第79話 空蝉

 ゆっくりと、カサネの唇が近づく。

 俺は否応なしに前回のカサネとのキスを思い出した。


 このまま唇が触れあえば、俺達は息が詰まるまで舌を絡ませ合う事になるのだろう。

 その後は、ボンヤリとした頭で眠るように死ぬだけ。

 目を覚ませば、俺は過去に戻っている。


 一回目のキスの瞬間に戻った俺は、何事も無かったかのように柚子の協力を仰いで、叔父さんと協力し、上梨を人にする。

 そしてそもまま、誰も死なずに夏が終わる。

 正しく大団円だ。


 俺は、近づくカサネの瞳を覗き込む。


「……ごめん、俺はカサネの旦那様になれない」


 俺の言葉を聞き、すぐ近くまで迫っていたカサネの顔が酷く悔しそうに歪む。


「っなんで、ですか」


 カサネは俺に跨ったまま上体を起こし、癇癪を起したように頭を振る。


「なんで、なんで! お前は、あんなに私の事を考えてくれていたじゃないですか! 最後の一時だけ私にくれたら、それで全部解決するんですよ!? お前の大切な人が、みんな幸せになれるんですよ! それで、それで良いじゃないですか……」


「…………確かにな」


 カサネの言う通りだ、言う通りなのに、俺は断った。

 断った後に、俺は何故カサネの提案を断ったのか考えている。


 カサネの案は、本当に魅力的だ。

 上梨の辛そうな表情を、明日香のやるせない表情を、無かった事にできる。

 叔父さんが上梨を撃つよう指示を出した事も、笹原さんにどうしようもない現実を説明させた事だって、全部なかった事にできるんだ。


 それなのに……なんで俺は断った?

 記憶を反芻し、考え続ける俺の目を、カサネは濡れた瞳で覗きこんだ。


「……全部、消えて無くなるからですよ。お前の心は、皆との時間を一つたりとも無かった事にしたくないんです」


 カサネの涙が、俺の頬に滴り落ちた。

 俺は涙を拭わず、真っ直ぐにカサネを見つめる。


 カサネはそんな俺を見て、小さく笑った。


「思えば、お前はずっとそうでしたね。消したいはずの親との記憶ですら、何度も思い出して向き合って、考えていた……そんなお前が、過去に戻ってやりなおすなんて、する訳がありません」


 俺の胸にカサネが顔を埋める。

 泣いているのだろうか?

 泣いているのだろうな……。


 どうしようかと悩んだが、俺はカサネの父親役だ。

 自分なりに考えて、優しく撫でる事にした。

 少々ワンパターンだが、それでもしっかり考えた結果だった。


 そのうち、泣き疲れたのかカサネは寝息を立てはじめる。

 蝋燭がすっかり溶けて暗くなった部屋の中で、俺は小さく「おやすみ」と呟いた。



+++++



 朝だ。

 窓から射す日の光と、聞きなれた鳥の声で目を覚ます。

 もう、カサネは先に起きてどこかへ行ったようだ。


 昨日は何処か幻想的に見えた蝋燭や肉塊も、朝になってみると魔法が解けたかのようにショボく見える。


「……はぁ」


 柚子を振った、カサネを振った。

 上梨を助けられたかもしれない道を、酷く独善的な理由で絶った。


 俺はこのまま、上梨を見捨てるのか?

 明日香の自殺を止めないのか?

 二人が決めた事だからと、口出しできずに腐るのか?


 明日香に、自殺は三日待ってくれと言った時から、答えはずっと出ないままだ。


 ふと、持ち帰って机に置いていた上梨のカバンが目に留まる。

 何となく、カバンに手を伸ばした。


「あっ……」


 手を滑らせて落としてしまった。

 その拍子に、カバンの中身が床に散らばる。

 中身を片付けようとベッドから降りてた時、一つのノートが目に付いた。

 

 鏡山君ノートだ。

 本当にまだ書いていたのかと、軽く中身を確認する。


 そこには几帳面な字で、日常の中で上梨が俺について思った事を記していた。

 俺がちょっと褒めた事、俺の言った面白かった事、俺に言われて嬉しかった事、俺の覚えていないようなちょっとした事が、まるで宝物のように書き記されている。


 上梨と出会ってからの事を一つ一つ思い出しながら、俺はノートを食い入るように読んだ。


 ……ここまで、俺の事を考えてくれる人が他にいるだろうか?

