夜光虫
レント
第1話
あの頃はまだ、京劇は伝統芸能ではなかった。
古びた建物に看板を吊るした学校で、江白は、鮮やかな身のこなしを当たり前のように披露する子供たちを前にし、圧倒されて立ち尽くしていた。
時は1955年、彼は数時間前に母に連れられて、この学校に入学する手続きを行ったばかりだ。
まだ6歳の彼は、契約書など読めるはずもなく、ただ今日からここで暮らすのだと、それしか理解はできなかった。
彼が訪れたのは、京劇の役者を養成する学校だったのだ。
いわば全寮制で、一度入学すれば、教師の許可なしには家に帰ることもできない。
寮と言っても小さな敷地の学校では、子供たちは広間に雑魚寝をして暮らしていた。
彼の父が亡くなったために、母は江白を養う手段がなく、この学校に彼を預けることに決めた。
「守れなくてごめんね」
母が呟いた言葉を、江白は大人になってからも時折思い出す。
養成学校の先生の指導は厳しかったし、暮らし向きも中々に厳しかった。自分たちの公演で稼いだお金で生活費を賄っていたからだ。
そのうちに、先生はともかく、子供たちはお互いに家族のように暮らしていた。
両親を失った子もいれば、ここに来てから親から一切の連絡が途絶えた子もいた。
江白は後者であり、あの日を最後に母の姿を見ていない。
記憶の中に浮かぶ姿も、朧気なものへといつしか変わっていた。
それよりも、毎日、舞台へ登るための稽古が忙しくて。
「なんだその動きは!!もっと高く宙返りをしろ!!」
怒声が響くが、もはや子供たちは慣れっこだった。
どうせここにいたら他にやることもないのだ。もっと高く、高く、宙を舞えるようになってゆく。
「お前は背が高くていいよな。それだけで迫力が出るんだから」
「だからってジャンボなんて呼ぶことなかったのに」
「みんなあだ名でしか呼んでないだろ。俺はコブがあるからそのままコブだし、兄さん達は兄さんとしか呼ばないしさ」
6才でこの学校に入学した江白も、気がつけば14才になり、もともと年よりも大きく見られた身長は、そのまま取り柄として彼に残った。
そして、良くも悪くも、彼は皆からジャンボと呼ばれている。
「なぁ、ジャンボ。明日は先生、どっか出かけるらしいぜ」
「やった!じゃあ遊び放題」
「シー!!!バカ!大きな声で言うなって!」
中庭で雑草をとっていた彼らは、辺りを見回して、先生の姿がないことを確認して、胸を撫で下ろす。
「お前、本当に声量なんとかしろよ」
「でも、迫力があっていいだろ?」
反省の色がないジャンボに一同は呆れたが、これもいつもの事だ。
「ちょっと優秀だからって、調子に乗るなよ。ほら見ろ、俺はもうここの雑草全部とった!」
「俺だってそんなに変わらないだろ!」
くだらない言い争いをしながら、彼らが雑草だけでなく、先生が育てていた香草まで根こそぎとってしまったのは、また別の話だ。
そんな暮らしでも彼らはよく笑い、遊び、そして稽古に励んでいた。
14才といってもジャンボや彼の仲間たちの立ち回りは、もういっぱしの演技であり、いつも公演をしている小さな客席でも、華麗な衣装に身を包み、彼らは剣を交わせ強くしなやかに舞った。
まれに遠くの劇団から呼ばれて、共に公演をこなすこともある。
きっと、こんな日々が続くと、彼らは信じて疑っていなかった。
年々客席から人の数が減っていっても、もう馴染みの数人しか残っていなくても、彼らは特訓の成果を披露し続ける。
しかし、彼らを指導していた先生は、その深刻さに選択を迫られていた。
「お前たちの先生であり、なにより親であろうとしてきた」
とある日、彼らは稽古の時間になっても、じっと先生の周りから動かなかった。
みながしんと黙り込み、先生の声を聞いていた。
「気がついていた者もいるだろう。公演に集まる客の数の少なさを」
京劇の衰退。
時代は進んで観客たちの求めるものは、だんだんと変化していった。
当たり前にいくつもあった養成学校は、次々と経営が苦しくなり閉鎖を余儀なくされ、通っていた子供たちは親元に帰らざるを得なくなっていく。
親がいない子供は、どこか別の場所で働かなければ生きていけない。
