第70話 親切

  カーテンの隙間から、赤い光が差し込む。

 もう、朝になったのだ。

 カーテンを開け、窓の外を見る。

 朝焼けに染まった町は、夕暮れ時と見分けがつかない。


「はあ……」

 カーテンを閉める。


 昨晩は一睡もできなかった。

 カサネにキスされた事について考えていたのだ。

 というか、眠れる訳が無い。


 心を読めるカサネがそれでもキスをした意味とか、死者蘇生と時間遡行とか、俺達の命と未来とか、気になる事が多すぎる。

 しかし、何より俺の頭を悩ませたのは、昨日のキスが明らかに浮気であるという点だった。


 俺の両親は浮気が原因で破局している。

 自分もそうなるのではないかと、親と同じ道を辿るのではないかと、そう考えてしまうのだ。


 親と自分が同じ道を辿る、この不安には根拠がない。

 根拠がないからこそ、ぐるぐると考え込んでしまって一向に不安が消せなかった。

 なんなら、今も不安だ。

 ヒステリックにお前のせいだと責め立てる母の姿が、上梨と重なる。


「…………」


 俺はベッドから体を起こし、顔を洗いに洗面所へ向かった。

 ペタペタと、素足でフローリングの廊下を進む。


「あ……」


 洗面所では、叔父さんが疲れた顔をしながら歯を磨いていた。

 今はまだ五時くらいだぞ。

 生活リズム崩れ過ぎだろ……まあ、普段は昼に起きて、今日は徹夜の俺が言えた義理でも無いが。


「叔父さん、おはようございます」


「おや、貴志君。おはようございます、今日は早いんですね」


「まあ、その……眠れなくて」

 思わず声のトーンが下がる。


 そんな俺の様子を見て、叔父さんは心配そうに眉を顰めた。


「大丈夫ですか? 何か悩みがあるのなら言って下さい。私はこれでも貴志君も保護者ですし……その、親になりたいとも思っているんです」


「いえ……大丈夫です」

 何となく、断った。


「分かりました。困ったときはいつでも頼って下さいね」


 叔父さんはそういって優しく笑うと、再び歯を磨き始める。

 俺もその隣で顔を洗い、歯を磨き始めた。


 少し手狭になった洗面所で、シャコシャコと歯を磨く音だけが鳴り続ける。


 窓から差し込む光は、その間もどんどん赤から白へ移り変わって行った。

 まるで、夕暮れ時から時間を逆回しにしているみたいだ。

 鳥も鳴き始めて、いよいよ自分が徹夜したのだと実感する。


 叔父さんは俺を避けながら、洗面所の前に移動した。

 歯を磨き終わったようだ。

 叔父さんに続き、俺も唾液と共に水を吐き出す。


 口を拭いながら、鏡に映る自分を見た。

 目が死んでる……。

 叔父さんの目も、結構死んでいた。


 昨日、笹原さんが言っていた事を思い出す。

 叔父さんは本当に俺の事を大切に思っているという、アレだ。


 別に、だからどうという訳では無いが、何となく気が変わった。


「あの……叔父さん。やっぱ相談、聞いてもらって良いですか?」


 叔父さんは嬉しそうに笑う。


「ええ、かまいませんよ。それでは、リビングで聞きましょうか」


 叔父さんはそう言うと、軽く俺の頭を撫でた。

 少し恥ずかしかったが、決して悪い気はしない。


 叔父さんはリビングへ移動すると、コーヒーを入れ始める。


「貴志君は、牛乳と砂糖多めでしたよね?」


「はい、それでお願いします」


 叔父さんからマグカップを受け取る。

 あ、アイスコーヒーだ。

 まあ、俺のはコーヒーというよりカフェオレだが。


 叔父さんは、黙って俺が話し出すのを待っている。

 何と話し出せば良いだろうか?


 一口、コーヒーに口をつける。

 ……甘い。


「なんか、その……昨夜、カサネに……キスされまして。でも、カサネにも事情がありそうで。いや、というか、うーん」


 頭の中で、考えをまとめる。


「それで、親の親が浮気でアレだったんで……自分が同じ道を辿るんじゃないかって不安になって……眠れませんでした」


 自分では色々な事に悩んでいるつもりだったが、口に出したら随分と陳腐だった。

 叔父さんは俺の言葉を聞き、目を瞑ってたっぷり十秒ほど考える。


「まず言いたいのは、その問題に貴志君の両親は関係ないという事です」


「でも、やっぱり怖いですよ。自分が親と同じ方向に行ってるんじゃないかって……上梨を母と同じように変えてしまうんじゃないかって……」


 叔父さんは、真っ直ぐに俺を見ながら返事をする。


「貴志君、美沙さんが君の母のようになっても、それは美沙さんですよ。それに、貴志君が君の親のようになっても、やっぱりそれは貴志君です」


 叔父さんは優しく微笑む。


「貴志君は、ずっと自分がどうなりたいかを考えて頑張ってきた人だと私は思っています。だから一度ご両親の事は忘れて、自分はどうしたいかを考えてみたらどうでしょうか? 美沙さんはきっと、ちゃんと貴志君の話を聞いてくれる筈ですよ」


「……分かりました」


「頑張って下さい、貴志君ならきっと大丈夫ですよ。では、私は書斎に戻りますから、何かあったら呼んでください」


 そう言って、叔父さんはコーヒーを飲み干し立ち上がる。


「あ、叔父さん。明日、近所の博物館でミイラ展があるんで一緒に行きませんか?」


「おお、誘ってくれてありがとうございます。では、明日の十時くらいに出発しましょうか」


「あ、はい」


 俺の返事を聞き、叔父さんは少し嬉しそうに書斎へ戻って行った。

 俺もコーヒーを飲み干し、自室に戻る。


 ベッドに倒れ込み、俺は叔父さんの言葉を反芻した。


 俺や上梨がどれだけ親のようになっても、それは俺だし、上梨であると、叔父さんはそう言っていた。

 この言葉の意味は分かる。

 良い意味でも、悪い意味でも、人は他人にはなれないという意味だ。

 たしかにそれはそうだが、俺の母のようになりたくないという悩みに対する回答としては、少しズレているように感じる。


 俺は別に、自分が母になる事を恐れている訳では無い。ただ、自分のエゴを自覚無く押し付ける人間になりたくないだけだ。


 ……いや、そうか。

 そうだ、俺は自覚無くエゴを押し付ける人間になりたくないだけだ。

 そう思ったきっかけが母でも、俺がどういう人間を目指すかどうかに母は関係ない。叔父さんはきっと、そういう事を伝えたかったのだ。


 俺はもう一度、事実を整理する。

 俺は上梨と付き合っている。

 俺はカサネとキスをした。そしてそれを、俺は浮気だと思っている。


 上梨に謝るか?

 いや、それは俺の許されたいというエゴだろう。

 現状、上梨は傷ついていないのだ。


 それに、もし変に上梨に刺激を与えて、羽化を早めたら目も当てられない。

 だが、浮気をした相手と別れるという選択肢すら与えられないのは、どうなのだろう?


 上梨に振られる状況を想像する。

 ……嫌だな。


 俺は自分で思っていた以上に、上梨の事が好きだったみたいだ。


 カサネとキスした事は、上梨が人になったら伝えて、謝ろう。

 謝罪なんて、そもそも独善的な行為だが、振られるのが嫌だから黙っているというのも独善的だ。

 であれば、よりマシな方の独善を選ぶしかあるまい。


 あー、振られたくねえ。

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