第34話

 次に目が覚めた時にはやっと、ジャンボはそれなりに話せるようになっていた。

主治医は、通り魔に襲われたところを息子さんがこの病院まで背負ってきたんですよ、なんて平和な美談を話した。

でも少しほっとした。

チョコが公安に連れていかれてしまうのではないかと、不安がずっと離れなかったから。


 主治医と入れ替わりでチョコとバニラが病室に現れた。

二人とも17才のなりで、うじうじと歩いてくる。その姿は9歳の頃とほとんど変わっていなかった。



「しばらく話す許可をもらえたよ」

「そう……」



 二人はベッドのわきのイスに座った。

ジャンボは体は動かせなかったが、精一杯二人に謝った。



「本当に悪かった。放っておけばこうなるとわかってた。でも俺は……現実から逃げてばかりだったんだ」



 二人は入院中のジャンボのために荷物を取りに家に帰った際、あの決して開かなかった箱にジャンボが京劇の役者であった面影も見た。

あの箱以外、京劇に関連するものは一切部屋に置かれていなかったのだ。

二人はなにから聞けばいいか分からなかったし、ジャンボも考えあぐねていた。



「そうだな……。そもそも俺の名前も本当は江白じゃないんだ」

「は!?」



 予想外すぎて口をぽかんと開ける2人に、ジャンボは小さく笑った。



「別に偽名ってほどじゃない。ただ……元々は「江白」の白はただの白じゃなくて木へんがついたボォだった。だから俺は、ほんとに「ジャンボ」だったんだ。25くらいまではたしか、その名前を使ってたよ」



 ジャンボはゆっくりと過去の光景を思い出す。



「14才のある日、養成学校は潰れると聞いた。それもどこの学校も似たようなもんで、京劇自体がもう、世間に求められてなかった。

……なんだか全部がバカらしくなってさ。

俺の人生には京劇しかなかったのに、俺の人生ごと消えていったような気がしたんだ」



ジャンボは自嘲気味に笑った。



「生存競争もバカバカしくって、俺は17で学校を飛び出して、全然関係ない仕事についたんだ。

単調な工場のライン工だよ。その頃は普通に宿舎もあてがわれて、たまに工場長に頼まれて、土木作業もしてた。

その生活に芝居の世界なんて欠片もなくて。

「ああ、全くの無縁な人生もあるんだ」って余計に思った。

もうその頃にはあの箱は二度と開かないつもりで閉じてたよ。

……けれど、あの運動が広がっていった。文化大革命だ」



 チョコの顔がひきつる。バニラはその様子を心配しながらも、なにも声はかけなかった。



「俺は当初は「またなんか始まった」くらいの感覚だった。それがぐんぐん各地に広がって、統率の取れない軍隊もどきがそこら中に蔓延った。

俺はまだなんにも関わらず、ライン工をやってたよ。

工場もなんとか目をつけられないように、紅衛兵のためのボタンとかポーチとか、そんなのも生産するようになった。

けれど若いのがどんどん抜けて、圧倒的に人手不足になったから、俺も「辞めないでね」なんて念をおされてた。

言われなくてもそのままライン工を続けるつもりだった。

やりたい事なんてなにもない。

政治的な思想もなかった。

そもそも学校教育も受けてないのに、語録なんて渡されても俺には読めなかったよ」



 しばらく沈黙が続いた。

ジャンボは目を閉じて呼吸を整えているようだ。

まだ核心に迫っていないのに、チョコにとっても、すでに内容は心にさざ波をうっていた。

ジャンボはそれでも、再び語り出す。



「23くらいの時だと思う。革命運動も後半かな。

相変わらず俺はライン工をしてた。

そんな帰り道、紅衛兵の遺体が打ち捨てられてるのを見たんだ。

当時はもう紅衛兵って言葉だけが一人歩きして、その名前さえ使えば大義名分が通るようなおかしな時代になってた。

徒党を組んでても内部すら大荒れで、よく自分たちの仲間を敵に見立てて殺してたんだよ。

きっと路地に放られた紅衛兵も、その争いの内に殺されて、埋葬もされずに倒れてたんだ」



 ジャンボは一瞬だけ妙な間をあけた。

そしてついに核心へ続く。



「その遺体を見て俺は「あ、これでいいや」って思ったんだ」

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