第8話

 と、綺麗に終わりたいものなのだが、そうもいかないもので。


 次の日の夜、三人がもうすっかり元通りにワイワイ食事をしていると、急に激しく扉が叩かれた。

一瞬だけざらついた空気に子供たちはドキッとしたが、すぐに扉の向こうから大きな声が聞こえる。



「おい!バカ男!さっさと出てきな!」

「ちょっとお母さん!ホントにやめてって!」



 よく知った大声と、酷く焦った泣きそうな声。

その二つが食卓に届いた瞬間に、ジャンボの顔が諦めともつかない表情になるのを、子供達は見ていた。



「二人ともここで待ってろよ」



 心底気まずそうにジャンボは立ち上がり、玄関の方へ歩いていく。

その間も扉は激しく叩かれ続けていた。



「はい……うぐっ!!!」



 扉を開けた瞬間だった。

強烈な拳がジャンボの顔面に直撃する。

そのまま後ろに倒れ込むジャンボに追い打ちをかけようと、鬼のような形相の隣人は腕を振り上げていた。



「このバカ男!!ウチの娘を泣かせたそうだね!!!」

「やめてってば!もう!!」



 ついてきてしまった娘は、もはや悲鳴のようになりながら、母親の腕を必死に止めていた。

しかし、どこからそんな腕力が湧いてくるのか、制止を振り切って隣人は再び腕をジャンボに振り下ろす。


 しかし、今度は床に倒れたまま、ジャンボがその両手を受け止めた。

驚くほどの怪力で、ジャンボの手を振りほどこうとする隣人を、娘は後ろから羽交い締めにして、なんとか引き剥がそうとする。



「ジャンボさんごめんなさい!私が黙ってればこんなこと」

「アンタが謝るんじゃないよ!一体なにが気に食わなかったんだい!え!?私の前で言ってみな!!!」

「違うんです!これはただの俺のワガママで」

「言い訳は聞きたくないよ!!!」



 もう無茶苦茶だった。

隣人はとにかく怒りが収まらないらしく、どんな言葉も届かないモンスターと化している。

ジャンボはなんとか隣人の顔をよけて、背後にいる娘に声をかけた。



「あの!友達!友達になるのどうです!」



 ジャンボが精一杯叫ぶと、とたんに娘の顔が真っ赤になった。

そして母親をおさえていた腕のことも忘れ、さっと顔を両手で隠してしまう。


 急に支えを失った母親は、そのままの勢いでジャンボに倒れ込んだ。

二人分の悲鳴が玄関にこだまする。



「ジャンボさん!」



 恋は盲目とはよく言ったもので、娘は母親よりもジャンボの方を咄嗟に気にかけ、声をかける。

すると、二人ともげっそりした顔で、ゆっくりと起き上がった。

なぜか勢いをそがれた隣人は、もうジャンボの方を見ようともしない。



「……なんで急に手を離したんだ」

「え、だって、友達なんていいのかなって……」



 娘は照れてわたわたしながら、座り込むジャンボを見る。

すると、その頬にベッタリとキスマークがついているのに気がついてしまった。



「あ……」



 三人はしばらく気まずい沈黙の中、目も合わせずにそれぞれ虚無を見つめた。

仕方なく、ジャンボはその場を収めるためにも顔を上げ、ため息をついて話し出す。



「友達……で、どうでしょう」



 かなりぼそぼそとした声だった。

けれど、娘はまたハッとして、顔を真っ赤にして何度もうなずいた。

ジャンボはその様子を見て、ふっと肩の力が抜ける。



「でも、俺も仕事もあるし、この間みたいに出かけることはできません。だから、お母さんの家にあなたが来た時に話せたら……俺も嬉しいです」



 ジャンボが微笑むと彼女も嬉しそうに笑った。

そんな二人を見て思うところがあったのか、隣人は突然立ち上がる。



「うごっ!!」



そしてまたジャンボを全力で殴り、そのまま外へスタスタと歩いていってしまった。



「腰抜けめ……」

「お母さん!!!」



 娘はだいぶ怒ってそのあとを追った。

けれど、一度だけ振り返り、笑顔と共にジャンボに会釈する。


 ジャンボはうつ伏せに倒れたまま、少し顔を上げて、同じく笑って手を振った。

すぐ隣から扉が閉まる大きな音が聞こえた。


 少しの静寂の後、修羅場を陰から見守っていたチョコとバニラは、恐る恐るジャンボに近づいた。



「なぁ……大丈夫?」



 バニラが声をかけたが、ジャンボは顔もあげずうつ伏せで倒れたままだ。

