第5話
それから数日がたっても、彼らはなんだかギクシャクし、もはや必要最低限の受け答えしかしていなかった。
特にチョコの方は黙り込むことが多く、その様子を見てバニラはどこか焦っている。
けれど、ジャンボも彼女との約束を破る気はないので、もう意地の張り合いだ。
そんなこんなで、気が付けば一週間が経ってしまった。
仕事から帰ってきたジャンボは、もちろん今日が約束の日だと頭の中に常にあり、おかしな緊張をぐっと飲み込んで、見慣れた扉の鍵をあけた。
「ただいま」
一応、声はかけてみる。
しかし、子供たちは奥の寝床の上でじっと座り込み、それぞれ床を見つめてなにも喋らなかった。
ジャンボもそれ以上は声をかけず、食堂へ行くために、多少小綺麗に身支度を整える。
「ねぇ、本当にあの人と会うの?」
バニラが拗ねたような、口を尖らせたままの声で、ジャンボに問いかける。
「ああ、約束だからな」
ジャンボは服を着替えながら、振り返りもせず答えた。
しかし、次の瞬間、この1週間ほとんど喋らなかったチョコがその背中に、暗く呟く。
「会って、どうするんだ」
一瞬、チョコの声にジャンボは怯んだ。そのくらい、低く呪詛を吐くような声だったからだ。
戸惑いながらも平静を装い、ジャンボは答える。
「会って、話をする。京劇の話を聞きたいと言っていたから、それを聞かせるだけだろう」
「それで?」
「話し終わったら、家に帰るよ」
「まさか、そんなわけないだろ」
ゾッとした。チョコは子供とは思えない声で暗く呟き、そして、殺意を向けているのが分かった。
最初に会った時に、彼に化け物のような影を見た事を、ジャンボは唐突に思い出す。
迫力に気圧されてなにも答えられないでいると、チョコはそのまま呪いの言葉を続けた。
「女の人を押し倒して、どんなに嫌がっても、叫んでも押さえつけて、服を破り捨てるんだ。
泣いても誰も助けない。みんな笑ってその姿を見ているだけだ。
全部服を脱がせて、大勢で母さんを」
「チョコ!!!!!!」
全てをかき消すような大きな声と共に、鋭いビンタの音が響いた。
思わずジャンボが振り返ると、真っ青な顔をしたバニラが、チョコの肩を掴んで揺らしていた。
「しっかりしろよ!!ジャンボはそんなことしない!!ジャンボはそんなやつじゃないだろ!!」
バニラに肩を揺さぶられ、チョコの目からおどろおどろしい闇が、ふっと消えた。
バニラはもう泣いていた。その後ろでは、困惑と少しの恐怖を混ぜたような顔で、ジャンボがチョコを見ている。
チョコはその二人の様子を見て、いつもの焦ったような顔になり、そして少し泣きそうに顔をゆがめて、勢いよく立ち上がり、部屋の奥の物置の中に閉じこもってしまった。
「チョコ!!」
今度はジャンボも駆け寄って、扉の前から声をかけた。
しかし、中からはなんの音も聞こえない。
泣き声さえも聞こえない。
扉の前でしゃがんで動けないジャンボに、バニラは虚ろな声で、そっと語りだす。
「……俺とチョコが会ったのは、5才の時だ。俺は親に「ここで待ってなさい」と森に置いていかれて、それっきりいくら待っても親は帰ってこなかった。
捨てられたと気がつくのが早かったから、俺はなんとか森から出られて、家へ帰る道も分からないから、ゴミを漁ったりして生きてた」
今まで触れないようにしていた過去だった。
バニラは苦しげな息づかいをぐっと押さえつけながら、そのまま言葉を続けた。
「俺は親を恨んでる。だから名前も捨てて、自分で自分に付けたんだ。でも、チョコは違った」
ジャンボは気が付けば、顔が真っ青になっていた。
脂汗が額から流れ落ち、呼吸も浅く短くなってゆく。
「チョコは俺と会った時、ヘラヘラ笑ってた。ちょっと良い服を着てたから、俺は警戒したんだ。
でもどう見ても親と一緒にいるようじゃないし、俺の事なんか構わずそこら辺に落ちてた、腐ってるような誰かの食べ残しを拾って口に運んでた。
思わず止めに入らなかったら、チョコとは一緒に居なかったと思う」
物置の中からは相変わらずなんの音もしなかった。
まるで中は空っぽで、誰もいないかのようだ。
「チョコは俺と会うまでの記憶が一切なかったんだ。どうやってここまで来たんだと聞いても笑うばかりで、分からないと言って、またふらふらとどこかに行こうとした。
