第72話 悪夢
「ねえ、行き先は決めているの?」
電車に乗って一時間ほど経った頃、私はふとそんな事を質問した。
「あー、まだ決めてない。あと、今更だが電車に乗ったのは間違いだったかもしれん」
「何故? その場を離れるというのはそう間違った判断だとは思えないけれど」
「昔、警察から逃げる時は電車じゃなくてバスが良いって見た覚えがあってさ」
鏡島貴志は不安そうにリュックサックを抱きしめている。
……らしくない。そう思った。
いつもの鏡島貴志は、こういう曖昧な事で無駄に不安がるような性格では無かった筈だ。
でもまあ、無理も無い。もともと彼は小心な所がある。
警察に追われて常にストレスに晒されている状況で、よく耐えている方だろう。
それに、私が支えてあげれば問題ない……。
「恐らく、警察から逃げる時に電車よりもバスが推奨されるのは都会の話よ。ほら、監視カメラを気にしなければいけないでしょう?」
「ああ、なるほど。なら、俺達は無人駅から乗ったし大丈夫か……となると、降りるのも無人駅だな」
「そうね、付け加えると県境も早めに跨ぎたいかも」
「ああ……管轄の問題があるのか。でも、今回はあまり関係ないかもしれない」
「そう……?」
彼がどんな理由で警察に追われているのかは知らないが、管轄が関係ない等という事があるだろうか?
……まあ、きっと特殊な事情があるのだろう。
彼にこれ以上警察の話を振って、ストレスを与えるのも得策では無いな。
「……ところで、今日宿泊する場所は決まっているの?」
話題転換を図る。
「ん? ああ、叔父さんから宿を紹介されたから、そこに宿泊しようと思っている」
「へえ、どんなところ?」
鏡島貴志はスマホを操作し、宿のホームページを見せてくれた。
随分と古いデザインのホームページだ。
サイトに載っている宿の写真は、古めかしい家の様な見かけをしていた。
「古民家旅館というのかしら? 随分と山奥にあるのね」
「そうだな、さっき調べたら電車で二時間、バスで一時間移動して、更に三十分ほど歩く必要があるらしい」
彼は随分と嫌そうな顔をしている。
「三十分も山を登ったら、貴方の貧弱な足は折れてしまうんじゃない?」
「いや、冗談抜きで心配している。病院も近くに無いだろうし」
彼は大まじめな顔で随分と情けない事を口にする。
私を攫ったのだから少しは格好つけて欲しいものだが、そんなところも可愛く思えてしまうのは、惚れた弱みという奴なのだろうか?
「おい、上梨。余裕そうな笑みを浮かべているが、貧弱な足を有しているのはお前も同じだからな」
「余裕しゃくしゃくな表情なんて、したつもりは無いわ。貴方の事を可愛らしいなと思っていただけよ」
……とか、言ってみる。
果たして、鏡島貴志は照れたように表情を歪め、反論として私の耳の赤さを指摘した。
しかし、恥ずかしい事を言った時点で、自分の耳が赤くなる事など承知している。
私は、髪の毛で自分の耳を隠した。
「あ、それはズルいだろ」
「そう思うのなら、私の髪を持って耳にかければ良いでしょう?」
「いや、それは……ちょっと」
私の挑発に、彼は乗ってこなかった。
……残念。
電車の中とはいえ、周りに誰も乗っていないのだ。
少し髪を触るくらい、してくれても良いではないか……。
「……人、全然いないわね」
遠回しに誘ってみる。
「まあ、平日の昼間だからな。町も遊園地も海も、これくらい人が少なければ良いのだが……」
「それ、人類滅んでるじゃない」
「そう言ってんだよ」
鏡島貴志の返事に、鼓動が少し速まるのを感じる。
……それはまるで、私と自分の二人だけの世界を望んでいるようだ。
顔が熱い。
耳は髪で隠れているが、私の頬はどうなっているだろう?
