第19話

 なんてことない食堂の店員は、開いた扉の先に笑顔を向けたが、二人の正装の男の神妙な顔を見て、その笑顔は消えてゆく。



「あ……あの、ご注文は」



 男性が酷く縮こまり黙り込んでしまったので、ジャンボがテキトーな料理と酒を二人分頼んだ。

できるだけ関わりたくないというように、店員はそそくさと逃げていく。


 もう、根比べのつもりでいようと、ジャンボも覚悟した。

目の前の男性の葛藤の理由は知らないが、放って帰ることも出来ない。

絶対になにかを掴んで帰ってやる。


 そう自分に言い聞かせ、ジャンボは届いた酒に口をつけた。

向かいの男性も震える手でグラスをつかみ、料理には目もくれず、酒ばかりを飲んでいた。


 20分くらい無言の時が流れただろうか。

ついに男性はポツリと語り出した。



「あの子……あの子の父親は私の兄なんです」



 その一言を告げて、男性は酒を一気に飲んだ。

ジャンボもグラスを開けない程度につきあい、酒を飲む。

けれど、お互いにだろうか。全く酔っている感覚はなかった。ジャンボはそっと声をかけた。



「チョコは……あ、いや、あの子は両親の死後、アナタに保護されていたということですか?」



 男性は酷く狼狽し、またすがるように酒を飲む。



「いいです、その、チョコで。きっとあの子もその方がいいはずだ。私もチョコと呼びます」



 男性は酒を飲めば飲むほど顔が青くなっていく。



「私が5才のチョコ……を保護してました。保護と言っても単に、風呂と食事と服を用意して、明日からどう接したらいいんだと頭を悩ませている間にあの子……チョコは姿を消してしまったんです」