「映画のスタントマンを選ぶ者も多い。それか芝居から離れてもいいが……お前たちは読み書きもできない。自分の進路を良く考えろ。俺はお前たちの面倒は最後までみるつもりだ」
自分たちに厳しくばかりしていた先生を尊敬できるほど、子供たちはまだ成長していなかった。
そのはずなのに、急に、これからまた家族を失うのだと、そんな喪失感をジャンボは感じた。
あんなに稽古に明け暮れて、未来があると信じていた京劇は、もはや伝統芸能とされていた。
よく見れば先生も初めて見た時からだいぶ歳をとったようだ。
14才が迫られる選択にしてはあまりにも残酷で、さらにこれから、彼らは予想もつかない運命に翻弄されることになる。
17才。ジャンボはまだ養成学校に残っていた。
背も高く、声にも覇気があり、彼はどこに行っても重宝されただろう。
けれど。
「お前が行けよ、ジャンボ!向こうだってそれを望んでるだろ!?」
仲間の声が頭の中によみがえる。
なんとか生き残っていた劇団から、数人なら引き取れると連絡があったのだ。
ふざけた話だとジャンボは思った。
「俺はお前たちと違ってどこででも生きていける。だからこそ、俺はここで公演を続けてやる。お前らが行けよ」
ジャンボは仲間を鼻で笑い、冷たい声で突き放した。
そんなギクシャクした空気の中、仲間たちは一人また一人と、学校を出ていく。
その後ろ姿はいつも後ろめたそうで、ジャンボも特に声はかけなかった。
3〜4人になっても、その人数でできる公演をすればいい。
客はいるんだ、少ないだけで。
人数が減ったおかげで、養成学校はギリギリの綱渡りのように生き延びていた。
17才になったジャンボは変声期も越えて、
本当ならこれから彼も、彼を含めた仲間たちも身体能力のピークであり、成熟した公演を行えるはずだった。
―――――――――
【※1】京劇の役割のひとつ。激しい立ち回りを主とする。
─────────
なのに突然、先生が残った生徒を集めて言った。
「明日この学校を閉める」
意味がわからなかった。
もう、そう人数もいない生徒たちは互いに困惑し、先生に抗議したが、全くとりつくしまもなく、先生は荷物をまとめろとしか言わなかった。
そして、先生はそれぞれの就職先だと言って、不揃いな冊子やらなにやらを1人ずつ手渡した。
ずっと先生も残された生徒の行き場を、個人で探していたのだろう。
みんなその冊子を泣きそうになったり、神妙な顔で見つめたり、ともかく受け取ってはいた。
ジャンボ以外は。
「お前の分だ」
他の生徒が受け取ったものよりも、紙の質からしていい案内だった。
ジャンボは低い声で笑った。
「俺は字も読めませんし、いりませんよ」
「馬鹿なことを言うな。「劇団」の文字くらいは読めるだろ」
「じゃあ、他のみんなに配ったのは?なんて書いてあるんです?」
ジャンボは先生が答える前に、差し出されたパンフレットを奪い取り、ビリビリに破いて捨てた。
「なにをするんだ!ふざけるな!」
とっさに殴りかかる先生の腕を受け止めて、睨み合いになる。
先生の指導には当たり前に体罰がつきものだった。そういう時代だった……のだが、もうジャンボはそれを防げるだけの身体能力があった。
「お前は読めないなんて言うが字も教えた!劇団では困らない程度にはなんとかなるはずだ!」
「ええ、6歳の頃から変わらない絵本みたいな台本でね!それなのに、他のみんなはどこへ行かされるんですか!ふざけてるのは先生の方だ!」
息を飲む仲間たちは、自分の手の中にある「就職先」の冊子を震える手で握りしめていた。
誰もジャンボと先生の喧嘩を止められない。
こんなこと自体が初めてだった。
先生と喧嘩をするなんて、そんな状況自体、ありえないと思い込んでいたのに。
「なにが明日閉校だ……。明日まで待つ必要もない。俺は出ていきますよ」
「ああそうか、勝手にしろ!お前が自分で自分の未来を絶ったんだ!劇団の何が悪い!?」
「そんなの、俺が答えるまでもないでしょう」
ジャンボは掴んでた先生の腕をぞんざいに放る。
先生はよろめきながらも、倒れず、ジャンボを睨みつけた。
「ここを出てどこに行く気だ」
「俺はずっと言ってるはずですよ。俺ならどこでだって生きていける。アンタ達とは違ってな!!!」
