、と。答えは、もう怖くない、だった。
役者が先導し、その後をジャンボが着いていき、さらにその後ろをチョコとバニラが歩いた。
稽古場は暑さ対策のためにもドアを開けっ放しにしており、四人は中には入らなかったが、外からその様子を眺めることが出来た。
「あの人、先生に似てないか?」
「な!そうなんだよ!俺もずっと思ってたんだよ!顔も声も似てんだよなぁ。優しい人なんだけど」
大人二人はなにやら盛り上がって、あの動きをあの年齢で練習するのかだとか、感心したり謙遜したり、京劇の役者としてずっと話しているように見えた。
ジャンボは本当に京劇の役者だったんだなぁ、なんて、今更チョコとバニラは強く思った。
そして、自分たちよりも年下の子達が軽々と、体を自由に使って飛び跳ねるさまに驚く。
まるで6才のジャンボがあの養成学校の中を初めて見た時のように、驚きと自分に出来るかという葛藤と、なにより憧れを感じていた。
「どうだ?稽古の様子、初めて見たんだろ?」
役者はチョコとバニラに声をかける。
二人はもうすっかり魂を奪われた様子で、あれがすごい、これがすごいと、随分マニアックな褒め方をした。
それを聞いて役者はニヤニヤしながらジャンボを見る。
「なんだよ」
「いや、別に。やっぱりお前は京劇の役者なんだなぁって」
「おだてても、俺はもう戻らないぞ」
「でも魂は一緒だ」
役者はそろそろ移動するか、と不服そうなジャンボを置いて車の方に歩いた。
チョコとバニラはもっと稽古の様子を見ていたそうだったが、また今度なとジャンボは二人の背中を押した。
もしかしたら、自分の背を超えてるかもしれない背中を。
車に集まった四人は宿舎の方へと向かうため、また車に乗り込む。
別に徒歩でも行ける距離らしいが、車を移動させときたいと役者が言った。
「ものぐさめ」とジャンボが言うと「人生賢く生きたもん勝ちだ」なんて言いくるめられている。
そして、停車した車から四人はおりて、思っていたよりも綺麗で大きな宿舎の姿を見た。
「この中はパンフレットにあった通りだ。3人とも見たか?」
「ああ、大丈夫だよ」
役者とジャンボは頷いて、そして、彼らの視線はついにチョコとバニラに集まった。
「チョコ、バニラ。大事な話がある」
宿舎の駐車場に停められた車の外で、ジャンボは今までにないくらい、真剣な目をした。
それはきっと子供と大人ではなく、対等な人間としての目だった。
「もしも、お前たちが京劇の世界へ行きたいなら、今日からここの劇団がお前たちを引き取ってくれる。宿舎の部屋も、もう用意してある」
チョコとバニラは心臓が止まりそうになった。
なんとなく、今日1日ずっと感じていたソワソワした空気の正体を、やっと掴んだ気がした。
「そんな、急な……」
バニラはせめてもの抗議に、弱々しい声を出す。
ジャンボは困ったように笑った。
「もしも俺と家で話してたら、お前らの決心がその分鈍っただろ?」
本当にその通りだった。
今、この場で選ぶという状況でなければ、なんやかんや後回しにして、三人で暮らす方を選んでしまうだろう。
そんな予感がする。
あの四合院の中でジャンボに聞かれたら、もしも京劇の鑑賞後でなければ、きっと自分たちは変わらない日常を選んでしまっていた。
だって、楽しいから。
三人でいるのは本当に楽しくて、最高で、色んなことはあったけど、それを越えるほどに素敵で。
「……ジャンボは、俺とバニラが京劇の役者になったら嬉しい?」
チョコは真っ直ぐ問いかけた。
ジャンボは頷き微笑んだ。
「俺はお前らが幸せになるならなんでも嬉しい。けど、それが京劇なら、きっともっと嬉しいよ」
「じゃあ、俺、やるよ」
バニラは驚きチョコを見た。
いつもは決断力もそう強くないチョコは、真っ先にジャンボへと言った。
「ジャンボがすげーって言うよな演技、俺たちでやってみたいんだ」
俺たち、とチョコは言った。チョコの世界には当たり前にバニラがいる。
それは、そんなことはバニラだって当たり前だった。
「俺もやる。ずっと考えてたから。ジャンボはどうして京劇を避けるのかって」
バニラはドキドキしながらも、それをおさえるように胸に手を当てて、ジャンボに言った。
「ジャンボが諦めなきゃいけなかったものも、落としてきちゃったものも、全部俺たちで少しずつ拾っていきたい。京劇のことちゃんと分かってるわけじゃないけど、代わりになれるわけじゃないけど……とにかく好きなんだ。
ジャンボが教えてくれた全部も、それ以外も、とにかく好きなんだ」
ジャンボは少し驚き、そして優しい顔で笑った。
「ありがとう」
ジャンボは二人を宿舎の管理人に引渡し、役者の運転する車の助手席の前に立つ。
ジャンボは言った。
「俺のためとかそんなこと、嬉しいけど、そんな事のために無理するんじゃないぞ。楽しくないと思ったらすぐ帰ってきたらいい。自分たちが幸せになれる道を探してくれ。
それが今の俺にとっては、本当に、なによりも一番幸せなんだ」
ジャンボは泣かなかった。
だから、チョコもバニラも泣かなかった。
「分かってる。学校だってすぐ逃げだしてたんだからさ。無理なんて絶対しないよ。
そうしなくても楽しいって、もう分かってるから」
「でも寂しくなったら帰るよ。ってかもう寂しい」
「おい、チョコ!」
バニラは情けない発言に少し怒ったが、チョコは笑った。
その姿を見てジャンボも笑う。
「いいよ、いつでも帰ってこい。俺はあの四合院でずっとお前らのこと待ってるから」
三人はそれぞれ頷いた。急な別れではない。
なんとなくチョコとバニラも、どこかで予測してた。
だから泣かない。こんな所で泣いてたらこの後もっとたくさん泣いてしまうから。
なのに、情けない大人代表のジャンボは、涙を一筋流した。
「一旦、お別れだ。お前らの公演絶対見に来るからな。頑張れよ」
大人が泣いているのだから、子供が我慢する道理はない。二人はやっぱり涙が零れて、あとはもうただ頷いた。
ジャンボは手の甲で自分の涙を拭い、笑って手を振った。
チョコとバニラは泣きながらも手を振り返した。
そして、ジャンボは助手席に座り、ドアを閉めて走り去ってしまう。
「必要なものは後から送るらしいですよ」と管理人に声をかけられた。
チョコとバニラは素直に頷き、それぞれ夢の本拠地へと歩き出す。
またいつでも会える。
ただ少しだけ、今は夢を追いかけてみるだけだ。
失敗したとしてもジャンボがいる。
あの四合院にいつだって帰れる。
そんな言葉がはっきりと二人の心に浮かんでいた。
森に置き去りにされたのではない、縛り付けられて孤独の時間を過ごすのでもない。
ジャンボは必ず待っていてくれるから。
だから二人はもう、先のことだけを考えることにした。
部屋を案内されて、他の宿舎のメンバーに紹介されて、少し技能のレベルを見たいなんて言われて、初日なのに大忙しだ。
チョコとバニラはヘトヘトになりながらも、今まで学校で勉強していたよりも、充足感を感じた。
これからもきっと、楽しい日々になる気がする。
そんな予感を感じていた。
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