第9話

 翌日、楽屋に現れたジャンボの顔を見て、スタッフたちは戸惑いどよめいた。



「どうしたんですか、その顔」

「ちょっとトラブルにあって……化粧で隠せますかね」

「隠せるかっていうか、隠すしかないですよ」



 顔に二箇所も青あざが出来たジャンボは申し訳なさそうに、ヘアメイクさんに頭を下げる。



「どうせ、代役もよこせないんですよね」

「もともと俺が所属してるところで、俳優さんと背格好があうの俺だけですから……」

「変な面倒増やさないで下さいよ、全く。痴話喧嘩かなにかですか?」

「そういえばまぁ……そうなんですかね」



 ジャンボが適当に返事をするのを聞いて、ヘアメイクを含む、スタッフたちにさらなる動揺が走った。



「まさか……江白さんに女性の影……!?」

「え、どういう反応ですか、それ」

「いやぁ、私、何度かあなたのヘアメイク担当してますけど……ねぇ?」

「なにが言いたいんです?」



 ジャンボは不機嫌そうに眉をひそめて、ヘアメイクの方を振り返った。

しかし、頬を挟まれて、正面を向かされてしまう。



「髪のセットしてるんですから、動かないでください」

「あなたが余計なことを言ったんじゃないですか」

「だって、江白さん、まるで女性に興味なしって感じでしたし。もしかして、男性が好きなんじゃないの?なんて噂もあったんですから」

「俺はあなたでもいいんですよ。今夜ホテルでも行きましょうか」

「顔のあざ増やされたいんですか?」

「あなたのデリカシーがそのくらい欠けてるってことですよ」



 一見ピリピリした会話のようだが、ジャンボとこのヘアメイクはいつもこんな会話ばかりなので、スタッフたちはいつものことだと流していた。

 後ろに控えてたもう一人のヘアメイクが巻き込まれるまでは。



「だってねぇ、江白さんのファンだって撮影所にはわりといるのに、誰とも接点ないじゃないですか」

「俺のファン?」

「そうですよ。表には居なくても、裏方にはいくらでも。この子もそうです」

「えっ!!!」



 突然話を振られて、道具の準備をしていたもう一人のヘアメイクは大きな声を出した。



「な、なにを突然!やめてくださいよ!」

「あー、ごめん。必要なポーチ忘れてきた。代わりに江白さんのメイク頼むね」

「えぇ!?」

「コンシーラーグリグリ塗れば、多分アザも隠れるわよ。よろしく〜」



 そんなこんなで話も聞かずに、いつものヘアメイクは楽屋の外へ行ってしまった。

もう一人のヘアメイクは戸惑っていたが、仕事を放棄するわけにもいかず、気まずそうにジャンボに近づく。



「あのぉ……先輩が変なこと言ってすみません……」

「いや、あの人はいつもああでしょ。気にしてないですよ」



 表情も変えずに言い放つジャンボを見て、ヘアメイクは半分はほっとした。

そして、もう半分がそっと顔を出す。



「……彼女さん、いらっしゃるんですか?」

「いませんよ」

「え!だって痴話喧嘩って」

「お茶した女性のお母さんに殴られた、と言ってもわけが分からないと思ったので、適当に答えただけです」

「えぇ……どういうことなんですか?」

「まぁ……その」



 ジャンボは少し言葉につまり、諦めたように答えた。



「俺には子供が二人いるんです。その子たちと暮らす事が、なによりも幸せだと思ったんですよ」

「子供っ!?」



 恋するヘアメイクにとって、飛び級の衝撃だったのだろう。

数秒魂が抜けたように固まったが、すぐに正気に戻り、彼女はどんよりとしながらも仕事を続けた。



「奥さんが……いらっしゃるんですか……」

「いません」

「え、じゃあ、まさか……」



 同情の目で見つめるヘアメイクに、ジャンボは首を横に振る。



「違います。拾ったんです。俺が勝手に家に連れてきて、一緒に暮らしてるんです」

「誘拐ですか!?」

「なんでそうなるんですか」



 額を押さえるジャンボに、ヘアメイクは焦ったように両手を振って、笑いながらごまかした。



「冗談ですよ。江白さんがそんなことするわけないですもんね」



 ジャンボは答えずに、ただ化粧を続けられていた。

その目に一切の好意がないことに、ヘアメイクの彼女もとっくに気がついている。

彼に近づけるかもなんて思いはため息とともに、壁の隅へ消えていった。


 そのまましばらく無言のままだったが、ふと思い出したように彼女は口を開く。



「そういえば江白さん。あの───────」



 ジャンボは目を見開く。あまりにも突然の出来事だった。

彼女はなんとも思っていない口調で、とある地名を彼に告げた。

ただの日常会話の延長線上のように。



「そこで江白さんに似た人を見かけた気がするんですけど、あの辺りにいました?」



 自分の心臓の音ばかりが内側で響く。

ジャンボは視界を一瞬で見渡し、身の回りで武器になるものを探していた。

えんぴつ、ハサミ、よく分からない工具、なんでもいい。


『目撃者だ。殺せ』


 はっきりと耳元で聞こえた声は、紅い腕章を巻いた自分の声だった。



「……江白さん?」



 答えずに無言のまま固まるジャンボに、ヘアメイクはキョトンとして問いかける。

ハッとして、目を薄く開き、ジャンボは口角を上げた。



