第40話

 公演の日、ジャンボは静かな心で準備を整えていた。

学校に通うという日課が無くなったチョコとバニラはどこかダレていたが、それでもこの日を心待ちにしていたので、やっぱり今日ばかりはシャキッとしていた。


 そんなに着飾ることもないのだが、つい身だしなみを気にしてしまう。

それほどまでに、チョコとバニラの心の中で、京劇は特別なものになっていた。



「一度も連れていったことないのに、どうしてそんなに楽しみにしてるんだ?」

「ジャンボのルーツだから」



 18才、のはずだよな、なんて思いながらジャンボはその真っ直ぐな笑顔を受け取った。

もっとひねくれてもカッコつけてもいいような歳のはずだが、彼らはずっと彼らのままで、逆にジャンボの方がキョトンとしてしまう。

ジャンボはとにかく子供でいられる時間が少なかった。

チョコとバニラはどうなのだろう。

そんなことを考えながら、三人でトロリーバスに乗った。


 幼い頃は座席に登って外を見ようとしていたが、今はさすがにそんなことはないな、と気が付きジャンボは笑った。



「なんか今日、機嫌良さそうだね」



 バニラは笑ったが、ジャンボは思わず聞き返してしまう。



「俺が?」

「そうだよ。もっと険しい顔になるかと思ってた」



 ジャンボの京劇に対する思いは決して一言では言い表せない。

たしかに自分でも、今日へのためらいや抵抗があったように感じた。

なのに今朝からずっと、心は驚くほどに静かだ。

バニラはそれを見抜いてるらしかった。



「なんだろうな。もちろん一人じゃ観に行かなかったと思うよ」

「せっかく京劇の人だったのに。しかも今じゃ映画の人なのに、なんかそれ寂しいな」



 チョコが言った。ジャンボは頷いた。

バニラはそこまでの明言はしないタチなので、なんとなく視線を逸らした。


 バスは目的地へと辿りつき、三人は公演の会場まで歩く。



「あの人も公演に出てんのかな?」

「うん、らしいな。老生ラオション【※9】 ……って言っても分からないか。シンプルなメイクだから見ればあいつだって分かると思うよ」

「老生かぁ。じゃあ主人公っぽいのかな。武生はどうかな?立ち回りがすごいの見れるかな」

「俺は浄の役の人の隈取りも楽しみだな。自分で描いてるって知った時すげぇ!って思ったもん」



─────────

【※9】京劇の役柄の一つ。多くはヒゲを蓄えた壮年~高齢の男性を演じる。

─────────



 ジャンボは言葉を失って二人の会話を聞いていた。

もちろん、二人に京劇のことを教えこんだりなんて一切していない。

三人で立ち回りの練習をしたこと以外に、彼らはジャンボに聞くこともなかった。

なのにどうして。



「お前たちさ、まさか……」



 ジャンボが言いかけると、二人は大いに慌て、わざとらしい声で話した。



「いや!初めての京劇すごい楽しみ!!!」

「な!京劇ってどんなのか分かんないしな!!!」



 ジャンボはしばらく黙り、二人に言った。



「嘘が下手じゃ役者にはなれないぞ」



 二人はピシッとかたまり、もう誤魔化そうともせず、とぼとぼジャンボについて行く。

きっと二人はもう何度も、ジャンボに内緒で京劇を見に行っていたのだろう。

たしかに立ち回りを教えるとき、覚えるスピードが早すぎるとも思ったが、京劇を知ってるような素振りは一切なかった。


 とんだ役者だ。何年隠されていたのだろう。

その間だってきっと彼らは、聞きたいことも沢山あったはずなのに、完璧に騙されてしまった。


 ジャンボは額を抑えて笑い「この野郎ども」と、悪態をついた。

バニラは知らんぷりを決め込もうとしたが、チョコは特攻タイプだ。



「だってジャンボが嫌がってたから。京劇の話ちょっとでもしようとすると悲しそうだったから……」

「分かってる……分かってるよ」



 ジャンボはもう背も変わらない二人の頭をぽんっと撫でた。



「すっかりしてやられた。全くそりゃぁ、素質があるわけだ」



 何の話?とチョコが聞いたが、ジャンボは意地悪く笑ってそれ以上は何も言わなかった。

