第73話 懸隔
「……ようやく、着いたのね」
登山といっても三十分くらいなら、そこまで体力はいらないと思っていたが、私の足は思っていた以上に貧弱だった。
もう、足が痛くてしかたがない。
鏡島貴志も、随分とやつれた顔をしている。
汗で髪が額に張り付いて、どんよりと瞳が曇っているのだ。
無様という言葉が良く似合う。
そんな姿にも、私は少しドキッとした。
これが恋愛小説で何度か見た、弱っている様に庇護欲をそそられるという奴なのだろうか?
「……よし、さっさとチェックインして風呂に入ろうぜ!」
彼はフラフラの足を無理やり制御しながら、旅館の入口へと歩き出した。
カラ元気を振り絞ってテンションを上げる事で、なんとか動いているのだろう。
その姿には最早、哀愁さえ漂っていた。
「夕食の時間は何時からなの?」
「あー、確か遅くとも七時半だった気がする」
「そう、それなら時間的にも問題は無さそうね」
そんな事を話しながら、私達は旅館のカウンターに近寄る。
お金を持ってるのは彼なので、チェックインの作業は任せた。
そのままボンヤリとカウンターでのやり取りを眺めていると、彼が一人部屋を二つ借りようとしている事に気が付く。
「ちょっと、お金に余裕がある訳じゃないんだし、借りるのは一部屋で良いでしょう?」
「あー、良いのか?」
「ええ、問題無いわ」
彼は借りる部屋を一部屋に変え、やり取りを進める。
その後は特に問題なく、順調にチェックインが完了した。
この宿は、二泊したら立つ予定らしい。
受け付けのおばさんは、微笑ましいものを見るような目で私達を見ており、鏡島貴志は何とも居心地が悪そうだ。
そんなこんなで受け付けは終わり、私達は桜の間に通された。
「結構広い部屋ね……」
「そうだな、ようやく一息つける」
鏡島貴志は、ごろんと畳に寝そべった。
慣れない登山に、よほど疲れていたのだろう。
私も、かかとが痛い。
「早く風呂に行かないと、夕食の時間になっちゃうわよ」
「あー、めんどくせー」
寝返りを打ちながら、彼はダルそうに声を上げる。
畳はフローリングより柔らかいとはいえ、直に寝転んで体は痛く無いのだろうか?
私も、そっと彼の隣に寝そべる。
「まてまて、あんまり近寄るな。俺、汗臭いだろ?」
「別に、臭くても構わないわ」
私は更に体を寄せる。
「いや、本当に今日だけでイチャイチャしすぎだと俺は思うんだよ。旅行でテンション上がるもの分かるが、もっとペースを落としてくれ……」
「そういうのは嫌い?」
そういうの……そんな曖昧な言葉を使ったのは、イチャイチャという単語を口にするのが恥ずかしかったから。
スキンシップの方がよほど恥ずかしいような気もするが、何故がそういう単語を口にする方が私には恥ずかしく思えた。
「嫌いではないが……身が持たない」
「そう、なら少し我慢する」
私のスキンシップで彼の身が持たなくなっているというのは、気分が良かった。
立ち上がり、旅館に置いてあった浴衣とタオルを手に取る。
私が風呂の準備を始めたと見て、鏡島貴志もノソノソと立ち上がった。
その一連の流れが同棲をしている日常風景のようで、なんとも楽しい。
準備を終えて廊下へ出る。
「上梨は風呂長いタイプ?」
「へ? あ、えっと」
別に普通に答えれば良いのだが、改めて聞かれると気恥ずかしい。
顔を赤くした私を見て、彼は慌てて言葉を付け加える。
「いや、そういう感じではなくてだな、ほら、部屋の鍵。先に風呂出る方が持ってないと締め出されちゃうだろ?」
「あ、ああ、ええと……普通は四十分くらいだけど、温泉だし一時間は入るかも」
「なるほど、俺は長くても三十分だから、鍵は俺が持っておくぞ?」
