第20話

 トロリーバスに乗り、ジャンボは道行く車をぼーっと目で追っていた。

その隣にチョコとバニラはもちろんいない。

ちゃんと帰れただろうか。14才なのだから帰れないこともないだろう。けれど。


 家の近くに向かうにつれて、トロリーバスの乗客は減っていく。

車内はとても静かだ。その分、さっきの言葉がぐるぐる回った。



『あの子を引き取らせて頂けるなら全力で護ると誓います。もちろん、兄弟のように過ごしていた子も』



 トロリーバスは突然停車した。

バスの運転手がジャンボの方を振り返る。



「降りないのか?」



 ハッと気が付くと、自宅の最寄りでバスは停車してくれていた。

運転手はよくバスを利用する客の顔を覚えていたらしい。

慌てて礼を言って金を払った。



「今日はお子さんたちは一緒じゃないのか」



 話しかけられたこと自体が初めてだ。

なのに運転手はどこか心配そうな顔をしていた。



「きっと先に家に帰ってるはずです。……ありがとうございます」



 ジャンボは深く頭を下げた。

運転手はテキトーに手を振って、その場から走り去る。

今日は不思議な日だ。ドン底に落ちたと思えば、すくい上げられる。

名も知らぬ運転手のおかげで、ジャンボはまっすぐ家路につくことができた。


 辺りはとっくに暗い夜だった。

近所の建物には当たり前のように灯りがともっている。

しかし、ジャンボがたどり着いた四合院には、灯りがついていなかった。


 もし、もしも、この扉を開けた先に、彼らがいなかったら、俺は。


 心臓はバクバク鳴っているのに、手はいつも通り鍵を取り出す動作をした。

カチャリと開く。扉を押す。

その一つ一つが、もはや恐ろしかった。

けれど、ジャンボはためらわず、真っ先に部屋の電気をつけた。


 そのとたん、照らし出されて縮こまる二人の子供の姿が見えた。

それぞれ寝床の両端で膝を抱えて床を見つめ、一瞬だけジャンボを見た。


 崩れ落ちそうなジャンボの心が少しだけ、元の形を取り戻したようだった。



「電気くらいつけろよ」



 ジャンボはいつもの声で二人に話しかけ、背を向ける形で食卓の椅子に座った。

その背中にバニラが話かける。



「あの人と話してきたの?」

「ああ。チョコの叔父だって言ってた」



 チョコの空気が変わる。背中に射抜くような視線を感じた。



「チョコの叔父さんと何を話したの」



 バニラの声は震えていた。

ジャンボは努めて冷静に、二人に話す。



「もしできるなら、お前たちを二人とも引き取りたいって。

たぶん、今より生活は良くなるよ。学びの道も増えるはずだ」



 背後の殺気は二つに増えた。



「ジャンボは……そうしたいの?」

「いや、お前たちの意志を尊重するって、それだけ話してきた。けど、連絡先も受け取ってるし、いつでも迎えてくれるはずだよ」

「ジャンボは俺たちの親なんだよね……?」



 バニラが聞いた。チョコも答えを待っていた。

けれど、いつまで経ってもジャンボは無言のままだった。



「ジャンボも俺たちを捨てるのかよ!」



 耐えかねてバニラは叫んだ。

しかし、ジャンボは背中を向けたまま、一言も発さない。



「もしも俺の両親が今さらノコノコ俺の前に現れたら、俺はアイツらを殺す……!5才の時からそう、ずっと決めてるんだ。

ジャンボもアイツらと同じなら、俺は容赦はしねぇぞ!」



 バニラは暗い憤怒を込めた声を、ジャンボの背中に叩きつけた。

けれど、それでもジャンボは動かなかった。

痺れを切らしたバニラは怒りのままに、ジャンボに駆け寄った。

そして椅子ごと無理矢理こちらに向けさせた。


 するとジャンボは音もなく、目の焦点を揺らして、涙をボロボロ流していた。

バニラはギョッとして固まった。チョコもその姿を見てしまった。



「ああ、悪い。これは気にしないでくれ。大丈夫だから」



