第2話

「金を出せ」



 急に背中に重く冷たい金属の感触を感じ、幼い子供の声で呼び止められた。

月明かりしかないこの道では、背後の正体はよく見えない。

けれど、背中に刃物を突きつけられていることだけは、すぐに理解した。



「金を出せば命は助けてやる」



 幼い声は闇に紛れて、恐ろしい言葉を江白へ向ける。

江白はひとつため息をつき、背後の子供へと話しかけた。



「狙う相手を間違えたな。まだ給料日前だし、給料日だってろくな金はないよ。もっと金持ちがいくらでもいるだろう」

「いいから持ってる分ぜんぶよこせ!!!」



 子供にしては迫力のある声だった。

もう何度もこんなことを繰り返しているのだろう。

江白もそれは同じで、安心して帰れる日などほとんどなかったのだから。


 次の瞬間、江白は体を瞬時に翻し、後転で距離をとった。

驚き固まる子供の姿を、やっと月光がかすかに照らし出す。

ぶかぶかの人民服をまくり上げて身にまとい、頭にもサイズのあっていない大きな人民帽を被っている。

そして、手には思っていたよりも凶悪な、大きな武器を構えていた。



「お前なんだそれ!?マチェーテか!?」



 思わず聞いたが返事はなく、小さな子どもが操れるはずもない大きく重たい凶器は、なんと軽々と振り回されて、江白の方に突進してきた。

鬼のような形相も、子供だとは思えない。

俺は化け物を相手にしているのだろうかと混乱しながらも、江白はめちゃくちゃに振り回されるマチェーテを、膝のバネで大きく飛んで、全てかわした。


 なんかもう、ひとつの竜巻に突撃されている気分である。

けれど、大きな武器を構えていても、幼い子供とではリーチの差も全く違った。

近くの民家に立てかけられた竹の棒を手に取り、江白は突進をひらりとかわして、棒で子供の手を打った。



「いてぇ!!!」



 武器を取り落とした瞬間に、江白は棒でマチェーテを遠くへ弾き、そして高飛びのように棒を操り、一気に詰め寄った。

子供からしたら見たこともない動きだったのだろう。

さっきまでの勢いは削がれ、子供は地面にへたりこんだ。

目の前の大きな体に怯え、途端に泣き叫ぶ。



「うわあああああああ!!!」

「うるせっ」



 見たところ9才くらいには見えるのだが、中身はもっと幼いらしく、地面に転がって子供はじたばたと泣きわめき始めた。

江白は取り敢えず棒を置き、人民服の小さな子供の横にしゃがみこむ。


 そして、ゴンッと頭を殴った。



「近所迷惑だ。泣くな」



 子どもは驚いたのか泣き止んだ。

しかし、また泣き始めそうな目で、江白を見ている。



「殺さないで……」

「殺そうとしたのはお前だろ。あんな武器、どこから手に入れたんだ」

「拾った……」

「どこでだよ!」



 江白は頭を抱えて、目の前の子供の処遇に想い悩んだ。

こんな事件は日常茶飯事すぎるが、明らかにこの子供の身のこなしは異常だ。



「お前……誰かを殺したことは?」

「ない……」

「誰かを刺したり切りつけたことは?」

「ない……いつも脅してるだけ……」

「本当だな?」



 江白が睨みつけると、子どもはだばっと涙を流しながら、必死に頷いていた。

どうやら死傷者は出していないらしい。

もしも、殺人にまで手を染めていたのなら、この場で……。


 ハッとした。

反乱分子を殺せと頭の中で声が聞こえた気がしたからだ。

何度も紅衛兵の間で囁かれた、呪いのような言葉だった。



「……その身のこなし、どこで覚えた」

「俺はふつうだもん……。おっさんの方がよっぽど変だもん……」

「おっさん!?」



 突然思わぬ方向から強烈なパンチを食らったように、江白はがっくりと肩を落とした。



「そうか……俺もう……いい大人だもんな……」



 子どもはよく分かっていないなりに、まただばっと泣いた。



「おっさん……ホントに人間なの……?」

「それはこっちのセリフだ」



 江白は大きくため息をつき、ひょいと子供を持ち上げた。



「うわあああああああ殺されるうううう!!!」

「うるさいっての!殴るぞ!」



 子どもは干上がるんじゃないかというくらい、延々と涙を流していた。

ついでに鼻水も流している。

その姿があまりにもみっともなくて、江白は散々悩んだ挙句、子供を担いだまま歩き出した。



「どこ連れてくの!!!助けて!!!」

「いちいちうるさいな、お前は」



 子供はじたばたと暴れて泣いていたが、睨みつけると小さく悲鳴をあげて、騒ぐのをやめた。



「このままほっといたら、また誰かを襲うんだろ。俺もいい大人だし、おっさんだし、ほっとくわけにはいかないからな」

「殺されるー!!!」

「話を聞けよ!」