 上梨は、俺の自意識、俺の過去、俺の感情、全てに興味があったのだ。

 こんなに深い感情が、独占欲や勘違いである筈が無い。


 上梨は、俺の事が好きだったのだ。


 ノートを読み終えた後、俺も上梨の事を好きになっていた。

 恥ずかしいからあまり言いたくはないが、上梨風に言うと、Loveの好き、という奴である。

 そんなところで、俺の覚悟はようやく決まった。


 上梨に会いたい、会って話をしたい。

 そのために、上梨を人にする。


 良く考えると、そもそも目的は初めの頃から変わっていないのだ。

 あの頃は、実際に会わなければ良いだろう、等という付け焼刃の解決策しか思い浮かばなかったが、今は持っている情報も協力者の質も大幅に上がっている。


 そろそろ、上梨一人の問題くらい解決できて良い頃合いだろう?


 そうと決まれば、さっそく俺は着替えて一階に降り、叔父さんと朝の挨拶を交わす。

 叔父さんは、気を遣うように俺の様子を窺っていた。


「貴志君……その、大丈夫ですか?」


「はい、今はもう大丈夫です。それで叔父さん、今日は昼に話したい事があるので、笹原さんを家に呼んでもらって良いですか?」


 叔父さんは俺の言葉を聞き、しみじみと笑う。


「……分かりました、貴志君は強いですね。他にも何か手伝える事はありますか?」


「なら、叔父さんも昼にここに居て下さい。そして、その時に知恵を借りたい」


「なるほど、私の知恵なら喜んで貸しますよ。昼までに資料もまとめておきます」


 本当に、良い人だ……。

 俺が礼を言うと叔父さんは優しく微笑み、さっそく資料をまとめに書斎へ戻って行った。


 俺も頑張らなければ。

 改めて覚悟を決めなおし、俺はそのまま家を出た。


 目指すは、明日香の家だ。


*****


「明日香、俺は上梨を人にしたい」


 カーテンの閉め切られた暗い部屋で、ベッドの中からモゾモゾと明日香が顔を出す。


 明日香は、寝ている間にベッドから落ちてしまったぬいぐるみを拾い上げ、ベッドの上に座りなおす。

 そして、ひとしきりぬいぐるみの手を弄った後、ようやく俺の顔を見た。


「……やっぱり、貴志はそう言うんだね。でも駄目だよ、辛いだけだって言ったでしょ」


 明日香の顔は今にも泣き出しそうで、俺は酷く罪悪感を刺激される。

 しかし、ここで引く訳には行かない。


「昼に、カサネと叔父さんと笹原さんを呼んで知恵を出し合う。そこに明日香も来て欲しい」


「無駄だよ……何回も、何回も試した。今回こそって、何度も思った……でも全部失敗した。最初は、今回よりも前の時間に戻ってたんだよ? それでも失敗した。何度も、何度も、失敗したの」


 明日香はぬいぐるみを強く抱きしめたまま、絶望したように言葉を紡ぐ。

 そして最後に、小さく呟いた。


「もう……やだよ」


「それでも俺は……!」


 俺の言葉を遮るように、更に明日香が言葉を続ける。


「ねえ、貴志。どうやって貴志や上梨さんが死んでったか、覚えてるだけ教えてあげる。えっとね……上梨さんが自殺した、警察に撃たれた、おじさんに呪殺された、貴志が殺した———」


