第6話

 約束の食堂は歩いて数分もたたないところにあった。

少し呼吸を整えて扉を開けると、その音に席に着いていた女性が振り返り、顔を嬉しそうにほころばせた。

ジャンボはなんとなく、軽く頭を下げて、女性の前の席に座る。


 他に客はほとんどいなかったため、すぐに店員がテーブルまでやってきて、注文を聞かれた。



「好きなの頼んでください」



 ジャンボは手元に置かれた手書きのメニュー表を、彼女に丸投げするように手渡した。

女性は少し焦ったが「あまり外食はしなくて」という言葉を聞き、なにかを察したように、慣れた動作でメニュー表を指さし、店員に注文を伝えた。


 店員はさっとメモを取り、そそくさと奥へ戻って行った。

なんとなくデートの邪魔をしないようにという配慮があるような、それでいて奥から視線もしっかり感じる。

なんだか学校にいた頃の自分を思い出して、少し笑った。



「どうしました?」

「あ、いえ。なんでも」



 目の前の女性は、なにがそんなに嬉しいのか、ずっとジャンボをみてにこにこしていた。

なんとなく気まずいような心で、持て余した手をテーブルの上に乗せた。



「京劇の話が聞きたいんでしたよね」

「はい」



 ちょっとため息をつき、ジャンボは女性と視線を合わせる。



「俺が知ってる京劇の世界は、幼い頃から続く稽古の繰り返しでした。集まったのはみな、親と暮らせない子供ばかりで、京劇の公演をすることで食い扶持を稼いでいた。

そんな世界です」

「でも、その中で、ジャンボさんは映画に出るほどの技術を身につけたんですよね?」

「ええ、そうですね。恩師には感謝してもしきれません」

「今でもお会いになられたりするのですか?」

「いえ、死にましたよ。紅衛兵に追い詰められた末の、自殺です」



 目の前の女性は、分かりやすく顔を青くした。

そんな時、頼んだお茶が届いたが、店員はしっかり会話を聞いていたらしく、ジャンボのことをじとっと睨む。

しかし、ジャンボはどこ吹く風で、お茶を口に含んだ。



「それでも、学校にいた頃の記憶は、俺にとって大切なものです。だからこそ、あの子たちと暮らすようになったのかもしれません」



 女性はパッと表情を明るくして、ほっとしたように笑った。



「つらいことばかりではなかったんですね」

「ええ、生徒たちはお互いに家族のように過ごしてましたよ。男所帯ですから、雑な暮らしでしたが」

「少し、母から聞いています。私が産まれる前に住んでいたところに京劇の学校があったって。みんな元気で健気で、でもたまに公演に行って見に行くと、全く別人のような鮮やかな動きをされてて感心したそうです」

「それでお金を稼いでいましたからね。それ相応の特訓はしてました。たまに先生がいない時だけは、目を盗んで学校を抜け出して、みんなで好き放題したもんです」

「ふふ、どんな遊びをされたんですか?」

「多少の小遣いはありましたから、露店の食べ物や安い風車なんかを回して遊んでました。それと」



 一瞬の逡巡を振り切り、ジャンボは続けた。



「ちょっと金を渡せば、エロ本を売ってくれるおやじがいましてね。もちろん公認されたもんなんかじゃないですけど、たまに見かける俺たちに同情してか、いつも売ってくれましたよ。