バニラは気まずそうにしてたものの、ジャンボが今日の劇について詳しく説明し出すと、やはり嬉しそうにしていた。

聞いてくれれば答えたのに、なんて思うのはきっと今だからだろう。


 三人は会場を見つけ、三人でその中へ入っていった。

静かな通路にパンフレットを配る人や、ちょっとした記念品の売り場もある。

ひとまずそこを抜けて、無言のままに招待席へ歩いていった。


 すると本当にVIPのような人が座る大きなくつろげる椅子と、果物の盛り合わせまでおいてあったので、三人はたじろぐ。

あいつなにもここまでしなくとも。

しかし、三人はちょこんと椅子に座った。

ここまで来たら腹をくくろう。ジャンボは特にそう心に決めていたから。


 もう20年以上も見ていない、舞台の幕がおりている。

あの幕の内側にいた頃がふと鮮明になる。

どんな段取りをしているか、会話をしているか、楽屋の空気まで思い出す。

ぼんやりとするジャンボに、バニラが「大丈夫?」と尋ねた。

ジャンボは頷いた。


 もう公演が始まる。

ジャンボが受け取っていたのは、ふたつの演目のチケットだった。

ひとつは、長らく上演されることのなかった「覇王別姫」【※10】 だった。

これなら分かりやすいし、鑑賞初心者(実はそうではなかったわけだが)の二人も楽しみやすいだろう、とジャンボは踏んでいた。



─────────

【※10】楚の項羽と愛妾・虞美人の悲劇を描いた演目。

─────────



 問題はふたつ目だった。

チケットには「紅灯記」の紅い字がくっきりと印刷されていた。ジャンボが特に見ないようにしてきた、様板戯──もとい、現代京劇だった。


「同時上演だぜ」とあいつからは聞いていた。

「それじゃあ、上の意志に反するんじゃ……」なんて呟いた自分の声に、仲間はその言葉を待っていたと言うように笑った。


 なぜずっと、覇王別姫という劇が演じられてこなかったのか……。それもあの時代の波に飲まれて否定され封じ込められてしまったせいだ。


 その時からずっと自身でも逃げて避けてきた京劇を、それも今だからこそ生み出された新しい京劇と続けざまに見る。

ジャンボはずっと、あの仲間の声が頭から離れなかった。

そしてついに壇上の幕が上がる。

在りし日の自分を取り戻しかけて、ジャンボは一際没頭して見ていた。

そんなジャンボを子供たちも嬉しそうにみながら、舞台に集中した。


 「項羽役な。あいつは「あの時代」、何年もひとりで稽古してたんだ」と、旧友が言っていたのを思い出す。

久しぶりにやる芝居とは思えない覇気だった。

項羽が悲壮に叫べば、劇場全体が震えた。

虞美人ぐびじんが舞うと、その優美さに見とれた。


 客は一生懸命に「ハオ!」と声援を送る。

この芝居は、誰が見ても大成功だ。チョコもバニラも、立ち上がらんばかりの勢いで拍手していた。

ジャンボは本当にうれしかった。


 短い休憩をはさんで、いよいよ次の演目がはじまる。


 いわゆる伝統劇と、現代京劇を同時に上演するのだ。伝統劇……ほんとうはこの言い方もしたくないとジャンボは思っていた。

こっちがもとからあったのだから、現代劇を軸としたような呼び方をわざわざする必要なんかない。

伝統、なんてつまらない二文字で語られることに、違和感と多少のむなしさを感じた。


 けれどもやはり、現代劇との区別は必要だ。アレは革命の大義を解くために演じられた劇なのだから。

なのにそれを、これまでの「芝居」と同時に上映し同じく扱う、客が「おもしろがる」ものをやる、と言っているのだ。

上の意図を伝えるためじゃない。


 それでもジャンボはハラハラしながら、舞台と客席の両方を見ていた。


 しかし、それは杞憂だった。京劇としての、芸術としての「おもしろさ」を見に集まる観客の数と熱は凄まじかった。

主役が出てくると、先ほどと同じように客席は盛り上がっている。

その主役とは、ほかならぬあいつ、ニヤニヤしながらジャンボにチケットを送ったあの旧友である。


 ジャンボはちらっと子供ら二人をうかがってみた。唖然としている。無理もない。

伝統劇と違いすぎるのである。現代京劇はメイクも衣装も地味だ。というか、普通の人民だ。

