第66話 恋愛

「お邪魔します」

 彼の声が玄関に響く。


「ど、どうぞ」


 遂に、鏡島貴志が私の家に入ってきた。

 どうしよう、今まで何度も会って話しているのに、とても緊張する。


 うう……考えてみると、私の臭いがしたら嫌だからといってアロマを焚いたのは、やりすぎだったかもしれない。

 ふわふわと実感を得られないまま、彼をリビングまで案内する。


「じゃあ、そこに座って」


 彼にいつも使っている椅子を勧め、私はずっと放置していた少し頼りない椅子に腰かける。


「…………」


 真正面から向かい合うように椅子を配置したのは間違いだったかもしれない。

 思わず、じっと見つめてしまう。

 彼の首筋を伝う汗や、夏の暑さに赤らんだ顔が、妙に色っぽい。


「……あのさ」

 気まずそうな顔で、彼が切り出す。


「っな、何かしら?」


「いや、飲み物とか貰えると嬉しいなって……」


「あっ、ごめんなさい。すぐにお茶を用意するから」


 私は急いで、冷蔵庫からお茶を取りに行く。


 すっかり見惚れてしまっていた。

 ……汗に見惚れるって、変態っぽいのではないか?


 自分の行動を顧みて、早くも今日を最初からやり直したくなる。


 なんだか、変だ。

 彼が家に来るとなってから、急に付き合っているのだという実感が湧いた。

 そして、実感が湧いてしまったらもうだめだ。


 心を全て曝け出して良いのか、いきなり表に出すのは違うのか、或いは少しずつ出していくのか?

 分からない。

 分からないままに、コップに注がれたお茶は完成してしまった。


 最後の抵抗として、コップに氷を入れてみる。

 ……大した時間は稼げなかった。


「おまたせ、麦茶で大丈夫だったかしら?」


「ああ、ありがとう」


 お互いに一口麦茶を飲み、再び無言になる。


 どうしよう、何か話さなければ。

 部屋を見渡し、話題を探す。


 お茶がある。

 お茶、美味しい? なんて切り出すのはどうだろう?

 いや、無いな。


 棚には、最近になって揃え始めた調味料が並んでいる。

 貴方はどの調味料が好き? とか?

 ……聞かなくても知っている、彼は辛い味付けが好きなのだ。

 更に言えば、辛さの中でも唐辛子系を好んでいる。


 私が必死で視線を彷徨わせて話題を探していると、先に彼が口を開いてくれた。


「……すまん。俺、緊張してるみたいだ」


 言われてみれば、彼の背筋は変にピンと伸びていた。

 それに、いつもは緩く上がっている口角も真一文字に結ばれている。

 そうか、彼も緊張しているのだ。


 妙に気が抜けた。

「ふふ、可愛いわね」


「いや、お前もガチガチに緊張してたろ」

 彼は不服そうに反論する。


「していないわ」

 嘘だ。

 勿論、緊張はしていた。けれど、彼にツッコんで欲しくて虚勢を張ってみる。


「いや、即答かよ。手足を同時に動かしてた癖に、言い逃れできると思ってんのか?」


「え、本当?」

 確かに緊張はしていたが、そこまでベタな事をやらかしていたとは……。


「おう、なんなら昨日もそうだったしな」


 顔が熱い。きっと私の顔は今、相当赤くなっている事だろう。


 お茶を飲んで、恥ずかしさを誤魔化す。

 ひんやりとした感覚が、喉に気持ち良い。


「……ふう。とりあえず、昼食にしましょうか」


「ああ、どっかに食べに行くか?」


「いえ、その……良ければ、私の作ったものを食べて欲しい、の、ですけれど、も」


「え、ああ、おう。それは、よろしくお願いします」


「……はい」

 手料理を食べさせるなんて、冷静に考えると私は本当にとんでもない事をやろうとしているのではないか?