 話はなかなか本質に触れなかった。

全くアルコールが意味をなさない二人は、ただ覚悟が決まるその時を待っていた。



「チョコ……チョコの父親……私の兄は、息子と嫁を見捨てて、1人スクーターで逃げたんです」



 唐突に懺悔が始まった。

ついに核心に迫る爆薬の口火を切ったのかもしれない。

ジャンボは決して急かさず、彼と同じスピードで動き、ただじっと聞き続けた。



「スクーターで逃げたのを、きっと、あの子も母親も見ていたと思います。

背後には紅衛兵が迫っていた。近所の人が二人の声を聞いていました。

「待って、置いていかないで、父さん」と……」



 男性の顔はもはや青白く生気がほとんど無くなっていた。

口を挟むべきだろうか。

チョコの話によればこの後、チョコの母親は──。



「ここからは恐らく、というか、私が見た惨状の話です。

あの子は柱に縛り付けられ、足も地につかない高さで鬱血するほどかたく固定されていました。

そのすぐ横にあの子の母親が……倒れていたんです……服も奪われて……性的な乱暴を受けた痕跡が……ありました……」



 息も絶え絶えに男性は語った。

ジャンボは口に注いだ酒の味はもう分からなかった。

それでも彼らは酒を流し込む。

告解はまだ終わらない。



「もしも誰かが……彼らが去った後に誰か……近所の者でもいい。誰か一人でもあの家の様子を見に行っていれば、まだもう少しだけ、きっと、マシだった」



 手が震える。聞きたくない、二人の元に帰ろう。

ジャンボの心に浮かんだ小さな叫びはすぐにかき消された。



「誰も紅衛兵に目をつけられたくなかったんです。2日くらいは子供の泣き声が聞こえていたと聞きました。

でも……私が兄の家に辿り着いたのは……5日後なんです……」



 5日。5日あれば人体など簡単に腐敗する。

あの時代に嫌というほど見た。埋葬が追いつかず、道端に捨て置かれた遺体たちを。



「あの子は餓死寸前でした。すぐに縄をとき、水を飲ませようとしましたが、ハエはあの子にまでまとわりついていた。

私も一応医者ですから、なんとかあの子だけでも助けようと、そう……心に誓ったはずだったんです」



 目の前の男性はついに話し終え、まだ酒を流し込もうとしたが、すぐに口をおさえ、死にそうな顔でトイレに駆け込んで行った。

残されたジャンボは震えていた。

酒を飲んでいるはずなのに、体温が下がっていくばかりで、体が凍りそうだ。

目の焦点が合わせられない、汗が止まらない、呼吸の仕方が分からない。


 背後に並んだ集団が、さらにジャンボの正気を奪った。



「偽善者」



 バッと後ろを振り返った。

後ろは壁だ。でもたしかに自分の声が聞こえたのだ。



「あの……」



 声をかけられて飛び上がるほど驚く。

正面の男性が席に戻っていた。

吐いてきたのか、さっきよりかはいくらか顔色がマシに見える。



「すみません、その……」



 ジャンボはなにか言おうとして、自分に語れる言葉などないと悟る。

男性はゆっくり息を吐き、ぽそりと呟いた。



「あの子は……今、幸せに暮らしていますか?」



 ジャンボはもうすでに限界だった。



「分かりません……。今日だってむしろ、私があの子たちに助けられたぐらいなんです」



 顔の化粧はどの程度はがれているだろうか。

生々しい傷がもう、自分の顔に現れているのではないか。

無意識にジャンボは額に手を当てる時間が長くなった。



「私は……5年間彼らと暮らしました。その前の4年間は、あの子を追いかけたもう一人の子と、身を寄せあって生きていたようです」



 その間強盗をしていたとは、ついに言えなかった。



「そうでしたか……」



 向かいの男性はもう酒を口にしようとはしなかった。

静かな葛藤が、彼の内に発生しているようだ。



「もし……もしものお話をしてもいいですか」



 男性は両手を組み、テーブルの上に乗せて身を少し乗り出した。

ジャンボは頷いた。どんな言葉が続くのか、予想など簡単に出来たから。



「あの子を……引き取らせて頂けるなら、今度こそ全力で護ると誓います。

それにあの子だけでなく、兄弟のように過ごしていた子も、もちろん同じように迎えます」



 ジャンボはしばらくうつむいて目を閉じ、やっとの思いでゆっくり開いた。



「私は……本人達の意志を尊重したいと考えています。きっと紅衛兵に目をつけられるくらいなら、あなたの家系は裕福なのでしょう。

今よりももっと、あの子たちは受けられる教育の幅も広がるとそう思います。それに」



 ここまで一気に話して、ジャンボは首を絞められたように、窮屈な声を出した。

きっと首に手をかけているのは背後の自分だった。

それでもどうしても、伝えなければいけない。



「……それに俺は紅衛兵だったんです」



 目の前の男性の顔色が変わった。



「その事をあの子は知っているのですか?」

「いえ……。あの子の過去は断片的にしか聞いていませんが、母を紅衛兵に殺されたこと、そして紅衛兵を酷く憎み、殺意を覚えることも私は知っています」



 ジャンボは息を大きく吐き出した。