ジャンボは量もない荷物を適当に抱えて、今まで聞いたこともない、深い闇をたたえた声で怒鳴った。
誰もその後ろ姿を追える者はいなかった。
どうして明日だなんて言い出したのか、その答えもこの時、先生以外は知らなかったのだ。
「……みんな中へ入れ!これからそれぞれの行く先について説明する」
そんな声が背後で響いたのを聞き、それを最後にジャンボはもう学校には戻らなかった。
そして、ジャンボはすっぱりと演劇の世界から身を引いて、工場でのライン作業に従事し、日々を暮らしていた。
なにが、劇団だ。
人を選別するような真似をしやがって。
ジャンボはそんな思いと共に、京劇への思いも心の奥底へ追いやった。
仲間たちはそれぞれどんな暮らしをしているだろうか。
先生が進めたとおり、スタントマンをやってる奴もいる。
大半はなにかしらの形で芝居に関わろうとしていた。
俺たちはその世界しか知らなかったから。
けれど、ジャンボは人当たりもよく、生活はカツカツだが、なんとか自分の世話くらいは出来た。
宣言通りだ。彼はあの世界には戻らない。
そのはずなのに、いつも目を閉じると思いだすのは稽古を続けた日々だった。
もう、今の自分の生きている世界では、誰も自分のことをジャンボだなんてふざけたあだ名では呼ばない。
自古道英雄有血性、豈能怕死与貪生……
──いにしえの昔より英雄は血気盛ん、いかで死を恐れて生を貪らんや……
ベッドの上で、一人ぼんやりと、芝居の一節を口ずさんでみる。
後悔なんてしていないのに、それでも江白は、大きな虚しさを抱えていた。
そんな彼らを嘲笑うように、時代の波は大きくうねり、やっと得た日常さえも奪い去る。
文化大革命だ。
国には『階級の敵』がいて、ひと握りの人間だけが富を得ており、真の労働者ほど追い詰められている。
そう若者は扇動されて紅衛兵と名乗り始め、江白もその一人となっていた。
紅衛兵と名乗れば許されることが山ほどあった。
自分はその中でなにをしただろうか。
そんなある日、先生が自殺したと知った。
伝統文化は徹底的に否定された。京劇も酷く弾圧された。紅衛兵達によってつるし上げられた先生は、かつての校舎の中で息絶えているのを発見されたらしい。
それを江白に知らせたのは、学校の仲間たちではない。
スタントマンの世界を選んだ仲間や、劇団へ行った仲間がどうなったかも、江白は知らない。
なのに、江白は唐突に気がついた。あの17才の日の数日前に、都市部で紅衛兵が発足していたのだと。
先生が突然閉校だなんて無茶苦茶なことを言い出したのは、もしかしたら、こんな時代が来ることを予期していたのかもしれない。
自分では生徒を守れないと、そう判断したのかもしれない。
……だから、なんだというのだろう。
気がつけば江白はもう、京劇の世界から離れて10年も経っていた。
なにもかも遅すぎたのだ。
大きなものが失われたようでいて、それなのに実感はわかなかった。
自分はもう27才だ。学校を出てからずっと自分だけで生きてきた。
あの頃の陽気な記憶はもう、夢の中でしか思い出すこともない。
翌年、地獄のような混乱は収まり、紅い腕章をつけていた多くの若者たちは農村部に送られていった。その難も運よく免れた江白は、時代に翻弄されながらもなんとか生きていた。
地に足はついている。
けれど、体の中身は空っぽだ。
図体ばかりデカくても、未だに読み書きすらできやしない。
疲弊した国の端っこで、江白は生き延びてはいたが、もう学校にいた頃の夢さえも見なくなっていた。
前のようにライン工で賃金を得て、宿舎の空きがないからと、顔色を伺われながら勧められた四合院の東房へと帰る。
あの時代が過ぎてから、江白は背の高さのせいか、目つきの悪さのせいか、怯えられることが多かった。
家がボロかろうと日当たりが悪かろうと、文句なんてない。もっと酷い生活の人はいくらでもいて、路頭に迷って死んでいく。
体の丈夫さに恵まれたことに、感謝でもするべきなんだろう。
夜道を仕事の疲労を感じながらぼんやりと歩いていた。
空に欠けた月が浮かんで、頼りない明かりだけを放っていた。
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