なんだかよく分からないけど、俺だってそんなよくわかんないやつに構ってる場合じゃないのに、ほっとけなかった。
次の瞬間には、死んでるような気がしたんだ」
バニラの声は泣き声へと変わっていた。
けれど、とても静かな声だった。
「とにかく今着てる服じゃみんなむしろ警戒するからって、どっかの軒先で干されてた人民服を盗んだ。
それをチョコに渡して、俺たちはとりあえず二人でいたんだ。
その内にチョコは笑わなくなったけど、ぼんやりしてばかりで……でも、ある時紅衛兵と会った」
ジャンボはもう、息がまともに出来ていなかった。
背後には紅い腕章を付けた彼らが忍び寄る。
ずっと、彼に囁き続ける、呪いの声が一段と大きくなる。
「チョコは突然、さっきみたいにおかしくなって、紅衛兵に襲いかかった。
相手は大人だったけど一人だったし、本当に突然の攻撃だったから、たまたま勝てた。
気を失ったそいつを……チョコは……殺そうとしてた」
自分の腕に着いていた、自分の意思で巻いていた紅い腕章を、ジャンボは忘れたことなどない。
けれど、それを誰かに話したこともない。
こんな日が来ることを予測できていたのに、もう過去のものとしてずっと封印していた。
「俺はもうわけわからなくて、めちゃくちゃ泣いてチョコをとめて、そしたらなんとかチョコも正気に戻った。
でも、自分がやったことを覚えてなくて、倒れてる紅衛兵を見て怯えてた。
どうしたらいいかなんて分からなかった。
けど、分からなかったけど「お前強いんだな。今日のご飯はこれでなんとかなるぞ!」って、俺が言った。
それで、その人から持ち物奪って逃げた。
そのせいだ……。その日から俺たちは、そこら辺の人を脅すようになった。
俺はどうしたらいいか分かんなくて、紅衛兵が来たらチョコを引きずって隠れて、チョコもまともにご飯が食べられるようになったら、ふつうの顔で笑うようになってて、映画館にも入り込んで、そしたら、二人で一緒にいつか映画に出ようって、そんなことチョコが言ったから……」
バニラは胸をおさえながら、一気に喋り、そのあとは続けられなかった。
彼も声も出さずに、ボロボロ泣いていたのだ。
きっと話さなかったんじゃない、話せなかったんだ。
自分のせいで泥棒稼業を始める事になってしまったと、バニラはずっと、心の中で悩んでいたのだろう。
まだ10才の小さな体の中で、どれだけの葛藤があったのだろうか。
ジャンボは思わずバニラをぎゅっと抱きしめた。声のかけようもなかった。
ジャンボの背後にもずっと変わらず、あの紅い腕章がまとわりついていたから。
腕の中で静かに泣き続ける小さな子供に、ジャンボは、今伝えなければならないことを言った。
「俺は、食堂へ行く。それは約束したから。人として、約束を破りたくないから」
バニラは目をぎゅっとつぶった。
ジャンボは抱きしめたまま、自分への戒めのように、言葉を続ける。
「でも、話し終わったら帰ってくる。俺を信じてくれ」
偽善者、と背後から声が聞こえる。
お前だってあの子が欲しいだろ?と、耳元で誰かが囁く。
そんな自分の「信じてくれ」なんて言葉は、あまりにも薄っぺらく感じた。
でも、バニラは頷いた。
泣きながらも、無言で何回も頷いた。
「……チョコを頼んでいいか?」
バニラはまた頷いた。
ジャンボはそっと腕の力を緩めて、バニラの前にしゃがみこむ。
そして、バニラの頭を力強くなでた。
「じゃあ、行ってくる」
バニラは頷いた。物置からはやはり、なんの音もしない。
あの薄い扉では、二人の会話はすべてチョコに聞こえていただろう。
それでも、物置は人がいるような気配すらせず、しんと静まり返っていた。
ジャンボはもうなにも喋らなかった。
泣きじゃくる子供を残し、玄関へと歩いて靴を履く。
その動作の一つ一つを意識しないと、背後の暗闇に連れていかれてしまいそうだった。
振り返ることも出来ず、扉を閉めて、鍵を閉めた。
いつも三人で特訓している中庭を、一人の大人の足音だけが響いた。
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