第25話
「ジャンボはあのあとのこと、どこまで知ってるんだ?」
仲間の問いにジャンボは目を伏せる。
「みんなそれぞれ、大抵は芝居の世界に残ったって、なんとなくは知ってる。
けど……その後は先生がここで自殺したと、その話しか知らない」
「なんだ、俺たちも似たようなもんだよ」
ジャンボは供えるために買った酒を取りだした。
「俺は8年前に来たきりで、一度もここには来れなかった。
やっと今日、チョコとバニラがついてきてくれたから来れたんだ。……みんながこの部屋を残してくれたんだろ?」
仲間はそれぞれ頷いた。
「先生の遺体も……誰も見つけられなかったからな。
なのに墓を建てようなんて、お前みたいなぶっ飛んだやつもいなかった。
だから毎年ここに集まるたびに、少しずつ掃除をしてたんだ。墓掃除みたいなもんだよ」
「でも一つ不思議なことがあってさ。
この場所も廊下もそこら中が血まみれで、俺たちは最初は絶句して、なんにもできずに帰ったんだ。思い出が……全部奪われた気がした。
でも、ある時に来たら全部キレイさっぱり消えててさ。
勝手に消えるわけもないし、誰も掃除する勇気なんてなかったのに……ずっと謎のままなんだ」
「ふぅん……不思議だな」
酒を飲もうとするジャンボの横でチョコが言った。
「それ、ジャンボが掃除したんだよ」
ジャンボは酒を吹き出した。仲間たちは顔色を変えてジャンボを見る。
「お前……本当かよ……!?」
ジャンボは恨めしげにチョコを見たが、チョコは知らんぷりして顔を背けた。
「お前が最初に先生を弔ってくれたのか……」
「違う、そんなんじゃない。あれはただの現実逃避だ」
ジャンボは苦しげに答えた。
「全部、無かったことにしたかった。何も見たくなかった。ただそれだけなんだよ……」
自己嫌悪に飲まれるジャンボの背中を仲間が叩く。
「そのおかげで俺たちは毎年ここに集まれてたんだ。ありがとよ」
優しい声に毒気を抜かれ、ジャンボは誤魔化すように酒をラッパ飲みした。
すると仲間たちが俺も俺もとビンを取り、全員に回る頃には酒のビンも空になっていた。
少しのアルコールで全員がぼんやりする中、誰かが言った。
「先生とも、酒を飲みたかったな」
全員がきっと同じことを思っていた。
小さな校舎はもはや廃墟となり、どんなに掃除をしても、もう元には戻らない。
ここに集まれるのも、あと何回もないだろう。
そんな寂しげな空気を破るように、特に酔いの回った1人が突然立ち上がった。
這酒真好、是厲害!酒家、酒銭多少?
──これは良い酒、中々にきくわい!番頭さん、酒代はいくらかな?
みんなドキリとした。しかし、もう一人がおどけた表情で立ち上がり、応えた。
──
──それ、酒代はここに。「三杯飲めば丘を越えられぬ」と言うが、私は一壷飲み干した。さあ、私があの丘を越えてゆけるかゆけないか、見ておれよ!
──お客さま、どちらへ参られるのです?
──
……二人の掛け合いが続く。皆、おもしろそうにどっと囃し立てた。
何が起きているのか理解できず、困惑しているチョコとバニラを見かねてか、ジャンボは少しためらってから、耳打ちしてやった。
「
────────────
【※5】『水滸伝』に題をとった演目。梁山泊の好漢・武松が素手で虎と戦う。
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本当なら、着ぐるみの人喰い虎役が相手になり、酒を飲んだ武松が野宿している所を襲われて素手で迎え打つのだが……。
「アイツら始めたはいいけど、虎役どうするつもりなんだろうな」
半ば呆れ声で、説明しながらジャンボはため息をついた。
すると、なんと相手が不在のまま、武松はひらりひらりと軽い身のこなしで、見えない虎と戦い始めてしまった。
仲間たちはすぐに気が付き、笑いながら「なんか虎っぽいもんねぇかな」とか無茶苦茶を言い始める。
けれども、実際に演じてる彼はスイッチが入ったのか、一人芝居であるのにキレのある動きを見せた。虎の
その迫力に、チョコとバニラは瞬きもせず、じっと見つめていた。
シンプルな芝居だ。それ故に役者の技量が試される芝居でもあった。
だから、先生がこの演目をとりわけ厳しく叩き込んだのを、皆が覚えていた。
武松が虎を叩きのめしてしまうと、ぱちぱちと拍手といくつかの歓声が上がった。