 江白はそのままズカズカと歩き、自分の家までたどり着いた。

年季の入った四合院の一室の鍵を開けて、抱えてきた子供をテーブルのそばに座らせる。



「人さらいだ……」

「武器で脅すよりマシだろ」



 ずっと泣いてる子供にタオルを投げて、顔を拭くように言った。



「部屋に鼻水垂らされたらたまったもんじゃないからな。いいか、騒がずそこに座ってろよ」



 じろりと睨むと子供は頭をブンブン振って、椅子の上で頷いた。

江白は簡素な台所へと歩き、昨日の残りの米と、小さな缶詰と、器や箸を用意した。

そして戸惑う子供の前に、その全てを差し出した。



「食えよ。どうせ腹減ってんだろ」



 理解してないなりに子どもは割り切りがよく、さっと缶詰に手を伸ばして、米と一緒にすごい勢いで食べ始めた。

鬼気迫るような動きは子供とは思えないような迫力があり、やっぱり化け物かな?と一瞬思う。

けれど、江白は子供に言った。



「今日から自分で暮らせるようになるまで、俺が面倒見てやる。だから、もう人を襲ったりするな」



 子どもはもぐもぐと口を動かしながら、不信感しかない眼差しで江白を見た。

しかし、睨み返すとしょぼしょぼと目を細める。



「……なんで、突然そんなこと言うんだよ。この飯に毒でも入れたのか!?」

「全部食ったくせに酷い言い草だな」



 用意した食事はすごい勢いで消えていき、すでに器は空っぽだった。



「お前、名前は?」

「チョコ……」

「は?チョコって、お菓子の?」

「あれすっげーうまいから俺の名前にしたんだ!」



 いちいち声量がバグっている子供は、大きな声で得意げに叫んだ。

少し落ち着かせないと、近隣からのクレームで、共に暮らすどころかここから追い出されてしまいそうだ。

江白は色々と困り果て、再びため息をついた。

この子供と出会ってからずっと、ため息ばかりついてる気がする。



「自分で自分の名前をつけたのか。じゃあ両親もいないのか?」

「いるわけないだろ!ホンなんちゃらっていうのに殺されたんだ!」

「紅衛兵な……」



 返答に一通り悩み、江白は子供に言った。



「とにかく、チョコって名前はやめた方がいい。俺がいい名前を考えてやる」

「なんでだよ!チョコ美味しいんだぞ!」

「美味しいけど、すごくダサい」



 目に見えてショックを受けた子供は、キッと江白を睨んで、言い返してやろうと口を開いた。



「おっさんはなんて名前なんだよ!」

「俺は江白ジアンバイだ」

「ジャンボ?」



 どきりとして、心臓を掴まれたような不快感を覚える。



「違う、ジアンバイだ。長江の江に、白雪の白だ」

「ジャンボじゃん!!!」



 思わず額をおさえた。何を言っても大声が返ってくる。

これ以上、この真夜中に声量がおかしい子供と喋るのは危険だろう。



「もういい。とにかく静かにしてくれ。そして寝ろ」



 江白は子供を掴みあげて、居間より一段高くなった寝床の布団の中に突っ込んだ。

子どもはずっと警戒心の塊のような顔をしているのに、布団に入れた途端、睡魔と戦い始めている。

単純なものだ。

そして数分もしない内に、そのまま寝てしまった。


 その寝顔を見ていると、江白の中にかすかに残っていた思い出が、引きずり出されそうになる。



「ジャンボ、か……」



 頭を横にふり、台所にわずかに隠してあった酒を手に取った。

そして、一気に飲み下し、この記憶もろとも喉の奥へ流し込んでしまおうとする。

そうすると、昔、先生が稽古の指導をしながらも、小さな酒の瓶を片手にしていたことも蘇ってきてしまった。


 そんなことはもうどうでもいい。

自分にはもう、全て関係ないのだから。


 ふらふらと江白は使い古された座布団へ歩き、そのまま枕にして寝床のはじで体を横たえた。

京劇の未来が消えていく中、先生が飲んだ酒の味はどんなだっただろうか。

今の京劇の姿を見て、先生は……。


 意識がまどろみの中へ溶けていく。

その視線の先には、まだ幼く、それでいて恐ろしい、強盗未遂犯の姿があった。

彼の身のこなしを見た時に、確かに自分はどこかで思ったのだ。

もしも、手に持っているのがレプリカの刀なら、豪華な衣装を身にまとっていたのなら、彼はもしかしたら。


 江白は余計なことを頭から追い出そうと葛藤しながら、気がつくと眠りに落ちていた。

布団とそのそばの寝床から二つの寝息が、部屋にゆっくり響く。

もしも、なんてものはない。

ただひとつの道を、希望の光が見えなくとも、足が動く限りは進んでいくしかないのだ。


 そう彼らは思っていた。

過去も未来も、彼らにとってはどうでも良いものでしかなかった。

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