「だから私は……あの子になにも伝えられていません」



 また沈黙が続いた。

ジャンボはもう、身動きも取れずにうなだれていた。


 『階級の敵』という、紅衛兵の間で使われた言葉がある。

プロレタリアートの方がはるかに優れた人民であるのに、特権階級のみが利権を貪っているという意味だ。

反骨精神などという言葉では片付けられない憎しみの渦が、あの時代、国民の全てを狂わせていた。


 そして今、『階級の敵』という言葉はその矛先を反転させ、憎しみの連鎖を産みながら、かつての紅衛兵に突き刺さる。

目の前の男性もきっと、革命の被害者だったはずだ。

彼にそんな気はないだろうが、もし、彼が激昂して自分を殺そうとしても──ジャンボはそれを受け入れる覚悟を決めていた。


 そんな張り詰めた空気の中、静かな声がそっと響く。



「アナタはその葛藤の中でも、あの子を立派に育ててくれたんですね」



 予想だにしない言葉だった。

思わずジャンボが顔を上げると、男性は疲れた笑みを浮かべた。



「本当は今日、式が始まった直後からずっと、私はアナタたちに気がついていたんです。

新郎たちには申し訳ないが、私はアナタたちのテーブルから目を離せなかった。

あの子は式の進行に合わせてよく笑い、よく泣いて、アナタに頭をなでられていた。全部見てたんです。ちゃんと。

もうあの子には居場所があることも理解出来ていました。

だから……最後まで私はアナタたちに声をかけようか悩んで、悩んだ末につい走って追いかけてしまったんです。

そうするべきではなかったんだと、分かっていたはずなのに……」



 ジャンボは男性と話し始めてからずっと、喉のところまで出かかっていた言葉が、ついに飛び出してしまった。



「あの子を置いて逃げたというのは、あくまでアナタのお兄さんなんですよね?

どうしてアナタがそこまで罪を感じているのですか……」

「あの子は私と家内の間に産まれた子だからです。

子供のできない兄夫婦に、大切に育てると約束させて、預け渡した子でした」



 もうジャンボはなにも言えなかった。

男性はこの14年間の思いをやっと語り終える。



「だからといって、私たちはあの子の親だと主張する気は一切ありません。

無理に引き取ろうとも思いません。

あの子が幸せそうに暮らしてくれていて本当に良かった。

引き止めてしまったのは……気の迷いだと思ってください」



 男性は疲れた目のまま財布を取りだした。

そして「勘定は持ちます」と呟いて、金をテーブルのはしに置いた。

そのまま立ち上がって去ろうとする男性を、ジャンボは引き止める。



「連絡先と住所を交換しませんか。私は今日あの子たちと話をしようと思います」



 男性はまた苦悩を瞳に滲ませたが、ふところのメモ帳からページを二枚破った。

お互いに無言のまま、空っぽなメモ帳に連絡先や氏名を書き込んでいく。

そして、交換した紙を見て、男性は少し微笑んだ。



「あの子は朱克というのですか。アナタが名付け親ですか?」

「ええ……。あの子は5才までの記憶がないようで、出会った時には自分のことを「チョコ」と名乗っていたんです。学校に通わせる為に、もう少しマシな名前をと考えたものでした」

「そうか、だから「チョコ」と……。私たちがよく手土産でお菓子を持っていっても、真っ先に食べていたのはチョコレートでした。

きっとその頃の記憶はもうないのでしょうが」



 男性は大切そうにメモをふところにしまった。



「私からは決してアナタ達に連絡はしません。今日は諸用で式を欠席した家内にも、このことは伝えません。

ただ……不躾な話ではありますが、もしも、アナタたちが金銭的になど困るようなことがあれば、私は私財を全て投げ打ってでも必ず助けになります。

家内もあの子の姉もきっと同じことを言うでしょう」



 今度こそこの場を去ろうと、男性は深く頭を下げた。



「今日は本当に、アナタとお話ができて本当に良かった。

私が言うのもおこがましいですが……江白さん。

どうか……あの子を頼みます」

「はい……」



 ジャンボも深く頭を下げた。

男性は何度か会釈をして、店を出て行った。入り口の引き戸がカラカラとしまる。


 とたんにさっきまで全く聞こえていなかった、店の喧騒に包まれた。

他の客の声など一切聞こえなかったのに、まるで冷たい水の底に放り込まれ、帰ってきたような現実味のない浮遊感におそわれた。



「お勘定足りてるけど、アンタも帰るのか?」



 立ち尽くしていたジャンボに、男性の店員が声をかけた。

ジャンボはぼんやり頷いて、そのまま店をでた。

うしろ手に扉を閉める。店の外にはもう、あの男性の姿は見えなかった。


 全て夢だったらいいのに、とふと思う。

何も知らずに暮らして行けたらそれだけで良かったはずなのに、どうして真実を求めてしまったのだろう。

チョコのためだろうか。自分のためだろうか。

夜風ばかりが強くふきつけ、その答えもさらっていった。


 ただ、確かなことはひとつだけ、ポケットにはあの男性の連絡先がある、ということだけだった。

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