その拍手も終わらないうちに、「こうなると思ってな」と笑って
彼は軽く弓を動かしながら音を確かめ、挑戦的な目つきで全員を見まわした。
──────────
【※6】伴奏に用いる、二胡に似た弦楽器。
──────────
すると、かつての生徒たちは次々に立ち上がり、それぞれの十八番を披露し始めた。
どれも、先生にこっぴどく叱られながら覚えたものだった。
相手役が必要と見れば、言葉も交わさず、誰かが自然に配置についた。
彼らは今だいっぱしの役者であると同時に、良き観客でもあった。
自らが引っ込んでいるときは拍手をし、声援を送り──時折、からかうようなヤジも飛ばした。
チョコとバニラは慌てて移動し、部屋の隅で彼らを見つめた。ジャンボは何も言わず、静かに座っていた。
きっとこんな馬鹿げだことをしているのは酒のせいだ。
仲間たちは太ったものも痩せたものもいた。20年前に離れ離れになった彼らは、もはや30代だ。
しかし芝居は始まった。
豪華な衣装も小道具もない。化粧だってしていない。
こんなのは戯れにすぎないのだ。
けれど喪服をまとったかつての生徒たちは、必死にあの時を取り戻そうと動いた。
「舞台」に上がるのは、ちょっと腹回りに貫禄のありすぎる
しかし、喉を振り絞って、居住まいを正して、時に茶目っ気たっぷりに動けば、確かにそこにいるのは諸葛亮で、関羽で、孫悟空だった。
「ジャンボ!何ぼさっとしてるんだ!おまえもやれ!」
ひとり物思いに沈んでいたジャンボは、皆に急き立てられてしぶしぶ腰を上げた。
チョコとバニラは、驚きと期待が入り混じった目でジャンボを見上げた。
仲間の一人が、にやりと笑って肩を叩き、こう言った。
「
ジャンボ以外の全員が歓声を上げた。
逃げ場がないと知ったジャンボは、溜息をつきながら上着を脱ぎ、ネクタイを外した。
先ほど肩を叩いてきたやつが相手役を務めるらしい。
いつの間にか運び込まれていた机を背にして、ジャンボは見栄を切った。……いいだろう、やってやる。
三岔口は男二人が、相手の正体を知らぬまま暗闇で戦う──という芝居だ。実際は照明を落としたりしない。
けれど、相手の姿が見えていない、という状態を模しながら、立ち回りをしなければならないのだ。
相手の拳や蹴りが目の前をかすめても、見えていないのだから反応してはいけない。
目の焦点すら合わせてはいけない。
何度も何度も、先生にしごかれたのをジャンボは思い出していた。
彼らは相手にけどられぬよう机に音もなく飛び乗り、床に柔らかく着地する。
相手の位置を探るよう持ち上げた足は顔の真横まで迫るが、触れることなくぴたりと止まる。
二人とも一向に眼前の敵をとらえることができない様子は、観客の笑いを誘うところだ。
と思えば、刀が鋭く空を切る音だけを頼りに、相手の位置に検討をつけ、機敏に飛びかかっていく。
打ち出された拳を素早く受け止め、突き出された刀の切っ先を瞬時に受け流す。
『コミカルさと緊迫感のメリハリとバランスが、この芝居のキモだ!』
いつも怖い顔をしていた、懐かしい人の思い出を反芻しながら、二人は暗闇の死闘を演じた。
観客もいない。舞台でもない。ならなんで俺たちは舞っているのだろう。
きっと先生のためだった。先生の存在は消えてなんかいない。
あの頃はただの厳しいおっさんにしか見えなかった。
けれど得たものはこんなにも大きい。
世間が求めなくても俺たちはここにいる。
廃墟の中から歌が聞こえるのを耳にし、不思議そうに足を止める人もいた。
けれどすぐに歩いて去っていく。
それでも俺たちも先生もここにいたんだ。
二人は机を挟んで対峙した。お互いに額にうっすらと汗をにじませているのが分かった。
さあ、ここが一番の見せ場だ。
脚に腕に、力を込めて跳び、舞う。
暗闇の闘いに終止符を打つ、最後の大立ち回りを、ジャンボと仲間は夢中で演じた。
最後の演技が終わった。ジャンボも旧友も、肩で息をしている。
舞台装置があれば幕がおりていく。
そんな時間も身に染みていて、彼らは数秒、真剣な眼差しのまま動きを止めていた。
終わってみれば、誰一人として立ち回りもセリフも間違えることはなかった。
観客はいない。でも俺たちはやりきった。
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