1〜2冊買って、皆で回し読みしてました」



 女性はかなり動揺したようで、顔を赤くしながら視線をそらした。

ジャンボはその姿を、どこか遠くのもののように感じていた。



「男なんてそんなもんです」



 言い添えて、お茶をまた飲んだ。

なにか店の奥から殺気を感じるが、知ったことではない。

黙り込んでしまった女性に、ジャンボは唐突に問いかける。



「あの時代、「革命運動」の時、あなたはどう過ごしていましたか」



 女性はさっと表情を変え、思わず顔を上げた。

すると、まるで感情のないような、乾いた視線で自分を見る彼がいた。



「私は……父が弁護士だったので、迫害されそうになりながら、でも妾の子と知ったとたんに、態度を変える人々を見て過ごしました。

何度もあの集団にも誘われて、それが嫌で、母と隠れ住んでいました」



 とても話したい過去ではなかっただろう。

でも彼女は、ジャンボの問いにまっすぐ答えた。

なのにジャンボは突き放すように、彼女へと告げる。



「俺はその集団の一人でした」



 店内はしんと凍りついたように静まり返る。

女性は表情を変えないジャンボを見て戸惑い、けれど微笑んで取り繕おうとした。

そして、少し震えた声でジャンボに言った。



「勧誘もほとんど強制でしたものね。私は逃れられて、運がよかったほうだと思ってます」

「いえ、自分の意思で志願したんですよ。俺はなりたくて紅衛兵になったんです」



 もう、女性はなにも返事を返せなかった。



「なにかを恨んでた、というほどでもなかった。けれど、こんな国は滅べばいいと思っていました。

あの頃、映画産業からも京劇の姿は消えて、数あった学校のほとんどは潰れてしまった。

もちろん、俺の通っていた学校もその煽りを食いました。

愛想を尽かしてしまったんです、全てに」



 ジャンボはまたお茶を口に運んだ。

お茶の味など分からない。それに、これが最後の一口だった。



「紅衛兵として俺は人を殺しました。何人も、見殺しにした数を含めれば、それこそ数え切れません。あなたの前にいるのは、ただの人殺しなんですよ」



 抑揚も温度もない声に、女性はずっと青ざめていた。

彼の背後に、何人もの死神が付きまとっているように感じた。

それはあまりにも、自分の生きてきた世界とは違う、恐ろしい冷たさで。



「……京劇の話から逸れてしまいましたね。けど、これが俺の見てきた世界です。

あなたが憧れたようなきらびやかなものは、そのほんの一瞬を切り取った幻想なんですよ。

だからこそ、みんな映画や京劇を好んでいたんでしょうけどね」



 ジャンボはポケットから財布を出し、代金をテーブルのはしに置いた。

そして、無言の女性を置いて立ち上がる。

しかし。



「待ってください!」



 ハッと振りかえると、彼の背中を追うように、女性は立ち上がり涙を流していた。

ジャンボは思わず立ち止まり、彼女から視線をそらせない。



「私はずっと、あなたのことが好きだったんです」



 女性は精一杯の声で、泣きながらジャンボに訴える。

その声を聞いてジャンボはただ、立ち尽くした。



「初めて見た時あなたは……今日のように冷たい顔をしてました。だから、怖い人が近くに住んでるんだなって、ちょっと警戒しました。

買い物してるのにあんまり露店の人とも話さないし、無愛想だし、喧嘩でも始まったらやだなぁって、そんな目で見てました」



 ひどいですよね、と女性は笑った。



「でも、次に見た時には、あなたは優しい顔で笑ってました。きっと、お子さんたちと出会った後だったんだと思います。

だって、一人前にはとても多い量の買い物をして、子供が好きなものってなんだろうなんて、お店の人に聞いてるの、たまたま聞こえましたから」



 女性は涙をこらえて、なんとか笑顔を保っていた。

服の裾をぎゅっと握りしめ、苦しげに笑う。



「この人、こんな顔もできるんだって、なんだか私、嬉しくなったんです。変ですよね。お互いに話したことだってないのに、私は、たまに街であなたを見かけるだけで、なんだかいつも嬉しくなって」



