第10話

 きっと彼女はずっと、俺を殺すために毎日を過ごしていたんだろう。背中に刃物が刺さっても、致命傷になることは少ない。

けれど、ジャンボは数日生死をさまよったと、目が覚めた時に医師から聞かされた。


 ずっと恐れていたことは決して幻ではなくて、忘れていい過去でもなかったのだ。

そんなことは、分かっていたはずなのに。


 ジャンボは大部屋に移されたものの、上半身を起こすことも出来ず、ぼんやりと天井を見つめていた。

今の自分に対しても、自分を刺した彼女に対しても、なにも思えることなどなかった。


 そんな空虚な時間を切り裂くように、大きな声が響く。



「ジャンボ!目が覚めたって本当かい!」



 つかつかと歩く音と、大きな荷物を両手に抱えて息の上がった姿、そして多少の心配そうな顔。

きっと近くまで走ってきたのだろう。

ジャンボの目が開いて自分を追うのを見て、隣人は大きく溜息をつき、荷物をどさりと置いた。



「全く、ドジ踏んでんじゃないよ!これ、しばらくの着替えとかなんか……色々持ってきたから!」

「ああ……すいません」



 隣人は汗を拭い、ベッドの横の椅子にどかっと腰掛ける。

ジャンボはやっと頭が回り、隣人に問いかける。



「あの、チョコとバニラは……」

「あの子たちは学校だよ!全く、なんで私がアンタの子供の面倒みなきゃならないんだ!」

「娘さんは……」

「なんだ、会いたかったのかい?あの子だって仕事さ。それで私はアンタのお守り!」



 ジャンボはひとまずほっとして、それ以上はなにも話さなかった。

隣人は痺れを切らしたのか、今回のことについてジャンボに問いかける。



「変態に刺されたって聞いたよ。アンタの職場の人だったらしいね」

「変態?」

「あんたの事が好きっていうモノ好きが、うちの娘以外にもいたんだねぇ。世も末だよ」

「そういうことになってるんですか……」



 ジャンボの呟く声を聞いて、隣人は少し顔色を変えた。



「なんだ、違うのかい?」



 なにも答えることなどできなかった。

上がそう決めたのなら、それ以上を誰かに伝えるなど、そんな危険をおかせるはすがない。

あの時の彼女の声を聞いたのは俺だけだったのだろう。

それか、そういうことになったのだろう。


 隣人は黙り込むジャンボから目をそらした。



「……まぁ、私も危ない橋を渡るのはごめんだからね。深くは聞かないことにするよ」



 しばらくの沈黙が流れる。

ジャンボの頭には繰り返し同じシーンが再生されていた。

針の飛んだレコードのように、何度も何度も、彼女の声が巻きもどる。


 加えてあの晩のこと、自分が人を殺した日のことを。



「俺は……分かってたんです。いつかこうなることを」



 自分でも意識をしない内に、唇から言葉が抜け落ちた。

隣人はいつもと変わらない、ちょっと不機嫌そうな顔のまま、ジャンボの声を遮らずに耳を傾ける。



「いつか俺は殺されるだろうと、思っていました。なのに俺は……あの子たちを連れてきてしまった」



 一度堰を切った思いは、もう留めることは出来なかった。



「一緒にいる資格なんて俺にはないのに、またあの子たちを孤独にしてしまうかもしれないのに、俺は」



 パシンっと頬を打つ音が響いた。

同室の患者たちは驚いて音の方を見たが、隣人はそんなことはおかまいなしに、ジャンボに怒鳴る。



「アンタ、その程度の覚悟であの子たちを拾ってきたのか。それでもあの子たちの親なのか!!!」



 ジャンボは痛みよりも驚きで、隣人から目を離せなかった。

隣人は全身で怒り、怒鳴り続ける。



「私と娘の事情はアンタが聞いた通りさ!!!その苦労の全てを理解しろだなんて言う気は無い!!!でもね!!!私と同等の覚悟ぐらいしてみろってんだ!!!それが親ってもんだろ!!!」



 騒ぎを聞きつけて、看護師や医師が慌てて部屋に駆け込んできた。

隣人は本気で怒ってはいるものの、怪我人のジャンボにこれ以上手を上げようとは、決してしなかった。

だから、看護師や医師も、隣人のまわりを囲い、なんとかなだめようと声をかけている。


 その様子の全てが、ジャンボを正気に戻した。

そして、彼の目から涙が流れ落ちていく。



「アンタは生きる覚悟が出来ちゃいなかったんだよ」



 隣人は大人しくなり、静かな声で言った。

ジャンボは顔を苦しげにゆがめ、ベッドに横たわったまま泣いていた。


 そんな時、小さな足音が二人分、焦った声と共に病室に駆け込んでくる。



「ジャンボ起きたって本当!?」

「あ!おばさん!ジャンボ!?」



 駆け込んできた子供たちは、ジャンボが目を覚ましたらしいことに気が付き、すぐに泣いていることにも気が付き、隣人のおばさんがそばで神妙な顔をしている事にも気が付き、なんなら何故か医者や看護師もたくさんいるし、大混乱した。



「え、なに……どうしたの?」



 バニラは戸惑ったまま、混乱を収めようと少し引きつった笑みを浮かべた。

チョコはなんだか分からないが、必死に辺りを見回した。

ジャンボは相変わらずベッドの上で泣いているものの、二人の方に顔をかたむけ手招きをした。



「チョコ、バニラ」



 状況は全く理解できないが、二人は呼ばれるままにジャンボの方へ歩いていく。

ジャンボはやっと二人に手が届くようになると、彼らの頭をそっとなでた。


 触れると余計に、涙が止まらなくなる。



「なぁー……なんで泣いてんだよ」

「どっか痛いの?」



 二人の問いかけに、首を横に振り、ジャンボはひたすら泣いた。この体では、起き上がって彼らを抱きしめることすら出来ない。

ただ、二人の頭や頬を、愛おしさや無力感とともになでていた。


 けれど、二人は自然とジャンボに抱きついた。


 驚くジャンボの胸の上で、二人もやっぱり泣いていた。

ずいぶんと心配をかけたのだろう。

なんとか両腕を動かして、ジャンボは二人を抱きしめる。



「ごめんな……ごめん」



 ジャンボが声をかけると、今まで声を上げて泣かなかった二人は、ゆっくりと苦しげに声を出して泣いた。

その背中をジャンボはずっとなでていた。そして自分も泣いていた。

いつから泣いていなかったのか、もう思い出せない。そんなことはどうでもいい。


 俺は、なにがあろうと、この二人を守りたい。



「一緒にいてくれて、ありがとな」



 今まで伝えたこともない気持ちが、少しずつ唇を揺らす。三人でずっと、なにがあっても、生きていく。どうしても定まらなかった決意が、ようやくジャンボの中で一つの形になって現れた。

背後の闇が消えたわけではない。それでも、彼らを守るためなら生きていかなければならないのだ。


 涙を流しながらも、深く心の奥に光が灯ったようだった。とても温かい光のように感じた。 

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