「ああ……ちょっとぼーっとしてました。なんの話しでしたっけ」

「いや、大したことじゃないんですけど。前に江白さんによく似た人を見かけたことがあって」



 彼女の言う「前」とは、あの時代のことだ。

なんともない事のように、彼女は問いを繰り返す。



「あの辺って大きな事件があったってあとから聞いたんですよ。結構な死者が出たって」



 どうしてこんな話題を軽々しく話せるのだろうか。

ジャンボは引きつった笑みを浮かべたまま確認するが、彼女は本当になんとも思っていないようだ。


 あの兵に所属していなかったのか、積極的に活動した集団ではなかったのか、なんにせよ、ジャンボには理解できない。



「……その事件なら俺も知ってますよ。でも、俺はその辺りには行ってないですね」

「ああ、そうでしたか。じゃあ人違いかな。江白さんが巻き込まれてなくて良かったです」



 彼女は笑顔で言った。

まるで好きな食べ物の話でもするように、何事もなかったかのように。



「……ごめん、ちょっとトイレに行ってもいいですか」

「ああ!どうぞ!すみません、大丈夫です」



 彼女は慌てて道を開けて、ジャンボは少しふらつきながら楽屋の外へ出た。

その時ちょうど戻ってきたいつものヘアメイクが、ジャンボの異変に気がつく。



「どうしたんですか!顔が真っ青ですよ……」

「いや……」



 顔を合わすたびにへらず口ばかりお互いに叩いているが、この時ばかりはジャンボはほっとした。



「……あの子、革命運動には参加してないんですか?」



 つい、口をついて出た質問に、ヘアメイクはさっと表情を変える。



「いえ、そんなことは……なにか言われたんですか?」

「別に大した事じゃないです。ただ……」



 なんの罪悪感も、後悔もない眼差しを思い出すと、ジャンボは酷く寒気を感じた。



「……とりあえず、あの子には席を外すよう言いますね。撮影には出られそうですか?」

「ええ、それは大丈夫です。仕事ですから」



 いつものヘアメイクは心配そうな顔をしたものの、楽屋の中に入り、あの子になにか用事を頼んだようだった。

入口で立ち尽くしていたジャンボは、楽屋から出てきた彼女と鉢合わせる。



「あ、続きは先輩がまた担当するそうです。中途半端ですみません」

「いえ、大丈夫です……」



 ジャンボが微笑むと彼女も笑った。そしてなにかの用事のために、舞台裏を駆けていく。

まだぼんやりしていたジャンボを、楽屋の扉を開けたヘアメイクが腕を引き、中へと連れてきた。



「……私が悪かった。みんながみんな、同じ思いをしたわけでもないですから」

「いえ……」



 ジャンボはまだ悪寒を感じていたが、額をおさえ、目を鋭く開いた。

監督がいいと言うまで、芝居は続けるものだ。


 その日、ジャンボはいつもよりかは少しミスはあったものの、特に大きな失敗もなく、撮影を終えて外へと歩き出した。

配慮があったのか、その後は彼女と会わずになんとか一日を終えることが出来た。


 けれど、あのなんの闇もないような、自分に向けられた笑顔を忘れることが出来ない。

いつもよりも数段疲れを強く感じて、少し俯きながら、家の方向に向かうトロリーバスを待っていた。



 だからだろうか。あれだけ日常的に気を張っていたはずなのに、背後から近づく人影に気が付かなかった。



 ドスン、と衝撃を背中に感じ、続けて酷い火傷のような痛みを体内に感じた。

驚いて振り返ると、そこにはあの時と同じ、罪悪感の欠片も無い笑みを浮かべる、ヘアメイクの姿があった。



「私、役者志望だったんです。どうでしたか?私の演技」



 背中に突き刺された刃物は引き抜かれ、ジャンボは膝から崩れ落ちた。

血が、口からも流れていく感覚がある。



「あの事件の犯人、私の兄を殺したの、やっぱりあなただったんですね」



 彼女は同じ顔で笑った。同じくトロリーバスを待っていた人々から悲鳴が上がる。

誰かがやって来て、彼女を取り押さえ、自分の体も運ばれていくのをジャンボは感じた。


 いつも聞こえていた呪いの声は幻などではなかったのだ。目の前に、あの集団がいる。

どこかへ運ばれる自分を、冷たく見下して、低く笑っているようだった。


 こんな覚悟はとっくにできていた。ずっと、こんな日が来るのだろうと思っていた。深く根を張った憎しみの連鎖に勝てるはずもない。

けれど、今は……。



「チョコ……バニラ……」



 ぼやけていく意識の中で、自然と言葉がこぼれ落ちる。あの二人はまた孤独になってしまう。

それだけは、どうか──。


 意識が途切れたジャンボを、必死の形相で病院に運んでいく人達がいた。

そのずっと後方で、取り押さえられたヘアメイクは、憎しみの色を目に浮かべて、彼を睨み続けていた。


 この事件は、新聞では一切報道されていない。

医師も、撮影現場のスタッフも、あの場に居合わせた人も、チョコもバニラも、誰も真相を知らない。

ただ、ジャンボが刺された、という事実と、背中を刃物で刺した犯人がいた、という事実だけが残った。


 それ以外は全て闇に消え去って、誰もその真相を追おうともしなかった。 

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