第2話 セイレーンの歌

 壁に寄り掛かりながら、落ちた皿を避ける。

 窓際に居た大男が倒れると、次々と船員が眠りに付いていった。


「な・・・・」


『我が主よ、魔力の少ない者から眠りに付いているようです。耳を塞いでも、歌声は脳に響くもの』

「マジかよ」

『主は魔力が強大、この程度のセイレーンの歌声は効かないはずです』


 耳を塞いでいた俺に、グリフォンが語りかけてきた。


 でも、なんだ? 眩暈がする。魔力の不足ではない。これは・・・。


 確かに俺は、的確ではない指示を出す・・・。

 フラッシュバックする。会社に勤めていたときのこと・・・。

 

 新人と中途の研修を任された俺は、意気揚々とフォルダあるエクセルのマクロを使って日ごとの売り上げを計上する作業と、常に最新版のファイルを更新する手順を伝えていた。次の日、フォルダにあったファイルは全て削除されていた。

 研修を受けた誰かが、間違って削除したのは明らかだった。犯人が絞られた俺は、大声で責め立てた。

 だって、俺のせいじゃなかったし、別の件が上手くいかなくてイライラしてたんだ。


 あとから考えれば、どうでもいいことだった。八つ当たりする何かが欲しかったんだ。でも、俺だけじゃないだろ? 上司にだって同じことをされてきたんだ。


 誰かがパワハラを受けたと報告し、お前の指示が悪いと注意されて、そこから何かと使えない奴とされるようになった。


 中途採用の奴は俺よりも早くに出世し、飲み会のたびに俺の研修の話をするようになった。新人だったやつも笑っていた。身を刺すような思いがあいつらにわかったのか? みじめな気持ちを散々・・・。



「エノク様、エノク様」


 イリスが腕を掴んだ。


「大丈夫でしょうか? すごい汗ですけど」

「あ・・・あぁ、大丈夫」

 心臓がバクバクしていた。あの頃の自分が抜けきらない。


「セイレーンの歌は私たちには効きません」

「そ・・そうか」

「ご安心くださいね。大丈夫ですから」

イリスがきゅっと手を握って離れた。

「エノク、俺たち三剣士は先に外に出てるぜ」

 マクベスが皿を避けながら立ち上がる。


「マクベス、お前らは大丈夫なのか?」

「あぁ。ドーラ爺の魔法で聞こえないようになっている」

 ドーラ爺が寝ている者の耳のあたりにシャボン玉のような魔法をかけていた。


「でも、ダフは眠りかけてるようだけど?」

「こいつは酔っぱらってるだけさ」

「まだ眠らせてくれよう。クラウ・・・」


「起きろ。ここで剣を抜かないと、女が寄らなくなるぞ」

 くらくらしているダフを、クラウと呼ばれていた光の剣を持つ青年がひっぱたいた。


「エノクは一旦、ノアの元へ。進路を確認してくれ」

「わかった」


 手を伸ばしてグリフォンに語りかける。

「グリフォン、君は三剣士と共に行ってくれ。彼らを援護しろ」

『仰せの通りに』

 グリフォンが翼を広げると、コックやサーペント族の子、人間が震えながら出てきた。


 イリスとアリスがすうっと床を滑って近づき、安心してと慰めていた。


「おぉ、グリフォンか、これは頼もしいや」

『またご一緒できて光栄です』

「セイレーンなんて、蹴散らしてやろうぜ」


 デッキへのドアを開けて出て行った。


 この船は・・・なるほど。ガラスのような膜に覆われているのか。




「ノア、セイレーンの歌声は大丈夫なのか?」

「私は船だもの。これくらいなら全然平気よ」


 コンパスを見ながら言った。ノアは船・・・?


