第3話
翌朝、頭上をそろりと動く気配を感じ、江白はゆっくりと目を開いた。
「どこへ行くつもりだ」
「ひぃー!!!」
発声とともに子供の足をガッと掴んだため、子供は驚きそのままころがった。
「この家を抜け出して、どこか行くあてはあるのか」
「バ、バニラが……」
「バニラ?」
訝しげな顔をする江白に、子供はずいぶんと迷って、わかりやすく目を泳がせていた。
「俺を掴まえて、どこかに売り飛ばすのか?」
「連れてきた理由は昨日話した通りだ。俺がお前の面倒を見る。そのくらいの食い扶持なら稼げるだろう」
「なんで?」
子供はぶかぶかの人民帽を両手で掴み、ぎゅっと握りしめながら聞いた。
至極真っ当な質問だろう。
答えなくてはいけないと分かっていたのに、江白はうまく言葉に出来なかった。
「分からない……だけど、放っておきたくない。俺は……」
迷いながら話す江白を、子供はじっと見つめていた。
その背後で突然、家の扉が大きな音で叩かれる。
「なんだ?」
普通の力のこめ方ではない、かなりの腕力で扉が殴られている。
戸惑いながらも扉に近づいた江白は、さらに大きな音と衝撃で、扉が破られそうになる音を聞いた。
「なんなんだ一体!」
さまざまな理由が頭の中を駆け巡る。
江白は目を薄く開き、台所の中華包丁を片手に握った。
その背後ではなにかを察した子供が、オロオロとよく分からない動きをしていたが、それに構ってる暇はなかった。
扉の衝撃音の合間の一瞬、江白は鍵を素早く開けて、扉を内に引いた。
「ああああああああ!!!!」
すると、江白が想像していたよりだいぶ小さい、いや、小さすぎる子供が叫び声とともに部屋の中に転がり込んできた。
どうやら飛び蹴りを扉に加えていたらしく、対象を失った体はそのまま玄関へと倒れ込む。
江白はかなり戸惑ったものの、すぐに扉を閉めて鍵をかけた。
カチャリ、という不穏な音に、飛び込んできた子供はゾッとして振り返り、包丁を片手に構えた背の高い大人を見つけて、さらに顔を青ざめさせた。
「バニラ!!」
奥の居間から泣きそうな子供が駆け寄り、飛び込んできた子供にしがみつく。
その姿に一瞬安堵したように見えたものの、ゆらりと包丁を持った大人が歩き出したので、子供たちはお互いにしがみつきあって、ボロボロ泣きながら震えた。
「殺さないでぇ〜!!!」
まるで昨晩の繰り返しを見ているようだ。
江白は薄く開いた目を閉じて、ふっと肩の力を抜いた。
手にした包丁を台所に戻し、震える子供二人の前にしゃがみこむ。
「別に殺したりはしない。話し合いをしよう」
「嘘だ!!チョコをさらって内臓を売り飛ばすつもりだったんだろ!!!」
これまた馬鹿みたいに大きな声が耳にキーンと響き渡る。
新たに転がりこんだ子供は、白い
あの扉への打撃音も含め、この子供もただものでないことを、江白は理解せざるを得なかった。
――――――――――
【※2】丈の短い中国式の単衣の服。
──────────
「話し合いをしたくないなら、それでもいい。お前、そいつの仲間なんだな?」
江白はわざと短褂の子供を睨み付ける。
すると、つい後ずさった子供を庇うように、人民服の子供が手を広げた。
「バニラは俺の兄弟だ!なんかしたら許さないぞ!!!」
目に涙を溜めて、恐怖に震えながらも、江白を睨み返している。
江白はやはりかと額をおさえ、しばらく考え込んだ。
「お前たち、チョコとバニラって名前なのか。そのネーミングセンスはなんなんだよ……」
「バニラ美味しいだろ!!!」
もはやなにに怒っているのか自分でも分からないまま、バニラの方は涙と鼻水でデロデロになっていた。
子供たちは同じくらいの年に見える。
しかし、顔つきはあまり似ておらず、血のつながった兄弟には見えなかった。
「……分かった。バニラ、お前はそこのチョコを助けに来たってことか?」
「そうだ!さらわれていったのを見た奴がいたんだ!!」
「どうして俺がお前の兄弟をさらったのか、それは理解してるか?」
「内臓を売るためだあああ!!うわあああ!!!」
「話を聞け。そこのチョコが、俺に刃物をつきつけて、金品を巻き上げようとしたんだ」
江白がチョコを指さすと、バニラは振り返って、気まずそうなチョコを見た。
次の瞬間、バニラはチョコの胸ぐらを両手で掴んで、ガクガクと揺らす。
「だから襲う相手は選べって言っただろおおおお!!!バカッ!!!」
「だって!!!そのおっさんの動き人間じゃない!!!」
朝っぱらの大喧嘩は耳鳴りがしそうなほど、頭にガンガンと響く。
いい加減本当にクレームが入るだろう。