 彼の様子を見るに、特に手料理への忌避感は無さそうなのが、せめてもの救いだ。


「それで、上梨は何を作るんだ? 簡単な事なら手伝えると思うが」


「オムライスを作ろうと思っているけれど、手伝いは必要ないわ。ほら、うちのキッチンあんまり広くないから」


「そうか、分かった」

 彼はそう言って椅子に座りなおす。


 ……一緒に料理も、いつかしてみたいな。

 でも最初は、やはり自分が全て作ったものを食べて欲しかった。


 そんな事を考えながら、私はエプロンを取り出しに部屋から出る。


 クローゼットから、今日の為に買ったエプロンを取り出し、鏡の前で自分の姿を確認する。

 なんだか、新婚みたいだ。

 そう頭を過った瞬間、急にエプロンを着ているという事実が恥ずかしくなる。


 いつもは料理をする時にエプロンなんてしないからだろう、鏡に映った自分が嘘っぽく感じるのだ。

 私はそっとエプロンを脱いで、リビングに戻った。


「何しに行ってたんだ?」


「……いえ、何でもないわ」

 そう言って、私は冷蔵庫から野菜を取り出し切り始める。


「上梨は料理って結構するのか?」


「いえ、始めたのは最近ね。ずっとオカルト以外の事は適当に済ませていたから……家も、明日香ちゃんが来るようになるまでは酷かったのよ」


「へえ、意外だな。割と小綺麗にしてる印象だった」


「散らかっていた訳では無いの。ただ、当時は本当に本以外は何も無かったから……」

 冷凍食品がギッシリつまった冷凍庫と空っぽの冷蔵庫は、今考えると本当に酷いと思う。


「あー、殺風景な感じか。らしいな」


「へえ、彼女にそんなこと言うのね?」

 悪戯心が湧いて来て、少し気に障った振りをする。


「あ、いや、すまん。ただ、仲良くなる前の上梨の印象がそんな感じだったからさ」


 背中越しに、焦ったような声が聞こえる。


 予想通りの反応が得られた事に満足し、私は小さく笑った。


「ふふ、別に怒ってないわ。少しからかっただけ」


「お、お前、マジで……」


 彼は随分と悔しそうだ。

 まあ、私も彼女なんて自分で言うのは恥ずかしかったのだから、痛み分けという事にしてあげよう。


 私は気分よく切り終わった野菜とベーコンをフライパンに移し、炒め始める。

 ジュージューという美味しそうな音も、今は会話の邪魔に思えてもどかしかった。


 +++++


「ごちそうさま」


 私と鏡島貴志は手を合わせ、食後の挨拶を済ませる。


 どことなく、ぎこちない挨拶になってしまった。

 一人の時はあまり意味を感じられず、いつも無言で食事を済ませるからだろう。


「この後はどうする?」

 鏡島貴志が、そう切り出す。


 これは恐らく、そろそろ明日香ちゃんの事を聞きたいという意味だろう。

 実際、明日香ちゃんに対する違和感は、私も感じた。


 でも、後もう少しの間だけ、私は彼を独り占めしたかった。


 私は無言で、彼の隣に座る。

 彼の座っている椅子は比較的横幅も広いが、それでも一人用である事に代わり無い。

 椅子の手すりと彼に挟まれて、とても窮屈だ。


「え、ちょい、上梨さん? ちょっと?」


 彼が焦っている。

 明日香ちゃんが膝に乗ってきた時と明らかに違う反応で、少し独占欲が満たされる。


「ふふ、なんだか今日の鏡島貴志は、ずっと焦ってるわね」

 まあ、私のせいだけれど。


「いや、仕方が無いだろ。俺はな、あんまりこういうのには慣れてないんだよ」


「こういうのって?」


「え、いや、なんか……好意を向けられるの、みたいな」


 やっぱり今日の鏡島貴志は、ずっと焦っている。

 私のせいで。


 彼の肩に、頭を預ける。

 こんな事をしたら酷く緊張しそうなものだけれど、私は安心感に包まれていた。


 ゆっくりと、頭だけでなく全身の体重を預けていく。

 そうしていると、身体を固くしていた鏡島貴志は次第に硬直を解いていった。


 クーラーに冷やされた肌が、彼と触れ合っている部分だけ温かい。

 彼の腕に、手を添える。


 男の人は筋肉質でゴツゴツしているなんてよく聞くけれど、思っていたよりも柔らかいな。


「……ねえ」

 小さく、口の中で声を出す。


「どうした?」

 聞こえるか分からないくらい小さい私の声を、彼は聞き逃さなかった。

 そんな事にさえ、今は安心感を覚える。


「私、やっぱり貴方の事が好きかも……」


「おう」


「今の好きは、Loveの好き、よ?」

 そんな言葉が、スッと出た。

 言ってから、自分の言葉に自分で納得する。


 私は、鏡島貴志が好きなのだ。


「ずっと曖昧なままにしていて、ごめんなさい」

 彼の体温をもっと感じたくて、彼の手を握る。


「まあ、変に答えを急いて、自分の感情を間違えるよりは良いんじゃないか?」


 彼は私の手にそっと触れ、いつもの声音でそう言った。

 それが何だかとても嬉しくて、明日香ちゃんがするように彼の肩に額を擦りつける。


 誰にも鏡島貴志を盗られてしまわないように、彼の肩に額を擦り付ける。


 鏡島貴志が私を好きになってくれるように、彼の肩に額を擦りつける。


 彼から私の匂いがしたら、少し素敵だと思った。

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