でも、酷い怪我をしてる様子でもない。

バニラとチョコは顔を見合わせて、ニヤッと悪い顔になる。



「ジャンボさぁ、あのオバサンのパンチ、よけれただろ」



 バニラとチョコはジャンボの背中をつんつんつついた。

すると、ジャンボはくるりと体の向きを変え、無言のまま二人に背を向ける。

二人は余計にニヤリと笑いジャンボの背中をつつき回した。



「ジャンボやさすぃー」

「色男ぉー」



 いつまでもつつくので、ジャンボはイライラしながら、振り払うようにばっと起き上がった。

すると二人はジャンボの顔を見て大笑いする。



「オバサンとキスしてんじゃん!!!」

「モテモテジャンボだ!!!」



 ゲラゲラ笑う二人の前で、ジャンボは頬を雑にこすり、残っていたキスマークを消した。

そして、開いたままの玄関の扉を勢いよく閉めて、そっぽを向いて食卓に戻る。



「ねぇ、ジャンボ、もしかして初めてのチュウ?」



 それでもしつこくからかい続ける二人とやっと視線を合わし、ジトッと目を開いた。

あ、やばい、と思ったのもつかの間、二人は逃げるまもなく小脇に抱えられて、そのままジャンボは宙返りを始めた。



「ぎゃーーーー!!!!」



 二人分の叫び声が部屋の中に響き渡る。

ぐるぐる回る視界と不安定さと、腕にかかる力の全てが怖い。怖くないはずがない。


 二人はすぐさま叫びながら謝ったが、しばらくジャンボは無言のまま二人を離さず宙返りした。

たまにわざとよろけてみせると、二人はより一層怯えた声で叫ぶ。



「うるさいよ!!!」



薄い扉をぶち破るように、隣人の怒鳴り声が響いた。

ジャンボは頬の感触をふと思い出してしまい、背筋に悪寒が走る。

仕方なく涙でベロベロの二人を解放し、ジャンボは席に着いた。



「ごめんなさい〜!」

「黙って食え」



 やっと声を出したがそれだけで、ジャンボは無言のまま勢いよくガツガツと飯をかっこんだ。

普段はもそもそ食べている印象なのに、激しく音を立てる姿を見て、子供達はまただばっと泣いた。

そして、モシャモシャしながら、雑に食器を片付けて、寝床にもぐりこみさっさと寝てしまう。



「ジャンボ〜……ごめん〜……」



 背中を向けるジャンボに、少し罪悪感を覚え始めたのか、子供二人はその背中を揺らしたりして、なんとなく声をかけた。

けれど、ジャンボは枕に頭を預け、なんだか疲れてしまって、ぼんやりと揺らされる感覚だけを感じる。

そして、そのまま少し寝ていたらしい。


 ふと目を覚ますと、暗くなった部屋で、二人の子供が背中に抱きついて寝ていることに気がついた。

温かく小さな重みが二つ分、背中に乗っている。



「まったく」



 ジャンボはあくびをして、そのまま大きく息を吐き、そっと子供たちから離れた。

そして二人のために用意した布団の上に、彼らを起こさないように寝かせる。

テーブルの上には、ジャンボが寝てしまう直前と変わらないまま、食べかけの食事が二人分残されていた。



「バカだなぁ……」



 ジャンボは寝息を立てる二人の頭をそっとなでる。

こんな生活がいつまでも続くことを、誰よりも望んでいるのはきっと自分だった。

殺風景でゴミの散らかっていたこの部屋が、こんなにも賑やかにうるさく、楽しくなったのだから。



「おやすみ」



 きっといつか、別れの日が来る。

それまでは彼らと一緒に、穏やかに暮らせれば、他に欲しいものなど何もない。


『それがどんな別れ方でも』


 ハッと目を開いた。

また、呪いの声が耳元で囁いた。

左腕に巻きついた紅い腕章が、キツく締め上げ剥がれない。

どんなに笑おうと、泣こうと、きっと死ぬまでこの囁きを聞き続けるのだろう。


 まどろみの中、彼は酷い叫び声の中にいた。

どこにも逃げ場のない暗闇に閉じ込められて、血まみれで倒れた人々を見下ろしている。


 血に染った両手を見た。

今度は、誰を、殺したんだ。


 毎晩のように見る悪夢はただの幻だ。けれど、きっと終わりはこない。

それでもただ、今は、彼らと過ごせたらそれでいい。


 虚構の幸せでも、それでも。

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