江白は立ち上がり、二人の頭を同時にゴンッと殴った。
「近所迷惑だ。静かにしろ」
二人は頭を抑えて、一気に威勢を削がれ、だばっと泣いた。
「俺は脅された後、そっちのチョコを連れ去った。それは間違いない。でも俺は、お前たちを売り飛ばそうとかそんな気は無い」
無言で唇を噛み締めて泣き続けるふたりに、江白は昨日と同じ言葉を繰り返した。
「お前たち二人を野放しにしたら、また誰かを襲うつもりだろ。だから、お前たちはここで暮らしてもらう。自分で生活できるようになるまで、俺が面倒を見てやる」
「なんでそんなことするんだ……おっさん他人だろ」
これもまた、繰り返された質問だった。
分かっている。これに答えられなければ、この子達をここに留めておく権利などないと。
江白は頭の中をぐるぐる回る言葉に悩み、額を抑えた。
どうして自分はこんなことに首を突っ込んだ。
決して裕福でもないのに、どうして知らない子供の面倒をみようなんて思っているんだ。
しばらくの沈黙が続き、額を押さえて動かない江白を、チョコとバニラの二人は、お互いにそでを掴み合いながら見つめていた。
悩み抜いた江白は、記憶のびんの蓋がふいに開き、言葉がこぼれ落ちた。
「俺の先生が、俺を助けてくれた。きっと、その真似だ」
今さらな、と江白は目を伏せて薄く笑った。
バニラとチョコは顔を見合わせて、やはり不審そうにしながらも、江白へと尋ねる。
「先生って、なんの先生?」
「
「キョーゲキ《ジンジュー》ってなに?」
二人の子供の純粋な質問に、江白は困ったように笑った。
「見たこともないか……。お芝居だよ。歌ったり、剣で戦ったり、宙返りをしたり、足技で舞台を駆け抜けたり……」
「それってカンフーのこと?」
江白はつい言葉に詰まって、少し沈黙したあと、首を横に振る。
「違う、その下地になったのは確かだ……けれど、カンフー映画とは違うんだ……」
落ち込んだ声を出す江白を見て、二人の子供はきょとんとしていた。
いつの間にか泣き止んでいたし、目の前にしゃがみこむ江白のことを睨むのもやめていた。
「でも俺、昨日おっさんの動き見た時、カンフーみたいだと思ったよ」
不思議そうに聞くチョコに、江白はまた答えに困って、少しぼんやりとした。
「京劇の立ち回りってのは踊りだ。軽業師だ。もちろんカンフー映画みたいな動きもできるが、それは……」
「俺、映画見て特訓したんだ!」
突然バニラは立ち上がり、本当に映画のような足さばきを見せた。
床に対し垂直になるまで高く足を上げ、そして恐らく必殺の型をとる。
チョコも立ち上がり、大きく体を回して前転し、やはり必殺の型らしきポーズをとった。
「映画館に忍び込んで、二人でずっと練習したんだぜ!」
どこか得意げに、チョコとバニラは謎のポーズをとる。
その姿を見ていると、江白はなんだか肩の力が抜けるのを感じた。
京劇が廃れていった頃、映画業界は京劇に見切りをつけて、カンフー映画を作るようになった。
殺陣などは京劇の要素がふんだんにあり、だからこそスタントマンの仕事の口も増えていたのだ。
求められていたのは歌劇ではなく、身のこなしだけで、京劇の
だから、心の奥底のどこかで、京劇を踏み台にしたカンフー映画のことを憎んでいたのに。
「変だと思ったよ。お前たちの立ち回りが、京劇の動きに似てたもんだから」
江白は笑った。少し悲しそうな笑みに見えたが、子供二人には、その真意は分からない。
ひとつ溜息をつき、江白はゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと表に出よう。カンフーは見せられないが、京劇の
返事も待たずに江白は扉を開けて出ていってしまう。
二人は顔を見合わせたが、とりあえずそのままついて行くことにした。
外へ歩いていくと江白が中庭で軽く柔軟体操をしている。
「結局、京劇ってカンフーとどう違うの?」
「さぁな」
江白は急に大きく飛び跳ねると、両足を高くあげて、地面に両手をついた。
そしてまた、腕を押し込んで、体を宙に舞いあげる。
そのまま後転を繰り返し、最後は背中から落ちて、重心を傾けてくるりと地面から手も使わずに立ち上がった。
そばの木にかけ上るようにするすると昇り、その枝の隙間から江白は飛び降りて、回転しながら着地した。
驚いて口をぽかんと開ける二人のそばに、江白は歩み寄る。
「どうだ、感想は」
みるみる内に、子供たちの目が輝いていく。
そんな反応をずいぶんと久しぶりに見た気がして、江白は笑った。
「お前たちもやってみたいか?」
子供たちはブンブンと頭を縦に振った。