 彼女の声が震える。



「気がついたら、あなたに恋をしてました」



 彼女はそれ以上、なにも語らなかった。

酷く苦しげに泣いてしまって、話すことが出来なかったのかもしれない。

俯いて声を押し殺して泣く彼女に、ジャンボはふっと歩み寄る。


 そして、腕は自然と彼女をなだめようと、頭をぽんとなでていた。



「俺も……街であなたを見かけることがあったの、覚えています。あなたはいつもなぜか嬉しそうで、にこにこ笑っていたから、不思議な人だと思っていました」



 彼女はその瞬間、耳まで顔を赤くして、ばっと顔を上げた。



「気がついてたんですか…?」

「ハッキリとは分かりませんでしたよ。ただ、こんな治安の悪い街で、笑ってる人の方が少なかったから。

だから余計に、隣人の娘さんだと聞いて驚きました。

それと納得もしました。あの子たちを拾ったあと……いや、その前からずいぶん、お母さんには助けられましたから」



 ジャンボはそっと息を吐き出して、彼女に頭を下げる。



「恩を仇で返す様なことをして、すみませんでした」



 彼女はさっきよりもかなり動揺して、照れたり焦ったり曖昧な表情のまま、彼に声をかけた。



「あ、あの、顔をあげてください。仇なんて思ってません。ジャンボさんは、私に真剣に話してくれたじゃないですか」



 ジャンボは顔を上げて、彼女と視線を合わせた。

全て打ち明けてしまったせいだろうか。彼女は想い人を見る瞳をキラキラと輝かせた。


 その目を見た瞬間、ジャンボは思わず息をのんだ。

あのいつも幸せそうに微笑んでいた人が、その視線をこちらに向けて、あまりにも美しく笑っていたから。



「ジャンボ!!!」



 突然、現実に引き戻されるような、よく知った叫び声を食堂の外から聞いた。

同時に中に駆け込んでくる子供の姿があった。


 チョコ……だと思ったが、違う。

バニラが大泣きしながら、必死に彼女にしがみつき、ジャンボから彼女を遠ざけようとしていた。



「な、なにをしてるんだ!バニラ!?」



 動揺しながらも勝手に体は動き、急いで女性からバニラを引き剥がし、腕に抱えた。

女性はとくに怪我などはしていないが、ただただ驚いて、抱えられて泣きじゃくる子供を見ていた。

バニラはずっと必死な声で、女性に訴えていた。



「ジャンボをとらないで!!!俺たちからジャンボをとらないで!!!」



 半年前よりも強くなった力で、バニラはバタバタと暴れた。

ジャンボは抑え込むのが難しくなり、どうしようもなく、バニラの頭をゴツンと殴る。

すると、その衝撃で一瞬静かになり、すぐに大声で泣き出した。


 もう暴れはしなかったが、苦しく悲しげな声で、バニラは泣き続けた。



「あの……」



 いてもたってもいられず、女性は距離をとったまま彼らに声をかける。

ジャンボは少しぼんやりして、初めて笑顔で女性を見た。



「あなたが好きになってくれた俺は、こいつらに会ったあとの俺なんですよね」



 女性はその言葉ですべてを察した。

もう彼らを追おうとはせず、子供をなだめようとする彼を静かに見つめた。

バニラを抱えなおし、ジャンボは最後に一言だけ、彼女へ告げた。



「俺を好きになってくれて、ありがとう」



 街で見かけた時よりも、ずっと優しく、温かい笑顔だった。

女性は頷いて、微笑み返した。

ジャンボは腕に抱えた子供に声をかけ、食堂をあとにする。

残された店内で、女性は少し立ち尽くし、そして泣いた。


 一部始終をしっかり見守っていた店員が駆け寄り、彼女をなだめながら椅子へ座るよう、背中に手を添える。

「あんな男ほっとけ」とか「見る目がない」とか、彼女を慰めようと店員は声をかけたが、女性は泣きながらずっと首を横に振っていた。


 母の隣に住んでいると知らなければ、あの時声をかけなければ良かったのだろうか。

きっと、そんなことはない。

優しく温かい笑顔を自分に向けてくれたことを、彼女は決して忘れなかった。


 それでも、ひとつの恋が終わってしまったことを、深く受け止めなければいけなかった。

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