衣装なんかは多少の装飾があるが、先ほどの項羽の重厚な鎧、虞美人の美しい髪飾りを目にした後では、ほとんど普通の服に見える。


 そしてジャンボが最も受け入れがたかったのが「ことば」の違いであった。

京劇の舞台で発せられる言葉は少し古い時代の発音で、まさに「芝居がかった」文語的な言い回しをする。難解だが、典雅だった。

ところが現代京劇は「現代的」だ。うたもセリフも現代語、しかも口語的なのだ。

誰が聞いても理解できるように。


 でも、そんなのは芝居じゃない。京劇じゃない。


 何年か前、ラジオから流れる何かの一節を聞いてから、ジャンボは頑なにそう思っていた。

そうこうしているうちに舞台袖で打楽器が打ち鳴らされ、胡琴フゥチンが鳴く。

あいつは堂々と胸を張って、前の方へ歩を進めてきた。

彼の顔がよく見えるようになると、ハッとした。

歌いだしに向けて、力をためているのが分かったからだ。


──ああ、あいつは「役者」なんだ。


次の瞬間、怒号にも似た歓声が沸いた。


『京劇は生きている』


 その目で衰退を見るのが怖かったはずなのに、劇は大盛況だった。掛け声も飛び交った。

こんな未来が来ることなど17才の時は想像もできなかったのに。


 正直言って、現代劇はどうしても好きになれない気がしている。

実際に目にしても他の観客のように賞賛できるほど覚悟は決まらなかった。

でも確かにこの時、ジャンボの中で現代劇は数ある演目のひとつ、京劇のひとつになった。


 演じていたのがきっと、かつての仲間だったから。それも現代劇を京劇と認めた大きな要因の一つ……というよりそういう運命に飲まれてみた事が、凍りついたトゲを少しだけ溶かしたのだろう。

そもそも自分1人では近寄りもしなかったはずだから。

現代劇の演劇としてのよしあしなんて、外野になってしまった自分には判断はできない。

そもそも芝居の価値は、観客それぞれの心に委ねるものだ。


 ただ、「思いもしない形で京劇は残り続ける」そうあの夢の中で聞いた力強い声を思いだしていた。


 ジャンボはずっと真剣な眼差しを舞台に向けている。

その隣で、そんなジャンボの姿を見てチョコやバニラも本当に嬉しそうに、京劇をみていた。

もうコソコソしなくても、三人で見れると分かったから。


 劇は大盛況の中に終わった。

こんな空気を肌で感じたのも本当に久々だった。

ジャンボは感情の波に飲まれそうになりながら、ずっと人がはけていく舞台を見つめていた。


 もし、もしもあの時、自分が学校を飛び出さなかったら。

あの舞台にのぼっていたのはもしかしたら。



「すみません、江柏さんですか?」



 ドキッとして横を見上げると、スタッフらしき格好をした男性が、ジャンボの顔の横に立っていた。



「ええ……そうです」

「伝言をお伝えに来たのですが……」



 ジャンボは軽く耳打ちされて、了承するよう頷いた。

スタッフが去っていき、劇はすっかり終わって、客席の方に明かりが戻る。

チョコとバニラは耳打ちの内容を気にしてソワソワしていた。



「アイツに呼び出されただけだよ。楽屋に三人で来て欲しいって」

「ええっ!!」



 なんでもなく笑うジャンボに、チョコとバニラは目を白黒させた。

そういえばジャンボも映画俳優で、楽屋なんて当たり前に行き来してる人なのだと、今更になって思い出す。

普段の言動はただの気難しいおっさんで、二人にとってジャンボはジャンボでしかなかったから、急に仕事の顔を見た気がした。



「じゃあ、そろそろ行くか。関係者入口の方を通っていいことになってるらしい」

「すげぇー……俺たちVIPだ」

「この席からしてもなぁ……大人ってすご」



 明らかにたじろいでいる二人は珍しく、ジャンボはおかしくて笑った。



「そうだぞ。今から会うのも京劇のスターなんだからな」

「スター……」



 急な緊張でチョコとバニラは黙り込んでしまった。

ちょっと意地悪してしまったかな、とジャンボは思ったが、まぁたどり着けばなんでもないことだと知るだろう。

関係者の通用口に立つスタッフに声をかけ、ジャンボ御一行は笑顔で通された。

 