チラリと鏡島貴志を見て、反応を窺う。
彼は眠そうに、ボンヤリと窓の外を眺めていた。
まあ、無理もない。
温かい日差しと、軽く揺れる車内は、とても眠気を誘われる。
でも、やっぱり少し不服だ。
世界に二人しかいないのだから、私だけを見ていれば良いのに。
私は彼の左手を取り、甘くかんだ。
「うお……!」
鏡島貴志がビクリと肩を震わせる。
「ちょい、上梨! 汚いから! 俺の指を口から出せ!」
無視して彼の指を甘くかみ続ける。
彼女を前によそ見をしていたのだ、これくらいは許されるべきだろう。
言う事を聞かない私を見て、彼の表情は真剣なものに変わった。
「……上梨、構って欲しいのか?」
「……っ」
何故、分かったのだろう?
あっさりと私の気持ちを言い当てられ、反射的に否定しそうになる。
でも、彼の真剣な表情が気になって、私は素直に頷いた。
「じゃあ、今から何でも話を聞いてやるよ」
彼は優しくニヤリと笑う。
「どうせ長い旅になるんだ、まとめようなんて考えないで、全部話してくれて良いぜ?」
私はもう一度ゆっくりと頷き、そして口を開いた。
「あ……」
私が喋るのを、口に含んだ指が邪魔している。
私はそっと指を吐き出し、頭を彼の肩に預けた。
温かい日差しが、心地いい。
「鏡島貴志の好きな食べ物って何?」
「あー、ペペロンチーノかな」
知ってる。
「鏡島貴志の好きな娯楽って何?」
「ゲームだな。特にアクションゲームが好きだ」
知ってる。
「鏡島貴志の好きな動物って何?」
「獣はあまり好きではない」
知ってる。
電車が、大きく揺れる。
彼は少し肩を下げ、私が顎を打たないように気を使ってくれた。
……私は、そういう事にも気が付くのだ。
目を瞑る。
「鏡島貴志の、す……彼女は誰?」
「上梨美沙」
「……うん」
知ってる。
好きな人は誰、とは聞けなかった。
そういう聞き方をしたら、彼はきっと明日香ちゃんも、カサネさんも、大蜘蛛様も、黒崎さんも、皆の名前を上げるから。
私は手を、彼の手に重ねた。
彼の薬指は、今も私の唾液で濡れている。
きっと、すぐに拭うと私が傷つくかもしれないと思ったのだろう。
……私は、そういう事にも気が付くのだ。
ハンカチを取り出し、彼の薬指を拭う。
やってみて思ったけれど、これって結構エロティックだ。
私は少し、興奮した。
私は彼の指を離した。
私で彼を、汚したくなかったから。
「……ねえ、少し眠っても良い?」
「ああ、良いぞ。でも、肩に頭乗せてると寝にくくないか?」
「それもそうね」
……誘っているのだろうか?
「なら、貴方の膝の上で寝る事にするわ」
断られる前に、すっと上半身を横に倒す。
「……いや、上梨が良いなら良いんだが……その体勢、辛くないか?」
「辛く無いわ。少し片腹が痛いだけよ」
私は意味の無いやせ我慢を主張する。
「楽しいのか辛いのか、判断に窮する発言だ」
「最初に、辛くないと宣言したでしょう?」
「辛くないのか?」
「いえ、実は辛いわ」
私は、意味の無いやせ我慢を撤回した。
「でしょうね……」
鏡島貴志は苦笑しつつ、私の頭を撫でる。
髪を耳にかけるのには抵抗があるのに、頭を撫でるのには抵抗が無いのだろうか?
「やっぱり、肩に頭を乗せて寝る事にするわ」
「ああ、そうしてくれ」
私は上体を起こし、再び彼の肩に寄り掛かる。
目を瞑った。
そのまま、寝たふりをする。
そうしていたら、彼が私の髪を耳にかけるのではないかと期待したのだ。
……そんな事を考えているうちに、私は本当に眠りについた。
+++++
電車の揺れで、私はゆっくりと目を覚ます。
とても、良い目覚めだ。
良い夢を見ていた事が原因だろう。
そして、良い夢を見る事ができたのは、きっと鏡島貴志の肩で寝たからだ。
寝起きのボンヤリとして、どことなく幸せな状態で、彼の肩に頭を擦り付ける。
そのまま、私は幸せな夢を想い返した。
鏡島貴志を……食べる夢。
それが私の、見た夢だ。
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