 静かに涙を流しながら、明日香は尚も言葉を続ける。


「———上梨さんに食べられた、上梨さんを庇って撃たれた、上梨さんと心中した、海に入って自殺した、貴志を私がっ……!」


 死因を列挙していた明日香が、言葉を詰まらせる。

 顔をくしゃくしゃにして、まるで懺悔でもするように、明日香は最後の死因を口にする。


「……私が、殺した」


 それ以降、明日香はぬいぐるみに顔を埋めて黙っている。

 そんな明日香の姿はとても苦しそうで、悲しそうで……それでも、俺は明日香を説得しなければならない。


 ここで俺が説得できなければ……明日香は時間遡行がただの自殺に変わるまで、夏を繰り返すつもりなのだ。


「明日香、本当は俺達を助ける事、諦めきれてないんじゃないか?」


「……諦めたもん」

 明日香はぬいぐるにみ顔を埋めたまま、くぐもった声を返す。


「諦めて、無いだろ……」


 明日香は俺の言葉を聞き、手が白くなるほど強くぬいぐるみを握りしめる。

 そして、叫ぶように言葉を吐いた。


「もう諦めたもん! もう嫌なの! 貴志が、上梨さんが、死ぬとこなんて見たくない! ずっと二人が幸せだったらそれで良いの! 二人とも苦しそうなのに、死ぬ時だけは私に無理して笑って見せるんだ!」


 明日香は息を切らしながら、それでも止まらなかった。


「もうあんな笑顔は見たくない! 殺してくれてありがとうだなんて言葉、聞きたくない! 抱きしめながら冷たくなっていく感覚なんて思い出したくない! だから! だから……諦めたの」


 薄暗い部屋が、しんと静まり返る。

 俺も、明日香も動かない。


 酷く重い言葉だった。

 俺が何かを言える隙間なんて存在しない程、明日香は何度も悩んでいる事が伝わった。

 しかし、それでも俺は言わなければならなかった。


「……じゃあ、何で時間遡行を止めないんだよ。諦めたなら、そこで時間遡行を止めれば良い。そうすれば明日香は俺達が苦しむかもしれないなんて、どうしようも無い事で悩む事も無くなるだろ」


 泣いてグシャグシャになった顔で、明日香は俺を見る。


「……そんなの、無理だよぉ。やだもん、二人とも、いなくなるの、やだもん!」


 やだ、やだ、やだ、やだ、と駄々っ子のようにベッドを叩く明日香は、年相応の子供にしか見えなかった。


「なあ、明日香? 俺は今、生きてるよ」


 そう言って俺は歩み寄り、ゆっくりと明日香を抱きしめる。

 すっぽりと腕に納まった明日香は、俯いていたまま俺と目を合わせようとしない。


「明日香はさ、ずっと長いこと辛かったんだろ? その間に、俺や上梨との思い出も忘れちゃったって言ってたよな? でもさ、俺は覚えてる。海に行った事も、遊園地に行った事も、ゲームした事も、全て覚えてるんだ。明日香や上梨と一緒に居たら、楽しい思い出がどんどん増える。俺の人生の中で、今年の夏が一番楽しいんだ」


「……うん」

 鼻声で、明日香は小さく頷く。


「だがな、夏は暑くて蝉が煩いから駄目だ。秋の方がずっと良い」


「でも秋には、貴志も、上梨さんも……いないもん」


「まだ、分からんだろ」


「分かるもん」


「いや、分からない。現に明日香は、上梨の怪物化が早まる事を分かっていなかった。もし分かっていたら、もっと早くに時間遡行をしていた筈だ。だが、俺は分かる。全部わかる。全て分かってる。なんなら、秋になって三人で紅葉狩りに行くところまで分かってる」


 俺の詭弁に、明日香は怒ったように俺を見つめる。

「そんなの、分かんないでしょ!」


「そうだ、分からん。だが、一つ分かっている事がある。今みたいにループを繰り返しても、いつかは全て思い出せなくなって、時間遡行をできなくなる日が来るという事だ」


 そう言って、俺は真っ直ぐに明日香を見つめる。


「なあ明日香、永遠に続く夢のような夏休みなんて無い。現実の無駄に暑い夏なんて、さっさと終わらせちまおうぜ」


 明日香が、たじろいだように目を細める。

 そして、ぬいぐるみで顔を隠し、小さな声で呟いた。


「…………貴志が死なないなら、良いよ」


 俺は、ニヤリと不遜な笑みを浮かべる。


「ああ、最初からそのつもりだ」

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