 そこからそんなに距離もなく、楽屋の扉が並ぶ廊下に出る。指定された通り一番手前の扉を、ジャンボはノックした。



「入っていいか」



 ジャンボの声が聞こえたらしく、内側からドアは開いた。彼は舞台上の凛々しい姿そのままでそこにいた。

チョコとバニラはまじかにみる、京劇の役者、そしてその衣装に声も出せずじっと魅入っていた。



「よぉ、VIP席ってどんな感じだった?」

「知らないで送り込んだのか。なんか果物が置いてあったり、椅子も随分豪華だったよ」

「へぇー。演じに来てるだけだから、俺たちとはむしろ縁のない席だからな。ずっと気になってたんだ」

「おまえ、それを聞くためにあの席を用意したのか」

「いいだろ別に。その分ゆったり観劇出来たんじゃないか?」



 元気よく笑う役者は、固まる子供二人にも笑いかける。



「君たちも久しぶり。どうだった?おじさんの劇は」



 チョコとバニラはどきまぎしながら、なにか答えようとしたが「すごい」とか「かっこいい」とか、小さな子供が言うような言葉しか出なかった。

そんな自分に情けなくなる二人の様子に、大人二人は微笑ましく笑う。



「立ち話もなんだし、中に入れよ。茶菓子くらいならあるぞ」

「別に茶菓子なんていいよ。それより、他に衣装とかあったら、この子達に見せてやってくれないか?」

「もちろんそのつもりだ」



 役者に先導されて入ると、中には他にも数人役者がいた。

チョコやバニラと変わらない年齢の役者もいる。

ドキドキしていると、向こうからテンションの高い歓声が上がった。



「江白さんだ!映画いつも見てます!!」

「すげー!!ほんとうに俳優さんと知り合いだったんですね!?」

「サインください!」



 これもあまり見たことの無い光景だった。

ジャンボは確かに役者で、わりと売れっ子だと知っていたのに、三人が暮らす街ではこんなことはなかったから、チョコとバニラはジャンボの凄さを思い知らされてしまう。


 そしてすっかり歓迎ムードの中で、ジャンボは息子だとチョコとバニラを紹介し、京劇の小道具なんかを見せてやってくれないかと頼んだ。



「チョコとバニラって変わった呼び名だね。好きなの?」

「はい……小さい頃好きだったからいまだにそうで」

「わかるー。俺も小さい頃からチビって呼ばれて未だに家族にチビって呼ばれるからな。

まぁ、とりあえず二人ともせっかくだから衣装着てみなよ」

「ええええ!?」



 チョコとバニラは嬉しさで頬を高揚させながら、案内されるがまま衣装を身につけたり、小道具を振ったり、動きを真似したりと、本当に楽しそうにしていた。



「いい顔で笑うなぁ」

「そうだろ?」



 ジャンボと役者はその様子を見て笑いあった。



「この後は、稽古場と宿舎の案内でいいんだよな」

「ああ。車は頼んでいいんだっけ?」

「じゃないとお前、道分からないだろ」

「そりゃそうなんだけど、なにからなにまで世話になってるから」

「いいんだよ。俺はさ、ジャンボが芝居の世界に戻ったってだけで本当に嬉しかった。……もっと本音でいえば、一緒にまた京劇もやりたいけどな」



 冗談めかして役者は笑った。ジャンボも笑ったが、少し悲しみが滲んだ目をしていた。

さすがに今から京劇の世界だなんて、考えてはいない。

あの舞台に自分も立っていたかもしれないとは考えた。

けれど、そうでない人生を選んだからこそ、ジャンボはチョコやバニラと出会えたのだから。



「おーい、そろそろ出るぞ。衣装片付けて、外に来てくれ」



 すっかり浮かれていたチョコとバニラはハッとして、慌てて着せてもらった衣装を脱いでいた。

そんなに急がなくてもいいよとみなが笑ったが、なんだかドキドキしっぱなしで、チョコもバニラも落ち着く暇がなかったのだ。

憧れの京劇の中心に今、自分たちはいる。

それも、ジャンボに隠れることなく三人で。


 役者とジャンボは先に外に出るよと、扉を開けて出ていった。

さらに慌てるチョコやバニラをみて、ほかの役者は笑っていたが「置いてったりしないよ」なんて当たり前の事を言われる。


 そしてまた、なんだかハッとして、二人ともいそいそとゆっくりと動いた。

まだ自分たちは危惧しているのだろうか。

ジャンボに置いていってしまわれることに。



「ありがとうございました!」



 チョコとバニラは楽屋の役者達に頭を下げた。

全員なんとなく照れながら、二人に嬉しそうに手を振った。

チョコとバニラは外へと駆け出す。

そして、車の前で待つジャンボとあの役者の姿を見て、なんとなくホッとした。



「ようやく来たな。ガキンチョども」



 役者の方はもちろん服を着替えて、ちょっとオシャレでモテそうな服を着て、不敵に笑った。

比べるとジャンボはちょっともさかった。

そんな姿を見て、また少しだけ二人はほっとする。

別にいいのだけれど。


 四人は車に乗り込んで、その劇場から数十分の所にあるという稽古場や宿舎を見に行くことになった。

その間に役者は遠慮なくジャンボの生活について聞いていた。


 ジャンボはもともとあまり自分のことを語るタイプではないが、アクション俳優としてそれなりに地位が固まってしまったこと、今度呼ばれる監督が割とすごい人でやだなぁと思ってるということ、そんなことを話していた。


 チョコとバニラは知らない顔で、仕事の話をして笑っていた。

仕事とは何なのだろう。そんな漠然とした問いを何度も自分たちにした二人だったが、運転席と助手席に座って話す大人たちは、もうとっくにその答えを得ていたのだ。


 高考を受けたわけでもない。

だからといってそれを超えるようななにかがあるわけでもない。

18才の二人はつい神妙な顔で、大人たちの会話を聞いていた。

そうして車はやがて、劇団の稽古場や宿舎が揃う一角までたどり着いていた。

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