「ええ、分かった」
私の返答に彼も頷き、立ち止まる。
「……じゃあ、男湯はこっちだから」
そう言って、鏡島貴志は軽く手を振りながら廊下を右に曲がって行った。
彼が見えなくなった後、私も小さく手を振り返す。
こういう日が、ずっと続けば良いと思った。
+++++
夕食を食べ終わりダラダラと駄弁っていると、そろそろ良い時間になってきた。
それぞれの布団を敷く。
私は少しだけ勇気を出して、自分の布団を彼の布団の隣にぴったりとくっつけた。
……やっぱり、これは恥ずかしいかもしれない。
私は五センチほど、自分の布団を引っ張って隙間を開けた。
いざ隙間を開けてみると、それはそれで寂しく思えたのだが、流石にもう一度布団をくっつける事はしなかった。
「じゃあ、電気消すぞ」
私はいそいそと布団に潜り込む。
鏡島貴志は、私が掛布団を被って落ち着くのを待ってから、もう一度声を掛けて電気を消した。
視界が真っ暗になる。
ごそごそと彼が布団に入り、動かなくなる。
そうなると周囲の音は無くなり、私はいよいよ独りになってしまったような気になった。
……やっぱり、小さい電気をつけても良いか聞こうかな?
いや、そこまでするほどではない。
私は目を瞑り、彼が話しかけて来てくれる事を期待する。
「…………」
少し待っていて聞こえてきたのは、彼の寝息だった。
ずっと気を張っていたみたいだし、私以上に疲れていたのだろう。
すぐに寝てしまった理由は分かるが、それでも少し寂しかった。
私は面倒くさい女だ……。
そうやって気分が落ち込んでくると、嫌な事は芋づる式に出てくるもので、カサネさんが鏡島貴志の事をお父さんと呼んでいた事を思い出した。
あの事も、まだ彼に聞けてないな……。
でも、別に良い。
今の私は人間で、彼の恋人なのだから。時間は沢山ある。
そうやって自分に言い聞かせるが、本当は良いだなんてこれっぽっちも思っていない事に、私は気が付いていた。
私は独占欲が強い女なのだ。
全部、全部、全部欲しい。
鏡島貴志の一生の内で、私以外の女と親密な関係になって欲しくない。
……自己嫌悪。
だって、私以外の女という括りには、明日香ちゃんも含まれているから。
明日香ちゃんはとても良い子だ。
素直で、優しくて、可愛い。
でも、だからこそ不安になる。
私は明日香ちゃんが大好きで、沢山良い所を知っている。
そんな良い子が、鏡島貴志に懐いているのだ。
今は明日香ちゃんが小学生だから良い。
でも、鏡島貴志と明日香ちゃんの歳の差は、六歳。
大人になったら、何の障害にもならない数字だ。
鏡島貴志は優しいから、私と付き合っていたら、きっと明日香ちゃんに迫られても断るだろう。
そして明日香ちゃんも優しいから、私がいる限り鏡島貴志に迫る事は無いだろう。
だからこそ、嫌なのだ。
大好きな二人が想い合ったら、私はただ邪魔なだけ……。
鏡島貴志は私なんかと一緒にいるせいで幸せになる機会を逃すし、明日香ちゃんは恋心を表に出す事すらできなくなる。
そんなのは嫌だ。
でも私は、二人が本当に想い合っていたとしても、身を引けるほど善良では無い。
……なんて、全部仮定の話だ。そんな事で落ち込んでも意味が無い。
……そう慰めに考えてみても、明日香ちゃんが鏡島貴志に恋愛感情を抱くというのは、決してありえない話でないと私は理解していた。
……やっぱり、暗闇は駄目だ。
彼が寝る前に、小さい電気をつけたいと言うべきだった。
私はそっと、布団の淵をなぞる。
自分で開けた五センチの隙間が、どこまでも遠く感じた。
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