きっと、彼らの目には憧れのカンフーが見えているのだろう。
それでも構わない。
失ったと思っていた京劇は、形を変えても確かに生きているのだと知ったから。
「じゃあ、俺とここで暮らして、人を襲うのをやめると約束してくれ」
「分かった!!!」
無邪気なもので、キラキラした瞳のまま二人は即答した。
本気で教えこもうとまでは思わない。
俺は京劇の先生ではないし、先生のように厳しくなれる気もしない。
江白は二人の頭を撫でて、まずは飯だと家へ戻った。
その後ろを、子供たちは嬉しそうについて行く。
「あ、そうだ。お前たち、名前は変えてもらうからな」
「え!?」
チョコは不満げな顔をし、バニラだけが口を尖らせて抗議した。
「なんでだよ!バニラって美味しいだろ!!」
「美味しいけど、ダサい」
大きなショックを受けてしょげるバニラの肩を、チョコはポンポンと叩いた。
「ちゃんとした名前を考えてやる。そうじゃないと学校でも笑われるだろ」
「え!!」
今度は二人同時に驚いた。
「学校に行けるの…!?」
「たぶんな。俺の稼ぎしだいだ。まぁ、スタントマンの仕事も復活してきてるし、応募すればいい稼ぎになるだろ」
「ええー!?」
意地を張って背中を向け、見ないようにしていた世界を、江白は振り返ってみることにした。
もしも、誰かに希望を与えられるなら、それはきっとどんな形でも素晴らしいことなのだろう。
映画館に忍び込む宿なしの子供でさえも、ヒーローの姿をしっかりと認識していたのだ。
俺はヒーローじゃない。けれど、その影くらいになら、もしかしたら。
「カンフーも教えてくれる!?」
「カンフーじゃなくて京劇だ。お前たちならあっという間に覚えられるだろうな」
「ホント!?ホントに!?」
二人はもうすっかりなついて、江白のそばを離れなかった。
そういえば、と思い出したように、バニラは江白へと尋ねる。
「ねぇ、おっさんの名前ってなんて言うの?」
台所に立った江白は、3人前の野菜炒めを混ぜながら、バニラへ答えた。
「俺は江白だ」
「ジャンボ!?」
「違う、ジアンバイだ」
「ジャンボじゃん!!!」
江白が不愉快そうに眉をひそめると、バニラはにやりと笑ってジャンボと繰り返した。
チョコも一緒になってジャンボ、ジャンボと騒いでいる。
「あのなぁ」
怒ろうとした矢先、玄関の扉が叩かれて、江白が応じるとそこには隣人が立っていた。
「昨日からめちゃくちゃうるさいよ!どうなってるん…だ……」
四合院の隣人は、さっと江白の後ろに隠れた二人の子供を見て、しばらく呆然とした。
「……あんた、隠し子いたの?」
江白はガクッと肩を落とす。
隠し子にしてはデカいだろうとつっこむ気力もないし、そもそも恋愛経験だってないままこの歳になってしまったのに。
なんだか知らないが、隣人は勝手になにかに理解を示し「頑張んなよ、今度なんか持ってきてやるよ」と言い残して帰って行った。
いい隣人だし、騒音も、もうあまり気にせずに済むだろう。でも。
「おっさん、野菜炒め焦げちゃうよ?」
声をかけたバニラの方を江白は力の抜けた目で見た。
「俺は本当に、おっさんになっちまったんだなぁ……」
子供を持つ、という実感があっての提案ではなかったし、どちらかといえば弟のような感覚で二人を見ていたことに、江白は改めてやるせなくなる。
「おっさん!はやくご飯作ってよー!」
「おっさんは禁止だ禁止!ちょっとは静かにしてろ!」
「じゃあ、ジャンボだ!」
もう江白は言い返す気力もなく、悪ノリする二人の子供に囲まれたまま、野菜炒めを作っていた。
どうしてこんなことになったのか、一昨日までの自分ではとても考えられないことが起きている。
自分の人生なのに、こうも予想がつかないものだろうか。
子供たちがはしゃいでいる声を聞いていると、自然と学校の仲間たちの姿を思い出すようだった。
江白は、ジャンボだったのだ。
そんなことも長いこと忘れていたのに。
「分かったよ、もう。好きに呼べ。おっさん以外でな」
ジャンボは食事を皿に盛り付けて、子供たちにふるまった。
やはり二人とも鬼気迫るような食べ方をしているが、きっと、食べ物が確保できる時の方が少なかったのだろう。
ぼーっとその姿をながめ、自分の分の米もよそおうとした。
すると、どこか遠くから「罪滅ぼしのつもりか?」と、紅い腕章の集団が自分に囁く。
「さぁな」とだけ呟いて、ジャンボは食卓へと向かった。
三人の奇妙な共同生活が始まったのはこの日からだった。
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