「・・・・進路のほうは?」

「セイレーンの住処は避けられたけど、付いてきているみたい」


 ほら、とレーダーを指していた。緑に点滅しているところが、魔力の高いところのようだ。


「左に回ったから、遠回りになるけど、仕方ないわね」

「あと、どれくらいでクラーケンの居場所に着くんだ?」

「この海底の森を超えたところ。でも、コンパスの軸が狂い始めたわ」


 手をかざしながら地図を見せる。

 南を指していたコンパスがぐると回って、北になったりしている。


「コンパスの軸が?」

「海底の森は怪物も多いから漂う魔力が、軸を狂わせるの」

「ぶれずに行けるの?」

「大丈夫、慣れてるわ。このくらい」


 髪を後ろにやった。

何かに当たるような衝撃音がする。


「うぅ・・・」

「どうした!?」

「ごめん、なんともない」

 ノアが急に腹を押さえて、汗を流していた。船がガタンガタンと大きく揺れる。

「・・・・怪物に攻撃されたわ。ごめん。これくらい大丈夫」

「・・・・・」


 ぜえぜえしながら、舵を取っていた。


「今いるのはセイレーンだけじゃないのか?」

「セイレーンは食った人間を怪物にするって聞いてるわ。きっと怪物のほうね」

「・・・・・」

 知らないことだらけだな。


 いや、俺が知るわけないじゃないか。いきなり異世界に来て、クラーケン討伐だなんて・・・できるわけないだろ。


「エノク、焦ってるの?」

「あぁ、ちょっとまだ感覚が戻らないっていうか」

 何も知らないんだよ。


 こっちの世界の情報なんて、全くわからねぇし、クラーケンだって何のために討伐するのかも知らないし。こんなところに俺を寄こすのが悪いんだ。


「そんなの当然よ。大丈夫、忘れちゃったことがあったら気にせず聞いて」

「あ・・・・・」

「すぐに速度を戻すわ」



 こちら見ずに真っすぐ船の行き先を調整していた。

「こっちは大丈夫。デッキに行って、船が攻撃されたってことは、苦労してるはずよ」

「わかった」

 手の感覚を確認したが、グリフォンからの連絡もない。急いで、デッキへと駆けていった。




 クラウが剣に稲妻を起こし、船に群がる人の骨のような怪物たちを蹴散らしていた。

「こっちは大丈夫そうか?」


「エノク、まずいんだ。あっち、ダフがセイレーンに・・・」


「ダフ?」

 ダフの剣が転がっている。


 マクベスとグリフォンが、船を覆う透明な膜から引きずり出されようとするダフを引っ張っていた。


「こいつは、ネレに似ているんだ。俺も・・・」

『ねぇ・・・ダフ。私も一緒に居たいの』

 セイレーンは美しい容姿をして、豊満な胸にダフの顔を埋めていた。時折、鱗の輝く人魚だ。


『お願い、行かないで。一緒に居させて』

「マクベス・・・俺をここに置いてくれ」

「馬鹿言うな。セイレーンだ。お前を引きずり込むことができなかったら、死んでしまうからそんなことを言ってるんだ。無理やり引きずり込もうとしてるんだぞ」


『勇敢なる剣士よ、耳を貸すな。そなたが行きたいと思うと、セイレーンの力が強くなる。我の力をもってしても・・・』

「やめてくれ」

 マクベスとグリフォンの声を無視して、セイレーンに抱き付いていた。


「いいんだ。俺はもう疲れたんだ。全部、もう嫌だ。彼女と共に行きたい」

『あぁ・・ダフ。私と一緒に』


「馬鹿、そいつはお前を怪物にするんだ。あいつらみたいに、人を襲わせるんだぞ。いいのか?」


「・・・わかってる。いいんだ」

「・・・・・」


 ダフ、ごめんな。


 目を閉じて手をかざす。頭の中の文字を口に出した。


― 我名はエノク。神の子なり。

  我が言葉は、迷える者を守る風となる。

  ルアフ(風) ―


「おわっ」


 船の周りに切り裂くような竜巻が起こる。


「待ってくれ、行かないでくれ」

「きゃぁぁぁぁぁぁ」

 ダフに絡みついていたセイレーン、船を取り囲んでいた怪物もすべて、断末魔のような悲鳴を上げていた。しばらく抵抗していたがすぐに巻き込まれて、深い闇の中に消えていった。


「さ・・・さすが、エノク・・・」

「・・・・・・」

 何もかも居なくなり、海は静かになった。



「お・・・おい、なんてことしてくれたんだ」


 ダフが立ち上がるなり、胸倉を掴んできた。


「お前のせいでな」

 顔を真っ赤にして涙を流していた。


「ダフ、自分が何言ってるのかわかってるのか? エノクが居なきゃお前は怪物になってたんだぞ」

「俺は、あのままセイレーンと共にいきたかった。エノクにはわからないだろうな? 神に祝福されて戻ってきた身だもんな」

「・・・・・」

 抵抗はできなかった。


「エノク、悪い。こいつはセイレーンの歌に惑わさてるんだ・・・」

「そんなことない。俺は」


「いい加減にしろ、ダフ」

「・・・・いや・・・いい」

「え?」

 ダフとの間に入ろうとするクラウを止めた。


 左手を向けてグリフォンに指示を出す。 

「グリフォン、ありがとう。戻って、ゆっくり休め」

『承知いたしました』

 グリフォンが金色の光の中に消えていった。


「・・・悪かったな。ダフ」

「へ・・・?」

「俺もさ、信じてもらえないかもしれないけど、お前の気持ちよくわかるんだ」

「・・・・・」

 ダフの肩をぽんと叩いた。呆然としながら突っ立っていた。


 船内に向かって歩いていく。エノクになる前の俺だったら、迷わずセイレーンと共に行ってただろうな。

 

 たとえ、人を襲う怪物になったとしても・・・。

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