 気まずそうにジャンボは言った。その間も絶え間なく、涙は流れ続けている。



「俺はさ、お前たちよりかは少し恵まれてて、6才までは親元にいたんだ。

親父が怪しい仕事に手を出して殺されるまでは、わりと普通に暮らしてたと思う。

だから親に対して憎しみも悲しみも何もない。

でも……ただ一つだけ……「親としてどう生きたらいいか」教えてくれてたら、俺はもっとお前たちにやってやれることが多いんだろうな、とは思う」



 泣いているはずなのに声はいたって冷静だった。

今日のたった一日で受けたストレスが、積載量の限界を超えてしまったのだろう。

ジャンボは涙を拭いもせず、淡々と続けた。



「チョコの叔父さんの家で暮らした方が、お前たちは、まともな親ってものを知れると思う。普通の家族として生きていけると思う。俺には……分からないんだ。

どうやったらお前たちの親になれるのか、5年も一緒にいても、何一つ分からないんだ……」



 バニラはジャンボから離れ、寝台に腰かけた。

そして呆れたような寂しい声が言う。



「ジャンボはもう、とっくに俺たちの親だろ?」



 ぼんやりと頭を上げてバニラを見た。チョコはぶんぶんと頭を縦に振り、バニラに同意している。



「親で、兄ちゃんで、おっさんで、師匠だと思うんだけど。そのどれかじゃなきゃダメなのか?」

「いや……」



 ジャンボは戸惑った声を出す。



「そんなふうに思ってもらえてるなんて、思わなくて」



 涙は相変わらず流れたままだ。押し黙っていたチョコもようやく口を開く。



「ちゃんと親だよ。ジャンボは」



 チョコの一言に喉の奥がぐっとしまる。


 チョコはどこまで覚えているのだろう。自分達を見捨てた「父親」のことも忘れているのだろうか。

叔父が丁寧に書き残した「馮少春フォンシャオチュン」という自身の名前も思い出せないのだろうか。

彼の生みの親が兄夫婦へと子供を譲る時、春生まれの彼に唯一残した名前だ。


 けれど、「チョコ」は自身の誕生日すら知らない。

子供を持てば親になるわけじゃない。

二人は嫌というほどその言葉の意味を知っているだろう。


 でも、それでも自分は、彼らの親なのだろうか。

涙にやっと嗚咽が混じった。いくつか切れていたスイッチを彼らがひとつずつ押してくれた。


 こんなに助けられてばかりなのに俺は、親だなんて言えない。

そんなことを途切れ途切れに吐き出した。



「ジャンボは親だよ。俺たちはジャンボが親だから一緒に暮らしていたいんだよ」



 ジャンボはもう抑えられないほど泣いた。

チョコとバニラは立ち上がって、ジャンボをゆっくり立たせて、寝床へ誘導した。

整えた布団にジャンボを寝かせ、掛け布団をそっと乗せる。



「ジャンボも親がいなかったんなら、今だけ特別に交代ね」



 そんなことを言って、二人はジャンボの手を握り、子供をあやすようにポンポンと布団に手をおいた。

そのくせジャンボより先に寝てしまった。

二人の寝息を確認して、「なにが交代だよ」と呟いた。


 何度自分が揺らいでも、折れそうになっても、世界は必ずジャンボに居場所を与えた。

なぜだかは分からない。でも、許されるならこのまま……あと少しでも……。


 このまま3人で生きていきたい。


 ジャンボは二人を布団へ運びながら、もう何度自分に言い聞かせたか分からない言葉をとなえた。

色々とままならない大人だけど、彼らが「親」と呼んでくれるなら、俺はそれを全力でまっとうしたい。


 決意とは裏腹に、年々背後の闇は深く濃くなっていく。


 それでも、もう、こうしていられるだけで良かった。

きっと近い内に時限爆弾は爆発するのだろう。

それでもいい。それでもどうしても、今だけは。


 ジャンボはただ祈った。

気まぐれで始めた生活だったのに、今ではもう、かけがえのないものになっていたから。

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